私の音楽的生活

2006/08/09(水)16:40

私の国立物語・夏休み編

日々の出来事(112)

                ↑           大学通りにそびえ立つ高層マンション             こうして見るとまるで都心のオフィス街みたいです。 私の国立物語シリーズ久々に復活です! 今日、車で国立方面に出かけたついでにふと思い立って、昔私が住んでいたぶどう園アパートを訪ねてみました。 ここに来るのはもう23年ぶりです。 最初は場所がよく分からなくなっていて、ぐるぐると探し回りました。 昔の記憶をたどりながら、周辺を車でそろそろと走ると、何だか見覚えある風景が・・・・・。 国立のSぶどう園といえば当時は有名で、住宅街のど真ん中に広大なブドウ畑が広がっていて、ここが本当に東京の住宅街かと思うほど、まるで別世界に来たような風景が見られる場所でした。 昔ながらの農家のSさん一族が代々受け継いできた土地を、農業を続けながら守り抜いてきた場所です。 東京都下といえども、ここ国立は昔から閑静な住宅街として人気のある街です。 一橋大学や桐朋学園などを抱える学生街として知られ、住民の街づくりへの意識も高く、市民運動によって、街の雰囲気を守るために駅前にパチンコ屋などの遊興施設を作らせないための条例も作られています。 おかげで、昔から他の街とは一味違うオシャレでステキな街でした。 何のコンセプトもなしに行き当たりばったりに開発されてしまったような、どこにでもある街とは一線を画している街です。 その国立のメイン通りとも言える大学通りに、周囲の景観をぶち壊す高層マンションが建ち、ひと騒動起こった話を以前私の国立物語・番外編として書きました。 また、国立のシンボルとも言える駅舎も存亡の危機に立たされていることを知り、愕然としました。詳しくはここ そんなこんなで、最近は何かと国立への望郷の念に駆られる思いがつのっていました。 そして今日は、昔の古巣であるぶどう園をふらりと訪ねてみたのでした。 昔のぶどう園は、ブドウ畑の周りに数10棟ものアパート群が建ち並び、まるで小さな村のような感じ、私のイメージでは、まるで大島弓子の描く世界のようでした。(大島弓子知ってる人は結構年齢層高いですよね・笑) そのぶどう園アパートの一角には、まだ無名だった頃の忌野清志郎さんも住んでいたのです。 私は当初は清志郎さんが同じアパート群の中に住んでいるとは知りませんでしたが、住み始めて2年くらいたった頃、同じアパートに住んでいる知り合いに聞いて驚きました。 当時はまだ世間的には無名とは言え、音楽に詳しい人々(?)の中では有名人でしたので・・・。 ちょうど初期のRCサクセションを解散して、チャボと組んでRCを再結成して大ブレイクする直前の無名時代の頃でした。 ぶどう園アパートは学生向けに建てられた、4畳半一間、風呂なし、トイレ共同という今では有り得ない簡素なアパートでした。 こんなアパートに住むのは当然、学生とか貧乏なフリーターくらいなものです(笑) 清志郎さんが住んでいたのは、古いほうのアパート群で、そこにはミュージシャンの卵、作家の卵、画家の卵など得体の知れない自由人がうごめいていました。お金はないけど夢だけは大きい人たちです。 私も、このぶどう園アパートに暮らしていた頃は貧乏なフリーターでしたので(笑)、ぶどう園で農作業のアルバイトなどをさせて貰ったこともあります。 このぶどう園の主で一族の長男のI.S氏は、ブドウの無農薬有機栽培の研究で有名な人で、農園には全国から研修生が集まって来ていました。 そして、アパート経営をしていたのは次男の方で、私の大家さんはこの方でした。 いつも家賃を払いに行くと、奥さんが応対してくれて、時々有精卵を一つ二つと下さったりしました。 私は5年もの長い間住んでおり、この大家さんの奥さんともすっかり親しくなっていたので、ついにアパートを出ることになった引越しの日には、わざわざお餞別を持って見送りにも来てくださいました。 それで、今日は突然ふらりと訪ね、まさかお会いできるとは思ってもいなかったので、母屋の庭で大家さんの奥さんの姿を見かけた時、思わず手をふって「こんにちは!」と駆け寄っていました。 年老いてはいましたが、確かにこのお顔、覚えていました。 それで、「以前、ここに住んでいた●●(旧姓)ですが、覚えていらっしゃいますか?」と訊きました。 しばらく私の顔を眺めていた奥さんは、「ああ・・・、そういえば思い出しました」と笑顔になり、「●●さんは、昔から積極的だったわよね」と答えてくれました。 奥さんはもう88歳になると言いましたが、とてもそうは見えないほど若々しくてお元気な様子です。 都会の住宅街にこれだけの土地を持っているSさん一族は、かなりの資産家ですが、奥さんはとてもそんな金持ちには見えない質素な野良着を着て、農作業の片づけをしている最中でした。 そして、「ちょうどジャガイモの収穫が終わったので、こんな小さなので良かったら持って行きませんか?無農薬なのよ」と言いながら、足もとに転がっているジャガイモを袋に詰めてくれました。 それはピンポン球くらいの大きさのジャガイモで、市場に出せない規格外のものでした。 「うわ~!ホントにいいんですか!」と、私は喜んで一緒にジャガイモを拾い集めると、紙袋いっぱいになりました。 「今はもうアパートもないし、ブドウもやっていないのよ。今はキウイをやっていて秋には収穫できるので、ぜひ食べに来てください」と奥さん。 今はもうぶどう園ではなくキウイフルーツ園になっているんですが、バス停の名前には「ぶどう園」が使われているんですよ、と言って笑います。 それだけ、ぶどう園はこの辺りでは有名だったんです。 思い出話に花を咲かせ、秋にはぜひ来ますと約束して、私は大きなジャガイモの袋を抱えて車に戻りました。 何だか、現実ではない別の世界にタイムスリップしたようなひとときでした。 周囲の街並みは時の流れともに変わってしまい、最初はまるでどこの街だか分からないような感じでしたが、ここぶどう園だけは時間の流れが止まったかのような空間がありました。 先祖からの土地を守るってこういうことなんだな、と思いました。 Sさん一族にしても、この土地で細々と農業を続けるよりも、マンションでも建てたほうが、よっぽどお金儲けができるのだと思います。 おそらく、マンション業者や不動産業者からの勧誘も嫌というほどあったに違いありません。 にもかかわらず、私がここを去って30年近くもたつのに、いまだにこの農場が健在なのは、Sさん一族が良い意味での頑固な人たちだったからだと思います。 特にここの長男の奥さんは市民運動に熱心で、国立駅周辺の環境を守るために文教地区に指定する運動をやっていたそうです。 そうした意識を持っていたから、これまでずっと業者の誘惑にも負けず、土地を守りぬけたのだと思います。 また、それだけ、S家3兄弟の結束も固かったのだと思います。 骨のある都会のお百姓さんですね。 お金より大切なものを知っている方々です。 今の日本にはだんだん少なくなっている人たちです。 あと10年後、20年後はいったいどうなっているのでしょうか? 跡を継ぐ方々がどのように判断して、この土地を処遇するのか。。。。。 できれば、ずっと街のオアシスとして、この農場を残していって欲しいな、と思いました。

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