昭和がブーム、子供の頃の想い出(その8)
昭和20年、敗戦の年、私は小学校1年生だった。父はなかなか復員してこなかった。昭和21年が明けた。そのお正月にお餅は食べられなかった。闇で買ってきたもち米はほんのわずかだった。一人に二切れぐらいの餅を“すり鉢とすりこ木”で作った。お父さんが帰ってきたら皆で食べようねと約束して、保管しておいた。しかし、結局、父の帰りを待ちきれなくて、食べてしまったと記憶している。復員してくると連絡があった。郵便が来たのだと思う。父が帰ってくる日、皆で国鉄長野駅へ歩いて迎えにいった。周りの状況は良く覚えていないが、なんだか恥ずかしくて、私は駅の太い柱の陰に隠れていたことだけを覚えている。家に帰って、リュックサックから父がお土産を出してくれた。記憶にあるのは、靴下に詰めた乾パンと影絵の人形である。乾パンは、本人もひもじかったであろうのに、子供のためを思って大事にリュックにしまってきたのだと思われる。そのとき、自分がどう思ったかは覚えていない。しかし、今、思い出すとひとりでに涙が出る。その父は48歳で亡くなった。既に、亡くなって50年が過ぎてしまった。影絵の人形はインドネシアのナングクワーイであることを、それから50年近く後に、私がタイに来てから知った。ナングクワーイとラーマーヤナ物語については、私のHPを見てください。<昭和20年、第2次世界大戦が敗戦に終わった私が小学校1年生の頃の思い出をつづりました。このシリーズは今回でひとまず終了です。>