小学校 其の壱あたしは、すーっごい山奥で生まれ育ちました。そりゃあもォ、携帯電話は圏外! 最寄のコンビニまで車で15~20分!! バスは1日2本(平日のみ・朝と夕) ご近所サンは、ほぼ親戚とゆー田舎デス。 そして、あたしの初めて通った小学校は近くにある小さな小学校。 クラス編成は、1・2年、3・4年、5・6年となっていて、1つの教室に2学年。 先生は1人。 2学年と言っても、両手の指で事足りる人数。 黒板は半分ずつ。 もちろん、全校生徒は30人に満たなかったのデス。 その小学校は、保育園と繋がっていて、体育館やプールは共有。 持ち上がりなので皆仲良くやっていました。 その学校では毎年、版画カレンダー作成という一大イベントとしてやっていました。 ソレを作るときは、全校生徒総出デス。 まず、上級生の生徒の中から誰の版画がどの月になるかを選びマス。 版画が完成したら、体育館に卓球台などを並べて印刷。 あのインクの匂いは、今でも忘れられません。 ローラーでインクを板につけ、バレンと呼ばれるもので紙にそのインクを写すのデス。 完成したら、地域のいつもお世話になっている方々に配り歩きます。 版画カレンダー作りは、学校の恒例行事。 昭和の初めカラやっていたそうで、当然卒業生に当たる方々は懐かしみ、喜んで受け取っていました。 そこそこ有名だった版画カレンダー。 毎年、印刷の時期になるとローカル放送局の取材が来ていました。 あたしが小学3年生の終わり頃、正式に休校が決定。 小学4年生の時、最後の版画カレンダー製作をしました。 その時は、最後の版画カレンダーとして大々的に報道され、多くの方々に知られたそうデス。 放送局に、問い合わせが殺到。 どこで知ったのか、本州の方までもが注文してくださり(笑) 今までにない部数のカレンダーを製作したのを覚えていマス。 そして、1つの小学校の長い歴史に終止符が打たれたのデス。 あたしが、小学4年生のことでした。 そういえば、小学2年生まで・・・あたしには同学年の幼馴染が3人いました。 1人は、今も連絡を取り合っている1番近くに住んでいた広くん。 1人は、今は何をしているのかいまいちよく分からない音信不通な色白で可愛いりっちゃん。 1人は、、、いつもあたしと喧嘩をしていた、でも1番仲の良かった、たかくん。 女の子とは家が遠くてなかなか遊べなかったのですが、他の男の子2人とは家が近くてよく遊んでいました。 特にたかくんとは、いつも。 ファミコンして。 自転車で走り回って。 獲りたての野菜食べて。 牛の餌の上で遊んで。 取っ組み合いの喧嘩して。 一緒に怒られて。 一緒に泣いて。 一緒に笑ってた。 ある日、下校バスの中。 いつもの3人で話をしていて。 もうよく覚えていないのですが、あたしと広くんがたかくんのコトを笑っていたのを覚えていマス。 それに怒ったたかくんは、あたしの頭部目掛けてペンチを振り下ろしてきました。 あたしの黄色い帽子は血に染められ、急いで病院へ連れて行かれました。 幸い、怪我はたいしたことなく。 小さなたんこぶと、切り傷ができた程度でした。 バスの中に工具が置いてあったこと。 あたしと広くんがたかくんをからかったこと。 たかくんの複雑な家庭環境のせいで、少し気性が激しかったこと。 いろんなことがかさなって、その事件が起きてしまいました。 その日の夕方、たかくんとそのご両親が我が家に来て謝ってくれました。 それから・・・たかくんとまともに会話した記憶がありません。 前々から不仲だった、たかくんの両親の離婚。 それに伴い、たかくんの転校。 たかくんは母親に着いていくことにきめたのでした。 結局、最後まであたしはからかったことを謝れずにお別れしてしまったのデス。 別れの朝は、涙と嗚咽で別れの言葉さえきちんと言えなかったことが、今でも悔やまれマス。 今、ひとつ願い事が叶うなら。 たかくん。 あなたに会って謝りたい。 ご両親の離婚のきっかけは、もしかしたらあたしなんじゃないかな? そう考えると・・・。 1つめの小学校時代での思い出は、コレが1番大きいですね。 余談ですが、たかくんはカナヅチで、プール授業で担任に無理矢理プールに投げ出されました。 その担任、どーやらその後、刑務所行きになったらしく;;; 何をしでかしたかは定かではありませんが。 ちなみに、あたしは保育園のときから水泳が得意でした♪ ココまで読んでくださり、ありがとうございマス。 続きは『小学校 其の弐』で。。。 ジャンル別一覧
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