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見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」外論-隅田肇がソビエト連邦調査で垣間見た「スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住日本人共産主義者の相互告発と粛清、そして国崎定洞」-2026年10月10日・@森夏之
国崎定洞(1894年〜1937年) ![]() ![]() 国崎定洞(1894〜1937)は、東京帝国大学医学部の衛生学助教授から革命家に転じ、モスクワで「日本のスパイ」として銃殺された。社会衛生学の先駆者として将来を嘱望された人物である。『人間 国崎定洞』より。 国崎定洞(1894年〜1937年)は、東京帝国大学医学部の衛生学助教授であり、日本の社会衛生学の創始者です。 人物像と経歴 • 生没年:1894年10月5日生まれ、1937年12月10日没(熊本市出身)。 • 学問・業績:東京帝国大学医学部を首席で卒業後、同大の助手・助教授となり、ドイツの社会医学を日本に導入した。 • 政治活動:1926年にドイツへ派遣された後、現地でドイツ共産党に入党。ドイツ共産党日本語部を結成し、責任者を務めた。 • 最期:1932年にソビエト連邦へ移住したが、1937年の大粛清の最中に日本スパイ容疑で逮捕され、銃殺刑に処された(1959年に名誉回復)。 見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」外論 隅田肇がソビエト連邦調査で垣間見た 「スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住日本人共産主義者の相互告発と粛清、そして国崎定洞」 2026年10月10日・@森夏之 要旨 1930年代のモスクワで、日本人共産主義者とその周りの人々は、互いを「日本のスパイ」として告発し、告発された者は逮捕され、多くが銃殺された。加藤哲郎の調査によれば、当時ソ連にいた日本人は80名あまりで、その大半が何らかのかたちで粛清された。互いの顔を知る小さな集団の中で、告発した者がやがて告発され、拷問のもとで他人の名を挙げさせられた者もまた銃殺された。 本稿は、計量計測データバンク「ニュースの窓」の475号から482号までに書いてきた論考を一つにまとめ直したものである。主な資料は、ソ連崩壊後に発掘された旧ソ連の文書を読み解いた加藤哲郎の研究、とくに川上武・加藤哲郎『人間 国崎定洞』(勁草書房、1995年)の加藤執筆部分と、小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』(文藝春秋、1993年)の巻末資料である。 本稿は次の順に論じる。まず、粛清が起きた条件、すなわち大テロルの規模と仕組み、分派の禁止と報告の経路を確かめる。次に、同じ1937年に人口を正しく数えた統計家たちが銃殺された事件を取り上げ、「測った事実」が罪とされた時代の性格を示す。そのうえで、1928年から1939年までの告発と供述の連鎖を一件ずつたどり、片山潜、山本懸蔵、野坂参三、国崎定洞、勝野金政、伊藤政之助の六人について、記録に残る行動を整理する。 中心に置くのは国崎定洞(1894〜1937)である。東京帝国大学医学部の衛生学の助教授で、社会衛生学の先駆者として将来を嘱望されながら革命家に転じ、モスクワで「日本のスパイ」として銃殺された人である。他の人々の告発の文書が数多く残るなかで、国崎が自ら進んで他人を告発した文書は一つも出てきていない。本稿はこのことをもって、国崎は告発しなかったと判断する。国崎は尋問には事実を答え、自筆の履歴書には不利になりうる軍歴も書き、拷問によるとみられる予審での自白を法廷で否認した。 最後に、五味川純平『人間の條件』と昆虫の行動原理という二つの枠組みを当てて記録を照らし、戦後の野坂参三の除名と伊藤律事件への残響をたどる。証言と文書を史料としてどう扱うかについても、計量の考え方であるトレーサビリティになぞらえて論じる。 序章 問題の所在――ある学生の一九七一年の問い (1)出発点となる文章 本稿は、小説『見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」』(改訂版六稿)の外論である。小説の主人公の隅田肇は、1968年に神田の専修大学法学部に入学した学生である。その隅田が、法学部四年生のときに比較政治機構論の授業でソビエト連邦を調べる場面がある。本稿の出発点に、その一節を置く。隅田がそこで垣間見たものを、ソ連崩壊後に開かれた文書によって確かめ直すことが、この外論の役割である。小説の一節であるが、そこに書いた問いは、本稿全体の問いでもある。 隅田肇が大嶋太郎教授の比較政治機構論を受講したのは一九七一年、法学部四年生のときであった。ソビエト社会主義共和国連邦の政治制度を探ることが主な内容であった。教授は多くを語らなかった。授業には毎回出ていたが、出席者が隅田一人ということもあった。教授は隅田に、何か書いて提出すれば単位を与えると指示した。 隅田はソビエトの社会制度、とくに国家を動かす官僚層を調べた。テクノクラートとも、ノーメンクラトゥーラとも呼ばれるその官僚機構は、日本の官僚機構にも似ていた。官僚層の背後には、ソビエトの国民の暮らしと、物資の生産と流通のありさまが垣間見えた。スターリンによる粛清と虐殺は、当時もある程度は知られていた。その様子も見えた。ただし、後年ソビエト連邦が崩壊し、秘密文書が出てきて明らかになったほどの酷い粛清と虐殺までは、知ることができなかった。だが、ソビエトに幻想を描くことはできないということだけは、はっきり見えた。 福島新吾は、ソビエト崩壊後に、その実態に気づかなかったことを不覚として反省の弁を述べている。大嶋太郎教授も福島新吾も政治学者であり、ソビエト通、あるいは社会主義陣営の擁護者と見られていた。経済の崩壊、官僚機構による独裁、粛清と虐殺という明らかになったソビエトの現実には、二人とも驚いたことであろう。日本共産党からコミンテルンに赴いた幹部党員たちが互いに告発し合い、その果てに粛清された経緯には、とりわけ当惑したはずだ。いまその経緯をつぶさに見ていくと、どのような主義と主張を持つ人間でも、スターリン体制のもとでは鬼畜にされかねなかったことが分かる。 そうしたなかで一つだけ救われるのは、国崎定洞(一八九四~一九三七)が仲間をスパイとして告発しなかったことである。国崎は東京帝国大学医学部の衛生学の助教授で、社会衛生学の先駆者として将来を嘱望されながら革命家に転じ、モスクワで「日本のスパイ」として銃殺された。 隅田肇はソビエト研究を通じて、ソビエトが内に抱える負の側面を確かめていた。ソビエトの社会主義は偽りの社会主義だと決めることができた。それでは社会主義の正義まで否定できるかというと、そこまでには至らなかった。社会主義への懐疑を抱きながら物事を学んでいく姿勢が、隅田の有り様となった。 (2)一九七一年に見えたもの、見えなかったもの この一節には、時の隔たりが二重に書き込まれている。 一つは、1971年の学生に見えたものと見えなかったものの差である。1956年のフルシチョフによるスターリン批判のあと、粛清があったことは西側でも東側でも知られていた。ロイ・メドヴェーデフの著作も1970年代前半には邦訳が出ている。しかし、誰が誰を告発し、どの文書によって逮捕され、いつ銃殺されたかという一人ひとりの経過は、秘密警察とコミンテルンの文書館に閉ざされていた。隅田が「ソビエトに幻想を描くことはできない」と見抜くことはできても、その中身までは知りえなかった。 もう一つは、ソ連崩壊後に文書が開かれてから見えるようになったものである。1992年、モスクワで発見された書簡によって、日本共産党の名誉議長であった野坂参三が、1939年にコミンテルン書記長ディミトロフへ同志の山本懸蔵への疑いを書き送っていたことが明らかになった。同じころ、国崎定洞の個人ファイルも見つかり、加藤哲郎がそれを読み解いた。1971年の学生が知りえなかった細部が、半世紀を経て文書の形で現れたのである。 (3)本稿の問い 本稿の問いは次の三つである。 第一に、1930年代のモスクワの日本人は、どのような条件のもとに置かれていたのか。 第二に、その条件のもとで、誰が、いつ、どの経路で、誰を告発し、その結果どうなったのか。 第三に、その中で国崎定洞はどのように振る舞ったのか。同じ条件のもとで、告発しないという行動はありえたのか。 序章に掲げた一節は、「どのような主義と主張を持つ人間でも、スターリン体制のもとでは鬼畜にされかねなかった」と書き、そのうえで国崎を「一つだけ救われる」例として挙げた。本稿は、この見方を文書に照らして確かめる作業である。 第一章 資料と方法 (1)加藤哲郎の研究 加藤哲郎(1947年生まれ、岩手県盛岡市出身)は政治学者で、一橋大学名誉教授である。主著に『コミンテルンの世界像』(青木書店、1991年)、『モスクワで粛清された日本人――30年代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』(青木書店、1994年)、『ゾルゲ事件――覆された神話』(平凡社新書、2014年)がある。 加藤は国崎の研究に、ソ連崩壊のはるか前から関わっていた。川上武・加藤哲郎・松井坦編著『社会衛生学から革命へ』(1977年)はその初期の成果である。ソ連崩壊後は、1995〜97年度の科学研究費による研究「日本人スターリン粛清犠牲者の規模とメカニズム」(課題番号07620055)で、1920〜30年代にソ連に渡った日本人の運命を調べた。その結果、犠牲者とみられる日本人は約86名にのぼった。確認の度合いは次のとおりである。 ロシア側の文書と日本側の資料の双方で確認できた者 32名 ソ連側の文書のみで確認できた者 15名 ソ連在住は確実だが1930年代に消息を絶った者 12名 日本の警察記録にあり、その後の情報がない者 20名以上 加藤の研究の特徴は、日本の特高警察の資料と、ロシア側の秘密警察(NKVD)およびコミンテルンの文書を突き合わせる点にある。一方の資料だけでは見えない「密告の連鎖」が、両者を重ねることで浮かび上がった。 なお、1992年に野坂参三の密告を最初に報じたのは、ジャーナリストの小林峻一と加藤昭である。研究者の加藤哲郎とは別人であり、混同しやすいので注意を要する。本稿の旧稿の一つ(480号)の参考文献にも、『闇の男』を加藤哲郎と小林峻一の共著とする誤りがあった。本稿で訂正する。 (2)主な資料 本稿が依拠する資料は次のとおりである。 第一は、川上武・加藤哲郎『人間 国崎定洞』(勁草書房、1995年)の加藤執筆部分である。この本は、川上が1970年と1976年に書いた国崎の伝記に、加藤が第19〜21章を書き加えたものである。加藤の担当部分は、ソ連崩壊後にコミンテルン文書館で発見された「国崎定洞ファイル」(文書番号495/280/168)に基づき、ソ連での国崎の最後の5年と、1959年の名誉回復の過程を再構成している。付録には、コテリニコフの会談記録(1934年)、関マツの供述記録(1938年)、ソ連最高裁判所の名誉回復決定書(1959年)などの訳文が収められている。本稿は、そのウェブ上の復元版と略年譜を用いた。 第二は、小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』(文藝春秋、1993年)の巻末資料である。関マツの供述や、野坂参三のディミトロフ宛書簡などが収められている。本稿は主に加藤の引用を介してこれを参照した。 第三は、計量計測データバンク「ニュースの窓」に掲載された論考である。442号「ソビエト連邦の実際」と443号「ヨシフ・スターリンの独裁体制とその犠牲」(横田)は大テロルの背景に、445号「コミンテルンにおける密告と粛清」と448号「伊藤律の『戦後』再考」(夏森龍之介)は野坂参三と伊藤律の経過に用いた。446・447号に収めた国谷哲資「回想記 北京追憶」は、北京の日本共産党非公然指導部の内部を伝える回想として用いた。 第四は、1937年のソ連国勢調査と統計家の粛清に関する資料である。英語版ウィキペディア「1937 Soviet census」、ロシア統計博物館の資料、ロシア語の人物事典にあるイワン・クラヴァリの経歴を用いた。 なお、筆者は「スターリンとコミンテルンの時代にモスクワに滞在した日本共産党の人々の粛清に関する資料の所在」(484号、2026年10月4日)として、関連資料の一覧を別にまとめている。本稿の参考文献と併せて参照されたい。 (3)告発と供述の区別 本稿では、次の二つを厳密に分けて扱う。 一つは「告発」である。自分の意思で、党やコミンテルンの経路を通じて、他人を「スパイ」や「敵」として報告すること、あるいは他人の譴責や除名を申請することを指す。山本懸蔵や野坂参三の行為がこれにあたる。 もう一つは「強制供述」である。逮捕されたのち、秘密警察の予審の取り調べのなかで、他人の名を挙げさせられたことを指す。加藤は、その多くを「おそらく拷問による」ものと推定している。伊藤政之助、国崎定洞、杉本良吉の例がこれにあたる。 この区別は、国崎定洞を論じるうえで欠かせない。国崎には後者の記録があり、前者の記録がない。本稿が「告発しなかった」と書くのは、前者についてである。 (4)「告発しなかった」と判断する根拠 国崎が告発しなかったという判断の根拠は、文書の有無の比較にある。 山本懸蔵が勝野金政と根本辰を告発したこと、国崎の名をコテリニコフに挙げたこと、伊藤政之助の除名を申請したこと、野坂参三がディミトロフに書簡を送ったこと、関マツが国際統制委員会で片山潜と野坂について疑問を述べたこと、アメ亡組の集会が仲間の譴責を申請したこと。これらはいずれも、コミンテルンや秘密警察の文書として残り、ソ連崩壊後に発見されている。 同じ文書館の同じ種類の文書のなかに、国崎が自ら進んで他人を告発した文書は一つもない。国崎の名は、告発された者として、また尋問を受けた者としては繰り返し現れるが、告発した者としては現れない。他の人々の告発の文書が数多く出ているなかで国崎のものだけが出ていないということは、国崎が告発しなかったと判断する十分な根拠になる。本稿はこの判断に立つ。 (5)方法 本稿は次の方法をとる。 事実は日付と出典を添えて書く。人物への評価は、誰の評価かを明記して引く(「加藤によれば」など)。資料の間で食い違う点は、第十章にまとめて示す。 告発した人々もまた、分派の禁止、報告の経路、粛清作戦に割り当てられた人数と期限という条件のもとにいた。本稿が告発した人と告発しなかった人を並べるのは、誰かを裁くためではない。同じ条件のもとで、別の行動もありえたことを示すためである。 第二章 置かれた状況――大テロルと報告の経路 (1)「日本人はみなスパイ」 当時のモスクワの雑誌は、「外国に居住する日本人はみなスパイであり、また外国に居住するドイツ市民もみなゲシュタポの手先であるといってもけっして誇張ではないであろう」と公言していた(メドヴェーデフ『共産主義とは何か』上、石堂清倫訳、三一書房、1973年、363頁)。加藤はこの記事を引き、ナチス・ドイツと軍国主義日本からの政治亡命者は、秘密警察NKVDにとって「偽装スパイ」の候補者であったと述べている。 日本の特高警察を逃れてソ連に渡った人々が、ソ連では「日本のスパイ」とされた。この逆説が、本稿で扱う出来事のすべてに通じている。 (2)指令と計画の日付 加藤が『闇の男』の収録資料から示すところでは、この時期の指令と計画には、日付と数値が記されている。 1934年12月 キーロフ暗殺事件。旧反対派の逮捕が始まる。日本人への監視も強まり、国崎定洞は1935年3月に履歴書を書かされる。 1937年7月3日 スターリンからNKVD議長エジョフへの粛清指令。加藤は、粛清が組織的・計画的であったことの裏付けとする。 1937年7月9、10日 『プラウダ』に論説「日本諜報機関の破壊工作」が載る。「亡命労働者、サーカス団、左翼インテリ」に紛れて潜入する日本人スパイへの警告である。 1937年7月30日 フリノフスキーによる粛清作戦の計画。対象は26万人近く。「1937年8月5日をもって開始」「4カ月で終了」と期限が定められていた。 『プラウダ』の論説が出た時点で、「亡命労働者」の伊藤政之助、須藤政尾、前島武夫はすでに逮捕されていた。「サーカス団」で入ソしたヤマサキ・キヨシは論説の直後の7月22日に逮捕された。「左翼インテリ」の最初として国崎定洞が逮捕されたのは8月4日の深夜で、作戦開始の前夜にあたる。加藤はこれを「NKVDにとっては粛清ノルマ達成の一手段」と評している。 (3)大テロルの規模 モスクワの日本人の粛清は、ソ連全体の大テロル(1936〜38年)の一部である。ソ連崩壊後の公文書研究によれば、その規模と仕組みは次のとおりである(横田「ヨシフ・スターリンの独裁体制とその犠牲」443号による)。 1937年7月30日のNKVD命令第00447号は、地方の「トロイカ(三人委員会)」による裁判外の処刑に、地域ごとの数値目標を割り当てた。この作戦では66万9,929人が逮捕され、37万6,202人が処刑された。加藤が引くフリノフスキーの計画書(7月30日付、26万人近く)は、日付からみてこの作戦の当初の計画にあたると見られる。 1937〜38年の処刑数は、ソ連内務省の公式統計で68万1,692人である。即決裁判にかけられた134万4,923人のうちの数である。 民族を単位とする作戦も並行して行われた。ポーランド人を対象とした作戦では14万3,810人が逮捕され、11万1,091人が処刑された。1937年には極東の朝鮮人が集団で強制移住させられた。 大テロルは、1938年11月17日の党・政府の共同決定で公式に終息した。NKVD長官エジョフ自身も、失脚したのちに処刑された。 日本人の逮捕の日付をこの期間と並べると、国崎定洞(1937年8月4日)、山本懸蔵(同11月2日)、アメ亡組7人(1938年3月22日)の逮捕は、いずれも00447号作戦の開始から1938年11月の終息までの間に入る。一方、山本懸蔵(1939年3月10日)と杉本良吉(同10月20日)の銃殺は、終息決定の後に執行された。作戦が終わっても、すでに捕らえられた者の手続きは止まらなかったのである。 (4)告発がそのまま処罰につながった仕組み 告発がそのまま処罰につながった背景には、ソ連の統治の仕組みがある(横田「ソビエト連邦の実際」442号による)。 第一に、1921年の第10回党大会が党内の分派を禁止し、反対派は組織として存在できなくなった。民主集中制のもとでは、決定の後に異論を唱えることは許されなかった。 第二に、1936年のスターリン憲法は、普通・平等・直接・秘密の選挙と言論の自由を掲げ、「世界で最も民主的な憲法」と宣伝された。しかし、権利を実際に守る違憲審査の仕組みを欠いていた。大テロルはその採択(1936年12月5日、第8回臨時ソビエト大会)の直後に始まっている。なお442号は制定日を12月25日としているが、本稿では採択日の12月5日を採る。 第三に、1922年に設けられた検閲機関と秘密警察が、表現と結社を監視した。 第四に、1934年の党大会で選ばれた中央委員139人のうち約7割が、主に1937〜38年に逮捕・銃殺された。党の頂点にいる人々でさえ、逃れられなかった。 (5)報告の経路 モスクワの日本人についての告発は、決まった経路をたどった。日本共産党のモスクワ代表から、コミンテルン東洋部(日本担当はヤ・ヴォルク)または組織部(「札付きの密告魔」と恐れられたコテリニコフ)へ。そこからコミンテルンの国際統制委員会を経て、NKVD(その前身はGPU)へと情報が渡った。加藤によれば、情報は即刻NKVDに伝えられた。 日本共産党のモスクワ代表には、この小さな集団の中で次の権限があった。クートベ(東洋勤労者共産主義大学)への入学の可否に意見を述べること。党員の譴責や除名を国際統制委員会に申請すること。コミンテルンの担当者に仲間について報告すること。代表の地位にあった者の一言が、仲間の運命を左右したのである。 加藤は、国崎粛清の主たる直接の理由を、政治的な要因よりも「在モスクワ日本人内部の疑心暗鬼の人間関係」に求めている。条件を作ったのは国家であったが、その条件のなかで誰の名が経路に入れられるかは、人と人との関係によって決まった。 第三章 測った数字が裁かれる――1937年ソ連国勢調査と統計家の粛清 (1)計量史の視点から 計量の歴史は、単位や標準器、測定技術の歴史である。同時に、「測った数字を社会が信頼できるか」という制度の歴史でもある。本章は、後者の視点から、国崎定洞が逮捕されたのと同じ1937年に起きた統計の悲劇を取り上げる。人を告発する仕組みと、測った数字を罪とする仕組みは、同じ時代の同じ体制から生まれている。 (2)1937年国勢調査の実施と抹殺 1937年1月6日の国勢調査で数えられたソ連の人口は、1億6,203万9,470人であった。出生と死亡の登録から予想された1億7,000万〜1億7,200万人を、大きく下回った。スターリン自身は、約1億8,000万人を見込んでいたとされる。 この差は、1932〜33年の飢饉や弾圧による「不自然な死」を、数字の上であらわにしていた。測定は正しく行われていた。問題は、その結果が体制の主張と合わなかったことにある。 統計局の人口部長ミハイル・クルマンは、統計局長イワン・クラヴァリに宛てて、1926年12月17日と1937年1月6日の国勢調査の間の人口の自然移動についての覚書を書き、この差を説明しようとした。国勢調査の結果と人口の推計との差は、後に「クルマンの空白(クルマン・ギャップ)」と呼ばれるようになる。1937年1月24日、クラヴァリはスターリンとモロトフに、予備的な結果として、NKVDと軍の特別部隊、列車や汽船の乗客を除く人口を1億5,600万人と報告した。 1937年9月25日、人民委員会議(政府)は、この調査に「統計科学の原則に対する甚だしい違反」があったとして無効とし、翌日の『プラウダ』がこれを報じた。調査の資料は「欠陥」とされ、機密扱いとなって廃棄された。『プラウダ』の社説は、「人民の敵は実際の人口数を歪めるためにあらゆる手を尽くした」と書いた。宣伝用の冊子『扇動者ノート』(1938年)は、統計局の指導部に潜入した「トロツキスト・ブハーリン派のファシストの工作員」を、イェジョフの率いる「栄光ある」情報機関が打ち破ったと書いている。 (3)統計家たちの粛清 調査を担った統計家たちは、1937年のうちに次々と逮捕された。 国勢調査局長オリンピー・クヴィトキン、人口部長ミハイル・クルマン、国勢調査局次長ラザリ・ブランド、運輸・通信統計部の次長イワン・オブローモフの四人は、1937年3月31日に逮捕された。 統計の最高責任者であったイワン・アダモヴィチ・クラヴァリ(1897〜1937)は、ラトビア人で、労働経済学と統計学の専門家であり、経済学博士であった。第一次五カ年計画の策定に参加し、1935年から国家計画委員会の副委員長と国民経済計算中央局の長官を兼ねていた。クラヴァリは1937年5月22日に解任され、5月31日にスパイ活動、破壊工作、テロ活動の容疑で逮捕された。8月21日にソ連最高裁判所軍事参与会で死刑を宣告され、9月26日に銃殺された。調査の無効が『プラウダ』で報じられたのと同じ日である。遺体はモスクワのドンスコイ墓地に葬られた。1956年9月29日に名誉回復されている。 各地方の統計機関の長も逮捕された。クルマンら四人のその後の運命は、本稿が参照した資料では確定できなかった。ロシア語の人物事典や「メモリアル」の犠牲者データベースで確かめる必要がある。 統計家たちは、人口を少なく見せる「破壊工作」をしたとして罪を問われた。測定の誤りではなく、測定の結果そのものが罪とされたのである。計量史の上でも、まれな事例である。 (4)1939年の再調査と「望まれた数字」 1939年1月17日にやり直された国勢調査の最終結果は、1億7,055万7,093人であった。この数字には、50万〜150万人が上乗せされていたと推定されている。二年の間に人口が約850万人増えたことになり、上乗せ分を差し引いても、自然な増加だけでは説明しがたい伸びである。 注目すべきは設問の変化である。1937年の調査にあった信仰についての設問は、1939年の調査票から消えていた。1937年には、無神論を掲げる政権のもとでも、多くの人が信仰があると答えたためとされる。 測る前に「何を測らないか」を決めることも、数字を動かす方法になる。計量史からみれば、測定の設計そのものが政治に従った例である。 (5)度量衡の近代化との対照 ソビエト政権は、1918年9月14日の人民委員会議の布告で、メートル法を義務とした。その土台は、帝政期の化学者ドミトリー・メンデレーエフが築いていた。1842年にペテルブルクに標準度量衡器の保管所が置かれ、1893年にメンデレーエフのもとで度量衡中央局に改組され、1899年にはメートル法の任意使用が認められていた。 度量衡の統一は、革命政権にとって「近代化」と「国際標準への参加」を示す政策であった。その同じ政権が、20年後には、人口という最も基本的な量の測定結果を拒んだ。物理的な単位は国際標準に従いながら、社会を測る数字は政治に従わせたのである。1930年代に度量衡の研究者や技術者が粛清の対象となったかどうかは、本稿の資料では確かめられなかった。メンデレーエフ計量研究所(VNIIM)の所史に当たる必要がある。 (6)国崎定洞の社会衛生学 国崎定洞が専攻した社会衛生学は、貧困や労働条件といった社会の状態が、病気や死亡にどう影響するかを、統計によって示そうとする学問である。国崎は1924年に東京帝国大学医学部の助教授となり、翌年に衛生学教室へ移った。1926年に留学したベルリンは、当時の社会衛生学の中心地の一つであった。 測った数字が社会の不正を示すなら、その改善を求める。国崎の歩みには、この考え方が通っている。その国崎が、人口を正しく数えた統計家たちと同じ年に、同じ恐怖政治のなかで殺された。クラヴァリが銃殺されたのは1937年9月26日、国崎が銃殺されたのはその二か月半後の12月10日である。この符合は偶然であるが、「事実を測る者」が危うくなる時代だったことを象徴している。 国崎が社会衛生学の研究で統計をどう使ったかは、川上武・加藤哲郎・松井坦編著『社会衛生学から革命へ』(1977年)に収められた論文で確かめる必要がある。 (7)記録は残った 廃棄を命じられた1937年の国勢調査の資料は、一部が残った。1956年に一部が公表され、全体のデータはソ連崩壊後の1992年にようやく刊行された。国崎定洞のファイルが見つかったのも同じ1992年である。測定の記録と、人についての記録は、ともに半世紀を経て戻ってきた。記録が残っていれば、いつか事実は戻ってくる。それは計量の歴史が教える、記録を残すことの意味でもある。 第四章 告発の連鎖――1928年から1939年まで 本章では、告発と供述の連鎖を、時期の順に四つの段階に分けてたどる。最後に、確認できた14件を一つの表にまとめる。 (1)片山潜と山本懸蔵の対立(1928〜1930年) 山本懸蔵は、1928年の三・一五事件の際、重い結核を理由に逮捕を免れ、警官の監視をかいくぐって自宅を脱出した。6月にソ連に密入国し、プロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)の日本代表としてモスクワに留まった。この脱出は当時、「武勇伝」として報じられた。 コミンテルン執行委員であった片山潜は、この脱出が特高警察の関与なしに可能だったかを疑い、コミンテルン執行委員会で問題にした。1929年秋から1930年春にかけての査問では、証拠不十分とされた模様である。1930年12月には、片山は来欧中の医師馬島僴をモスクワに呼び、山本の入ソの事情について証言と始末書を取ろうとした。 このほか、山本は片山の次女千代のクートベ入学と、父との同居に強く反対した。また、山本が推薦した船員の一人(ニコライフ、日本名は石田某)が日本大使館に逃げ込み、片山はこれを山本の責任として問題にした。 1938年の関マツ(山本の妻)の供述と、1939年の野坂参三の書簡は、いずれも、山本への「疑惑の噂」がベルリンの日本人を通じて片山に伝わったと記している。加藤は、山本がこれを国崎定洞の告げ口と思い込んでいたとみている。 加藤は、片山と山本は「はじめから肌が合わなかった」と書いている。アメリカでの長い活動を経た国際派の老闘士と、日本の労働運動の現場から出た活動家との対立である。 (2)勝野金政と根本辰の告発(1930年秋) 片山がコーカサスに療養に出た留守に、山本は東洋部のヤ・ヴォルクを通じて、片山の秘書の勝野金政と、国崎の紹介で入ソした根本辰を、「日本のスパイ」としてGPUに告発した。 勝野金政は早稲田大学からパリ大学に学び、フランス共産党に入って1928年に国外追放となり、ベルリンの国崎宅を経てモスクワに入った人である。片山の私設秘書となり、東洋学専門学校で日本語を教え、ソヴェト作家同盟と関わって小説も発表していた。勝野はソ連刑法第56条スパイ罪で懲役5年とされ、白海のラーゲリ(強制収容所)に送られた。根本辰は京都帝国大学の出身で、国外追放となった。 加藤はこの告発を、「自分を告発した片山潜への、山本懸蔵の間接的報復」とみている。また、京大出の根本やパリに学んだ勝野は、山本の考える「階級的労働者」の適格者ではなかったとも書いている。加藤は二人の告発を「根も葉もないデッチ上げ」とし、二人は「社会主義を信じる純真な青年」だったと評している。二人の入ソには、いずれも国崎の紹介が関わっていた。 (3)国崎定洞への告発(1932〜1935年) 国崎定洞は1932年9月、片山に招かれて、ドイツ人の妻フリーダと娘タツコとともにベルリンからソ連に亡命した。山本は国崎のクートベ大学院への入学に反対し、入学に賛成した野坂参三との関係も悪化した。片山は1933年11月に死去し、野坂は1934年初めにアメリカへ渡った。 1934年6月、刑期を短縮されてラーゲリから出た勝野金政は、モスクワの日本大使館員の家に逃げ込み、8月に日本へ帰国した。当時の日本人共産主義者にとって、日本大使館は「特高スパイの巣窟」と見なされ、近寄ることも禁じられていた場所である。 勝野の脱出の後、事情を聴取された山本は、1934年9月19日のコテリニコフとの会談で、国崎を勝野とつながるスパイの容疑者として挙げた。その内容は次の三点である。 一、勝野金政も根本辰も、国崎の推薦で入ソした。 二、ベルリンの日本人グループ(千田是也、平野義太郎、勝本清一郎ら)は総じて「党に対して反対」であり、警察はその助けで党員を知ったであろう。日本に帰った勝本や平野は「ファシスト」に転向した。 三、国崎は最近も、身元の分からない日本人と会っている。 この告発を受けて、10月10日、国崎と同僚の野坂竜(野坂参三の妻)がコテリニコフの尋問を受けた。このときの二人の応じ方は、第六章で詳しく述べる。情報は国際統制委員会を経てNKVDに渡り、1935年2月9日、コミンテルン東洋部からNKVDへ「国崎定洞に関する報告」が送られた。国崎の逮捕の二年半前である。国崎は外国労働者出版所の職を解かれ、NKVDの監視下に置かれた。 (4)伊藤政之助の除名と供述(1936〜1937年) 伊藤政之助は、共同印刷の活版工の出身で、クートベに学んだ日本共産党員である。1928年7月にクートベから帰国して入党し、10月に検挙された。1929年10月に偽装転向の誓約書を書いて病気で仮釈放され、1930年6月に「党の許可なく」ソ連に入り、ウラジオストクで働いた。このことで、山本から譴責処分を受けている。 1933年12月、日本語の印刷所をつくるため、野坂参三が伊藤をモスクワに呼び寄せた。伊藤は外国労働者出版所の日本課で国崎の部下となり、ナリマノフ東洋学専門学校では国崎の教え子でもあった。1935年には、山本と野坂がそろって伊藤を査問し、再び譴責処分とした。 1936年5月に野坂が再び渡米すると、山本は8月4日付で無許可入ソの過去を蒸し返し、国際統制委員会に伊藤の除名を申請した。その後の経過は次のとおりである。 1936年10月29日 国際統制委員会で除名を決定 1936年11月10日 ヤ・ヴォルクが身柄引き渡しの報告書を作成 1936年11月25日 逮捕 1937年9月14日 スパイ、撹乱、テロ活動の罪で銃殺を宣告され、同日執行 1990年8月13日 ソ連の大統領令で名誉回復 伊藤は拘留中に、加藤によれば「おそらく拷問により」、国崎とのつながりを「自白」させられた。これが国崎の有罪の根拠の一つとなった。 (5)国崎定洞の逮捕と銃殺(1937年) 国崎は1937年8月4日の深夜、「日本のスパイ」として逮捕され、12月10日に銃殺された。1959年10月29日の名誉回復決定書は、有罪の根拠として次の三つを挙げている。 一、国崎自身の予審での自白(法廷では否認した) 二、タケウチ=伊藤政之助の供述 三、元在東京ソ連大使館員A・S・ビリチの供述 罪状は、「日本軍参謀本部諜報部将校タケダの命を受けて、1924年から……スパイ、テロ及び裏切り行為を行った」というものである。「タケダ」という将校の実在は確認できず、加藤は、国崎の履歴書に記された軍歴に合わせたデッチ上げと判断している。加藤によれば、山本懸蔵、アメ亡組、杉本良吉・岡田嘉子の事例でも、同じように日本人の指令者の名が作り出されている。 名誉回復決定書によれば、国崎の予審での自白には、教え子である「アメ亡組」の島正栄、宮城與三郎、照屋忠盛、又吉淳の名が含まれていた。 (6)アメ亡組 「アメ亡組」とは、アメリカで労働運動に加わって国外追放となり、1932〜34年にソ連に渡った人々で、多くは沖縄の出身である。国崎はナリマノフ東洋学専門学校で彼らを教え、4年以上にわたってグループの党集会に毎月出席していた。 国崎が逮捕された1937年8月、メンバーの照屋忠盛らは、片山潜の娘ヤス(非党員)に、国崎の逮捕について尋ねた。グループは集会を開いてこれを「誤謬」として批判し、「若し再びかかる誤謬を犯す時は党から除名すると云ふ警告付きの譴責」の申請を決議した。8月下旬、山本懸蔵は、逮捕された国崎はコミンテルン日本部と「何等関係がない」とし、疑問があれば党外の片山ヤスにではなく「内務省[NKVD]或は党の組織を通じてやる可き」だと述べた。グループの申請書の書き手(箱守改造とみられる)は、国崎の「仮面を観破し得なかった事」について、自分たちに自己批判の必要があると書いている。この申請書は旧KGBの個人ファイルに残され、フジテレビ報道局が収集したものである。 このグループのうち7人は、1938年3月22日に一斉に逮捕され、5月29日に銃殺された。照屋忠盛は容疑を否認し続け、強制労働5年の判決を受けた。その後の消息は分かっていない。照屋の逮捕の日は資料によって3月15日とも書かれており、照屋が他の7人とは別に逮捕されたとすれば、8人のうち7人が銃殺され、照屋一人が銃殺を免れたという記述と矛盾しない。この点は第十章で扱う。 なお加藤は、アメ亡組7人の逮捕のきっかけは国崎の自白だったろうとしながら、彼らの供述書では、国崎よりも野坂参三との関係が追及されているとも述べている。 (7)山本懸蔵の逮捕と銃殺(1937〜1939年) 国崎の名を挙げた山本懸蔵は、前島武夫と伊藤政之助の供述をもとに、1937年11月2日、「日本陸軍のスパイ」の容疑で逮捕された。逮捕の根拠とされた供述には、1936年に山本自身が除名を申請した伊藤のものが含まれている。加藤によれば、罪状には、片山がかつて問題にした1928年の自宅脱出とソ連越境の件が関わっていた。アメ亡組に「疑問は内務省を通じて」と述べてから、わずか2か月余りの後である。 山本の逮捕後、1938年11月に妻の関マツがコミンテルン国際統制委員会に召喚され、20日、23日、26日の三日にわたって尋問された。『闇の男』によれば、この場にはディミトロフ、クーシネン、ピークとともに、アメリカから戻った野坂参三が出席し、山本を告発した。関マツはその場で、山本が国崎を早くから疑っていたと述べ、国崎の入学を支持した故片山潜と野坂参三についても疑問を述べた。関マツは同年12月31日付で日本共産党から除名された。 1939年2月22日、野坂参三はディミトロフに書簡を送り、山本の1928年の脱出を「奇妙」なものとして疑いを述べた。山本夫妻を憲兵隊のスパイと疑う内容である。加藤はこれを、自己の保身をはかった密告と評している。山本はすでに1937年11月から拘留されており、この書簡が処刑の決定にどれだけ関わったかは、本稿の資料では確認できない。山本は1939年3月10日に銃殺された。1956年5月23日、ソ連で名誉回復されている。 (8)杉本良吉と岡田嘉子 演出家の杉本良吉は、1938年1月3日、女優の岡田嘉子とともに樺太の国境を越えてソ連に入り、直後に逮捕された。加藤によれば、杉本は拷問のもとで、演出家佐野碩や、ソ連の演出家メイエルホリドとの関係を「スパイ・グループ」として自白させられ、それがメイエルホリドの逮捕と銃殺の口実となった。杉本は1939年10月20日に銃殺された。岡田嘉子はラーゲリを経て生き延び、1992年2月10日に死去した。 佐野碩と、土方与志・梅子夫妻は、国崎の逮捕の直後の1937年8月12日に国外追放となった。このほか、矢印の経路は分からないが同じ時期に粛清された人々に、須藤政尾(1937年銃殺)、ヤマサキ・キヨシ(1937年7月22日逮捕)、野坂竜(のちに逮捕)、ネフスキーと日本人の妻萬谷イソ(1937年銃殺)がいる。 (9)告発と供述の一覧 資料で確認できた告発と供述は14件である。告発した者から告発された者への「矢印」を、時期の順に並べる。「強制供述」は、拷問によると推定される予審での自白を指す。 1 片山潜 → 山本懸蔵 1929〜30年 コミンテルン執行委員会 証拠不十分。ただし1937年の罪状に尾を引く 2 山本懸蔵 → 勝野金政 1930年秋 ヤ・ヴォルク→GPU 懲役5年、白海のラーゲリ。1934年8月に帰国 3 山本懸蔵 → 根本辰 1930年秋 ヤ・ヴォルク→GPU 国外追放。1938年病死 4 山本懸蔵 → 国崎定洞 1934年9月19日 コテリニコフ→国際統制委員会→NKVD 1935年2月からNKVDの監視下 5 山本懸蔵 → 伊藤政之助 1936年8月4日 国際統制委員会→ヤ・ヴォルク 1936年11月25日逮捕、1937年9月14日銃殺 6 伊藤政之助(強制供述) → 国崎定洞 1936〜37年 NKVDの尋問 1937年8月4日逮捕、12月10日銃殺 7 ビリチ(供述) → 国崎定洞 1937年 NKVDの尋問 同上。国崎との具体的なつながりは不明 8 国崎定洞(強制供述) → アメ亡組(島正栄、宮城與三郎、照屋忠盛、又吉淳) 1937年 NKVDの予審 1938年3月に逮捕、7人が5月29日銃殺、照屋は強制労働5年 9 前島武夫・伊藤政之助(強制供述) → 山本懸蔵 1937年 NKVDの尋問 1937年11月2日逮捕 10 野坂参三 → 山本懸蔵・関マツ 1938年11月、1939年2月 国際統制委員会、ディミトロフ宛書簡 関マツは1938年12月31日除名、山本は1939年3月10日銃殺 11 関マツ → 片山潜(故人)・野坂参三 1938年11月26日 国際統制委員会 野坂は粛清を免れる 12 杉本良吉(強制供述) → 佐野碩・メイエルホリド 1938年〜 NKVDの尋問 メイエルホリドの逮捕・銃殺の口実。杉本は1939年10月20日銃殺 13 野坂参三 → 伊藤律 1950年代 日本共産党 除名。中国で長期の拘禁ののち1980年9月3日帰国 14 (旧ソ連文書の公開) → 野坂参三 1992年 『週刊文春』の報道 1992年12月27日除名 このほか、1937年8月のアメ亡組の集会による仲間の譴責の申請と、1937年9月11日のドイツ共産党員ライトネル・マックスによる国崎についての「怪しかった」という供述がある。後者は国崎の逮捕と除名の後のもので、加藤は「副次的」としている。 14件のうち7件に、山本懸蔵が告発者または被告発者として関わっている。3件は国崎定洞に向けられている。 表の人物を、告発したか告発されたか、その後どうなったかで分けると、次のようになる。 告発し、自らも粛清された者 山本懸蔵、関マツ 強制供述で他者を巻き込み、自らも銃殺された者 伊藤政之助、国崎定洞、前島武夫、杉本良吉 告発され、生き延びた者 勝野金政(帰国)、根本辰(追放)、照屋忠盛(強制労働、のち行方不明)、伊藤律(幽閉ののち帰国) 告発し、粛清を免れた者 野坂参三(1937年はアメリカに滞在) 加藤によれば、当時ソ連にいた日本人のうち、逮捕も追放もされなかったのは、野坂参三と片山潜の娘ヤスぐらいである。『闇の男』は、野坂と山本の確執のはざまで「およそ25人」が粛清されたとしている。 (10)連鎖の型 この連鎖からは、四つの型が読み取れる。 第一に、告発の相手である。山本が告発した勝野、根本、国崎は、いずれも片山潜に近い人々であった。山本は、自分への疑いを片山に伝えたのはベルリンの国崎だと思い込んでいた、と加藤はみている。 第二に、告発の経路である。告発はいつも、日本共産党の代表からコミンテルンの担当者へ、国際統制委員会を経てNKVDへという同じ経路をたどった。山本自身がアメ亡組に「内務省を通じて」と説いた経路であり、山本はその経路によって逮捕された。 第三に、供述に挙げられた人である。伊藤政之助は上司の国崎を、国崎は教え子のアメ亡組を、前島と伊藤は山本を、杉本は佐野碩とメイエルホリドを挙げさせられた。いずれも職場、師弟、交友の関係にある人である。加藤はこの逮捕の広がり方を「芋蔓式」と記している。 第四に、罪状の作られ方である。「タケダ」のように、指令者の名は後から作られた。粛清作戦には人数と期限が定められており、罪状はその枠に合わせて作られたのである。 第五章 記録から浮かび上がる六人の姿 本章では、記録の比較的多い六人について、記録に残る行動、同時代人と研究者の評、記録の及ばないところを整理する。ここで「姿」とは、記録に残る行動から見える範囲の、その人のありようを指す。人格の全体を描くことは、本稿の資料ではできない。人柄に関わる言葉は、誰の見方かを示して引く。 (1)片山潜(1859〜1933) 片山潜は、アメリカでの長い活動を経てモスクワに入り、コミンテルン執行委員となった。六人の中で最年長であり、大テロルの前、1933年11月に病死している。 記録に残る行動は、山本懸蔵の脱出への疑いをコミンテルン執行委員会で問題にしたこと(1929〜30年)、山本や佐野学と対立し、国崎らベルリンのグループと秘書の勝野の協力を得たこと、国崎とともにソ連に入って「自伝」の完成に国崎の協力を得たこと(1932年)である。加藤によれば、片山は死ぬまで山本を「特高のスパイ」と疑い続けた。 晩年の片山について、加藤は「レーニン死後の指導者スターリンを支持する以外にモスクワで余生を送る手だてはなかった」と書いている。1929年、片山は次女の千代を日本から呼び寄せた。コミンテルンの幹部クーシネンらは、片山の履歴書に家族の記載がないことを確かめ、千代を日本の警察のスパイと疑った。加藤は、片山がおそらく経歴詐称を自己批判したと推定している。千代は国外追放を免れたが、クートベへの入学も父との同居も認められず、レニングラードの工場で「学習」することになった。1946年の死の直前、千代は病院から姉のヤスに「早く迎えにきてくれ」と手紙を出していたという。加藤はこの件について、共産主義者は個人の人権や家族よりも党を優先すべきものとされていた、と記している。 片山は死後も告発の対象とされた。1938年の国際統制委員会で、関マツは「故同志カタヤマ」についても疑問を述べている。 勝野金政は帰国直後の『赤露脱出記』(1934年)で、片山を「子どものように純粋な老闘士」として描いた(加藤の要約による)。勝野は片山の秘書であり、山本とは対立していた人である。 山本への査問で片山が何を述べ、山本がどう答えたかは、加藤も「不明」としている。「疑惑の噂」がどこから来たかについては、野坂参三と関マツが1938〜39年に、ベルリンの国崎らを通じて伝えられたと述べているが、それは粛清の最中に二人が述べたことである。 (2)山本懸蔵(1895〜1939) 山本懸蔵は茨城県に生まれ、労働運動から共産党に加わった。プロフィンテルン日本代表としてモスクワに留まり、野坂の渡米後は日本共産党のモスクワ代表であった。1936年2月には、野坂との連名で「日本の共産主義者への手紙」を発表し、人民戦線を訴えている。 山本は、密告する側であり、同時に密告されて殺された側でもあった。この二重性こそ、スターリン時代のコミンテルンを象徴している。記録に残る行動は、第四章でたどったとおりである。片山千代の入学への反対(1929年)、勝野と根本の告発(1930年秋)、伊藤の譴責(1930年頃)、国崎の入学への反対(1932〜33年)、国崎の名を挙げた会談(1934年9月)、伊藤の除名申請(1936年8月)、アメ亡組への「内務省を通じて」の発言(1937年8月)。そして1937年11月2日に逮捕され、1939年3月10日に銃殺された。 勝野は『赤露脱出記』で、山本を「権謀術数の陰謀家」として描いた(加藤の要約による)。勝野は山本に告発され、ラーゲリを経験した人である。加藤は、山本による勝野と根本の告発を片山への「間接的報復」とみ、山本は自分への疑いを国崎の告げ口と思い込んでいた、とみている。 死後、日本共産党は長く山本を「病死」としてきた。1992年に銃殺の事実を発表し、1994年の『日本共産党の七十年』では山本を顕彰している。 1928年の脱出に特高警察が関わったかどうかは、本稿の資料では分からない。片山の疑いが正しかったとも、誤っていたとも言えない。逮捕後の山本が何を供述したかも、本稿の資料にはない。 (3)野坂参三(1892〜1993) 野坂参三は、1930年代前半にモスクワで日本共産党を代表し、その後は任務を帯びてアメリカに渡った。戦後は日本共産党の議長、名誉議長を務めた。六人の中で大テロルの時期を生き延びたのは、野坂と勝野の二人である。告発した側で生き延びたのは、野坂だけである。 記録に残る行動は次のとおりである。1933年12月、日本語の印刷所をつくるため伊藤政之助をモスクワに呼び寄せた。1934年初めに渡米し、同年10月には妻の竜が国崎とともに尋問を受けた。1936年5月に再び渡米し、粛清の最も激しかった1937年をアメリカで過ごした。1938年11月には国際統制委員会で山本を告発し、1939年2月にはディミトロフに山本への疑いを書き送った。 戦後、山本を「1941年4月の病死」とする党の説明は、野坂の証言に拠っていた。国崎についても、野坂は勝本清一郎に「必ずソ連のどこかに生きています」と答えている。1975年以降も、大森実との対談で国崎を「すばらしい理論家なんです」と述べたのみであった。1989年の自伝『風雪のあゆみ』第8巻で、国崎、山本、妻竜の逮捕に一定程度触れたが、加藤はその記述を「著しく粉飾されていた」と評している。加藤によれば、野坂と竜は国崎の逮捕の事情を知りながら、遺族や友人に伝えなかった。 関マツは1938年の供述で、「同志オカノ」(野坂の党名)は国崎を信用していたと述べている。加藤は、1939年の書簡を「自己の保身」のためのものとみている。 1939年の書簡が、すでに拘留されていた山本の判決にどれだけ影響したかは、本稿の資料では分からない。妻竜の逮捕の日付と経路も、確認できない。 (4)国崎定洞(1894〜1937) 国崎定洞は熊本市に生まれ、東京帝国大学医学部を首席で卒業し、同大学の助手、助教授となった。ドイツの社会医学を日本に導入した社会衛生学の先駆者である。1926年にドイツに派遣され、1927〜28年にドイツ共産党に入党した。1929年に東京帝国大学を依願免官となり、同年末にドイツ共産党日本語部を組織して責任者となった。1932年にソ連に移り、1937年に銃殺された。国崎の党籍は、最後までドイツ共産党であった。 国崎については第六章で詳しく述べる。ここでは同時代人の評だけを記す。 ベルリンで国崎とともに活動した千田是也は、国崎を「クニさん」と呼んで尊敬していた、と加藤は書いている。経済学者の有沢広巳は晩年、国崎が日本に帰っていれば社会衛生学に大きな影響を与えただろうと、その才能を惜しんだという(娘の回想による)。関マツの1938年の供述によれば、野坂、ヤ・ヴォルク、片山は国崎を信用し、山本は信用していなかった。 (5)勝野金政 勝野金政は早稲田大学からパリ大学に学び、ベルリンの国崎宅を経てモスクワに入った。六人の中で、ラーゲリを経て日本に帰国した唯一の人である。 1930年に山本に告発されて懲役5年とされ、白海のラーゲリで3年半働かされた。1934年6月に減刑で出獄し、片山のもとに戻ろうとしたが、片山はすでに亡くなっていた。ソ連共産党の党籍があったので再審と名誉回復を求めたが、取り合ってもらえなかった。モスクワの日本大使館員の家に駆け込み、8月に帰国した。帰国後は検挙され、転向している。 帰国した年に『赤露脱出記』を刊行し、のちに『ソヴェート滞在記』(1937年)、『藤村文学』(1972年)、回想「ラーゲリを逃れて」(1973〜74年)、『凍土地帯』(1977年)を書いた。 勝野の帰国は、モスクワに残った人々の運命にも関わった。加藤によれば、帰国の直後に山本が事情を聴取され、そこで国崎の名が挙がった。勝野の経過は、本稿で扱う逆説の一つの典型である。フランスを追われてソ連に入り、ソ連で「日本のスパイ」として収容所に送られ、日本大使館を経て帰国し、日本で検挙されて転向した。 片山と山本の対立の中で勝野がどのような役割を果たしたかは、加藤も「定かでない」としている。帰国後に日本の当局に何を述べたかは、本稿の資料にはない。 (6)伊藤政之助 伊藤政之助は、六人の中でただ一人、自分の書いた文章も、自分について書かれた回想も、本稿の資料にほとんど残っていない人である。記録の多くは、申請書、報告書、判決の日付である。経過は第四章に記した。無許可の入ソは、1930年と1936年の二度にわたって処分の理由とされた。 加藤は、伊藤は「おそらく拷問により、国崎定洞とのつながりの『自白』を強制された」と書いている。また、伊藤が国崎とともに日本課の中心であり、そのつながりで国崎がいっそう疑われたとも見ている。伊藤自身がどう考え、どう弁明したかは、本稿の資料にはない。 (7)六人の記録を並べると 六人について、告発した記録、告発された記録、その後を並べる。 片山潜 告発した記録:山本について疑いを提起(1929〜30年、証拠不十分)/告発された記録:死後、関マツの供述で/その後:1933年に病死 山本懸蔵 告発した記録:勝野、根本、国崎、伊藤/告発された記録:片山、野坂、前島と伊藤の供述/その後:1939年に銃殺、のちに党史で顕彰 野坂参三 告発した記録:山本、のちに伊藤律/告発された記録:関マツの供述で/その後:生き延び、1992年に除名 国崎定洞 告発した記録:なし(逮捕後の予審に強制供述がある)/告発された記録:山本、伊藤とビリチの供述/その後:1937年に銃殺、1959年に名誉回復 勝野金政 告発した記録:なし/告発された記録:山本/その後:ラーゲリから釈放されて帰国、回想を発表 伊藤政之助 告発した記録:なし(逮捕後に国崎と山本について強制供述)/告発された記録:山本/その後:1937年に銃殺、1990年に名誉回復 この並びから分かるのは、「告発した人」と「告発された人」が、多くの場合に同じ人であることだ。山本は告発し、告発された。伊藤は告発され、他人について供述させられた。野坂は告発して生き延び、半世紀後にその文書によって党を追われた。 人への評価も、時とともに変わった。山本は「病死」とされ、のちに銃殺が明らかになり、党史で顕彰された。国崎は1975年に「獄死」とされ、1992年に「銃殺」と改められた。野坂は議長、名誉議長を経て除名された。評価は、時点と、評価する主体によって異なっている。 第六章 告発しなかった人としての国崎定洞 (1)加藤哲郎が描こうとしたもの 『人間 国崎定洞』の書名は「人間」である。「まえがき」は、国崎の生誕百周年の集いに寄せられた娘タツコの言葉と、友人たちの回想から始まる。「スパイ」として処刑された人を、医学者として、友人として、父として描き直すことが、この本の意図の一つであると本稿は読む。本章は、加藤が読み解いた文書の中から、告発をめぐる国崎の行為を取り出す。 (2)国崎の記録の種類 国崎について残っているのは、コテリニコフの尋問の記録、自筆の履歴書、名誉回復決定書、妻フリーダの手紙である。書いた人も目的も異なる。それぞれから、国崎の行為を取り出す。 (3)1934年10月10日の尋問 山本の告発の3週間後、国崎はコテリニコフの尋問を受けた。加藤によれば、山本の告発の内容は、そのままでは国崎に示されなかった模様である。国崎は、「ベルリン時代の自らの活動や勝野金政とのつながりを正直に述べた」(加藤)。 このとき国崎は、ドイツの日本人サークルの性格を問われ、約15名のうち3〜5人が共産党員であったと答え、その名と現在の所在を述べている。一部の人は今も党員だと考えるとも述べた。答えたのは、党員であるかどうかと居場所であって、その人々を「スパイ」や「敵」としては述べていない。 同じグループについて、山本はその前月の会談で、総じて「党に対して反対」であり、日本に帰国した勝本清一郎や平野義太郎は「ファシスト」に転向したと述べていた。同じ人々について、一人は罪の疑いをかけ、一人は事実を答えたのである。 同じ日に尋問を受けた野坂竜は、加藤によれば「国崎定洞と距離をおいて、自らの弁明に終始した」。これは告発ではない。しかし、疑いをかけられた同僚との関わりを断つことで身を守るという応じ方であった。国崎は、勝野とのつながりを隠さずに述べた。 (4)自筆の履歴書 1932年6月25日、ソ連に渡る前に国崎が書いた日本語の自筆履歴書には、日本での兵役(一年志願兵、陸軍三等軍医)が記されている。1937年の罪状は「日本軍参謀本部諜報部将校タケダの命を受けて、1924年から」というもので、加藤は、この履歴書の軍歴が罪状の根拠に使われた可能性が高いとみている。 徴兵制の日本では、入隊は義務であった。書かなければ「経歴詐称」を疑われた、とも加藤は述べている。片山潜が娘の記載を欠いたために疑われたことを思えば、国崎は自分に不利になりうることを承知で、事実を書いたのである。1935年3月14日には、ドイツ語の自筆履歴書も書かされている。国崎の残した自筆の文書は、他人について書いたものではなく、自分の経歴を書いたものであった。 (5)スペイン義勇軍への志願 1936年夏、国崎はスペイン内戦の国際義勇軍に志願したが、出国は許可されなかった。かつて川上武と加藤は、この志願やドイツ共産党の反主流派とのつながりを、粛清の原因と推定していた。ファイルの発見後、加藤は主因を在モスクワ日本人の人間関係に改めている。 (6)逮捕の夜 1937年8月4日の逮捕の夜、国崎が妻に残した言葉は、「フリーダ、僕は潔癖なんだからね。また帰って来るよ」であったという。この言葉は、フリーダが1974年11月21日付で鈴木東民に宛てた手紙に記されている。 国崎には遺書も遺稿もなかった。加藤は、心境を書き残せば証拠書類にされて家族や友人に累が及ぶことを自覚していた「覚悟の入獄」ではなかったか、と問いの形で書いている。書き残さないことも、他人を巻き込まないための一つの行為であったかもしれない。 (7)予審と法廷 「国崎定洞ファイル」には、予審尋問調書と公判記録は入っていない。1959年の名誉回復決定書は、次のように記している。 「コンの起訴は、コンにスパイ情報をもたらしたのは、ユク、パク、ニュー、ツォイであるという、予審での彼自身の自白に基づいていた」 「法廷でコンは自分の供述を否認し、いついかなる時も日本の諜報部員であったことはないし、スパイ活動をしたこともないと証言した」 コンは国崎の党名で、ユク、パク、ニュー、ツォイは教え子の島正栄、宮城與三郎、照屋忠盛、又吉淳である。加藤は、予審での自白を「いったん拷問により」なされたものとみている。国崎は法廷でそれを否認し、自分の無実を述べた。否認は認められず、1937年12月10日に銃殺された。 この予審での自白は、第一章で区別した「強制供述」にあたる。拷問のもとで作られた調書は、自ら進んで経路に人の名を入れる告発とは性質が異なる。そして国崎は、法廷という最後の場で、その調書を自ら否定した。自分の無実を述べることは、同時に、自分が名を挙げさせられた教え子たちの無実を述べることでもあった。 (8)同じ条件のもとで 国崎と他の人々の記録を、同じ場面ごとに並べる。 尋問を受けたとき(1934年10月) 他の人々:野坂竜は国崎と距離をおき、自らの弁明に終始した/国崎:自らの活動と勝野とのつながりを述べた。ベルリンの仲間を「敵」としては述べなかった ベルリンの日本人グループについて 他の人々:山本は「党に対して反対」「ファシスト」に転向と述べた/国崎:党員の名と所在を答え、一部は今も党員だと考えると述べた 疑いをかけられた同僚や仲間について 他の人々:山本は伊藤の除名を申請した。アメ亡組の集会は仲間の譴責を申請した/国崎:同じ課の伊藤が逮捕された後も、伊藤について報告した記録はない 他人について文書を書く 他の人々:山本は会談で、野坂は書簡で、他人への疑いを述べた/国崎:残る自筆の文書は、自分の経歴を書いた履歴書である 逮捕後 他の人々:前島と伊藤の供述が山本の逮捕の根拠となった。照屋は否認を続けた/国崎:予審で拷問によるとみられる自白をしたが、法廷で否認した 他の道 他の人々:勝野は日本大使館に逃げ込んだ。野坂は1937年をアメリカで過ごした/国崎:スペイン義勇軍に志願したが、許可されなかった 条件がまったく同じだったわけではない。山本と野坂は日本共産党の代表として、党員について報告する立場にあった。国崎はドイツ共産党籍で、出版所の課長と教師であった。ただし、分派の禁止、報告の経路、「日本人はみなスパイ」という空気、粛清作戦の期限は、全員に共通していた。 (9)告発しなかったという判断 第一章で述べたとおり、他の人々の告発の文書が数多く残るなかで、国崎が自ら進んで他人を告発した文書は一つも出てきていない。同じ文書館の同じ種類の文書の中で、山本の会談記録も、野坂の書簡も、関マツの供述も、アメ亡組の申請書も見つかっている。国崎の名は、告発された者、尋問を受けた者としては繰り返し現れるが、告発した者としては一度も現れない。本稿は、これをもって国崎は告発しなかったと判断する。 国崎は、告発しなかったことによって命を守れたわけではない。それでも、「日本人はみなスパイ」とされた時と場所で、他人を告げないという行動がありえたことを、記録は示している。序章の一節が「一つだけ救われる」と書いたのは、このことである。 第七章 二つの枠組みによる照合――『人間の條件』と昆虫の行動原理 本章では、記録を二つの枠組みに当てて照らす。一つは文学作品、一つは生物の行動の説明である。いずれも史料ではなく、問いの立て方として用いる。答えは記録からだけ取る。 (1)『人間の條件』の三つの局面 五味川純平の小説『人間の條件』(全六部、1956〜58年)は、満州を舞台に、人道主義と社会主義の理想を抱く青年梶が、三つの局面で人間性を問われる物語である。作者自身の満州での実務、出征、ソ連軍による抑留の体験が反映されている。小林正樹監督、仲代達矢主演で映画化された(1959〜61年)。この作品の主題は、一般に「加害と被害の二重性」と「個人の倫理と国家権力の衝突」にあるとされる。 梶が通る三つの局面を、本稿は次の設問に置き換えた。 局面一 管理する側に立つ。梶は兵役免除と引き換えに、満州の鉱山で中国人労働者の労務管理を担い、待遇の改善に努めるが、自分も制度の手先として組み込まれていたことを知る。設問は「管理する側に立った者は何をしたか」である。 局面二 組織内部の制裁。梶は前線に召集され、私的制裁と階級制度の支配する軍隊で、弱い者を庇おうとする。設問は「小さな集団の内部で、制裁はどのように行われたか」である。 局面三 理想の国の実態。梶はソ連軍の収容所に送られ、理想としていた社会主義国の実態に出会う。逃亡し、妻のもとへ向かう途中で雪原に倒れる。設問は「理想を抱いてソ連に渡った者は、そこで何に出会ったか」である。 (2)理想を抱いて渡った人々 小説の梶は、局面三を最後に知る。モスクワの日本人は、局面三の場所に自ら入り、その中で局面一と局面二を経験した。 片山潜は70歳を前にコミンテルン幹部としてモスクワにあり、スターリンを支持する以外に余生を送る手だてはなかった。勝野金政は、フランスを追われてソ連に入り、ラーゲリに送られた。根本辰はクートベ入学を志願してベルリンから入り、その年のうちに追放された。片山千代は父に呼ばれて入り、レニングラードの工場へ送られた。国崎定洞は片山に招かれて妻子とともに入り、銃殺された。アメ亡組は、アメリカを追われて入り、8人中7人が銃殺された。杉本良吉と岡田嘉子は、国境を越えた直後に逮捕された。 (3)管理する側に立った者 片山、山本、野坂の三人は、代表として、仲間の入学、処分、報告に関わった。小説の梶は、管理する側にいながら、のちに憲兵に逮捕され、拷問を受ける。山本の記録では、告発する側から逮捕される側に移るまでに、伊藤の除名申請から1年3か月、アメ亡組への発言から2か月余りであった。 (4)小さな集団の内部での制裁 小説の梶が軍隊で見るのは、上級者から下級者への私的制裁である。アメ亡組の申請書に記されているのは、対等な仲間どうしが集会を開き、先生の逮捕について尋ねた仲間を「誤謬」として、自ら処分を申請している様子である。その7か月後に、グループのほぼ全員が逮捕された。片山千代は父の履歴書の記載の欠落を理由に疑われ、伊藤政之助は同じ無許可入ソを理由に二度処分され、関マツは夫の逮捕ののちに三日にわたって尋問されて除名された。 (5)小説と記録の違い 小説では、梶は一貫して理想を抱く者として描かれる。記録では、同じ人物が、ある時は管理する側に、ある時は制裁される側に立ち、その入れ替わりが数年のうちに起きている。小説は主人公の内面を描くが、記録には内面はほとんど残らず、残っているのは主にコミンテルンと秘密警察が作った文書である。小説の舞台は鉱山、軍隊、収容所という大きな組織であるが、記録の舞台は互いを知る80名あまりの小さな集団である。 梶は、どの局面でも弱い者を庇い、雪原に倒れるまで自分の判断を手放さない人物として描かれる。記録の中に、他者を庇ったことを示す行動はほとんど残っていない。ただしそれは、そうした行動がなかったことを意味しない。残っているのは告発と供述の文書だからである。その中で、法廷で自白を否認した国崎定洞と、否認を通した照屋忠盛の記録が残っている。国崎が告発しなかったという事実は、梶の倫理に最も近いものを、記録の側から示している。 (6)昆虫の行動原理の五つの要素 昆虫の行動は、高度な判断よりも、遺伝的に神経系に組み込まれたプログラムと、環境からの刺激との相互作用で説明されることが多い。主な要素は次の五つである。 趨性と反射 特定の刺激に対して、近づくか遠ざかるかを自動的に選ぶ(ガが街灯に集まる、ダンゴムシが光を避ける)。 固定運動パターン 鍵となる刺激を受けると、決まった一連の行動が最後まで遂行される(ハチの造巣、獲物の麻酔)。 化学的な合図 フェロモンなどの化学物質が、仲間の行動を直接に誘発する(警報フェロモン、アリの道しるべフェロモン)。 体の内側の状態と時計 同じ刺激でも、体温、ホルモン、体内時計によって行動が変わる。 学習と可塑性 経験によって反応が変わる(ミツバチが花の色と蜜を結びつけて覚える)。 この対比は、人を昆虫と同じものとみなすためのものではない。記録の中の行動を、刺激と応答、手順と時期という側面から整理するための枠組みとしてだけ用いる。 (7)記録との対応 趨性と反射にあたるのは、近づく場所と避ける場所がはっきりしていたことである。人々はソ連とコミンテルンに近づき、日本大使館を避けた。疑いをかけられた仲間も避けられた。野坂竜は国崎と距離をおき、山本は逮捕された国崎はコミンテルン日本部と「何等関係がない」と述べた。この向きが逆になったのが、勝野金政である。 固定運動パターンにあたるのは、告発や除名が始まると、決まった順序で手続きが最後まで進んだことである。伊藤政之助の場合、除名申請(1936年8月4日)、除名決定(10月29日)、身柄引き渡しの報告(11月10日)、逮捕(11月25日)、銃殺(1937年9月14日)と進んだ。国崎の場合も、名を挙げる会談(1934年9月19日)、NKVDへの報告(1935年2月9日)、履歴書の提出(3月)、逮捕(1937年8月4日)、銃殺(12月10日)と進んだ。1934年以降、この手続きが途中で止まった記録は、本稿の資料にはない。それ以前の1929〜30年、片山が山本を問題にしたときは、査問は「証拠不十分」で終わっている。 化学的な合図にあたるのは、「日本人はみなスパイ」という言葉や、『プラウダ』の論説が不特定の相手に向けて出されたことである。論説ののち、「サーカス団」のヤマサキ・キヨシ、「左翼インテリ」の国崎が相次いで逮捕された。告発がいつも同じ経路をたどったことは、道しるべにあたる。 体の内側の状態と時計にあたるのは、告発が逮捕に至る時期が、本人たちの外にある日付と重なっていることである。勝野の帰国の翌月に山本が国崎の名を挙げ、キーロフ暗殺の翌々月に国崎がNKVDの監視下に入り、作戦開始の前夜に国崎が逮捕された。野坂は粛清の最も激しかった1937年をアメリカで過ごし、その時期にどこにいたかが結果を分けた。 学習にあたるのは、同じ手順が繰り返し用いられ、また取り入れられたことである。山本は1930年、1934年、1936年と同じ経路で告発と申請を行った。アメ亡組は、仲間を集会で批判して譴責を申請するという手順を、自ら取り入れた。 (8)対比が当てはまらないところ 昆虫の解発刺激は、型に合うものであれば相手を選ばない。記録の人々は、相手を選んでいた。告発は経路に乗って流れたが、経路に何を入れるかは人が選んだ。 告発は、履歴書、申請書、報告書、書簡という文書の形をとった。フェロモンの道しるべは時間がたてば消えるが、文書は消えず、半世紀後に読まれた。 型どおりに動かなかった人もいた。国崎は法廷で否認し、照屋は否認を続け、勝野は禁じられた場所に逃れ、片山は証言を集めて手続きを止める側に回った。そして国崎は、告げる相手を選べる立場にありながら、誰の名も経路に入れなかった。 外から見える行為だけを並べると、人の動きは昆虫の動きに似て見える。それは、記録の多くが組織の側から作られた文書であるという性質による部分がある。対比が当てはまらない部分にこそ、人がそれぞれに判断し、迷い、選んだ跡が残っている。 (9)二つの枠組みから見えるもの 二つの枠組みを当てて見えてくるのは、個人の性格よりも条件の方である。分派の禁止、報告の経路、作戦に割り当てられた人数と期限。これらが揃ったとき、告発は型どおりに進んだ。そしてその条件のもとでも、型から外れた行動があった。国崎定洞が告発しなかったことは、その最もはっきりした例である。 第八章 戦後への残響 (1)野坂参三の除名 1992年、事実は次のように明らかになった。5月18日、日本共産党は山本懸蔵、国崎定洞、杉本良吉の銃殺を発表した。同年夏、文藝春秋の取材班がモスクワで野坂の密告の手紙と「国崎定洞ファイル」を発見した。9月から11月にかけて、小林峻一と加藤昭が『週刊文春』で連続して報じ、ディミトロフ宛の書簡などを公表した。9月20日、日本共産党は野坂を名誉議長から解任し、ロシアに調査団を派遣した(12月24日に帰国)。12月27日、日本共産党中央委員会は野坂の除名を決定した(発表は28日)。野坂は「残念ながら事実なのでこの処分を認めざるを得ない」と述べたとされる。党の説明によれば、野坂は告発の事実を認め、さらに延安から帰国する途中で秘密裏にモスクワに呼ばれ、ソ連の赤軍情報総局に直結する工作員として帰国したことも認めたという。 連載は1993年10月に『闇の男――野坂参三の百年』(立花隆解説)としてまとめられた。野坂は同年11月14日に死去した。 445号は、戦後の日本共産党が外国の党からの干渉を排する「自主独立路線」を掲げたにもかかわらず、その最高幹部がかつてソ連の機構と特殊な関係を持っていたという落差を指摘している。また、密告から発覚まで半世紀以上を要し、ソ連の崩壊による文書公開で初めて明らかになった点を挙げている。 (2)伊藤律事件 野坂は1950年代、伊藤律(1913〜1989)を「スパイ」として除名する側にいた。448号(改訂版)によれば、経過は次のとおりである。伊藤は1951年秋に漁船で中国へ密航し、北京の日本共産党非公然指導部(北京機関)で「自由日本放送」を指導した。1952年12月、野坂は「スターリンの指令」を名目に伊藤を隔離審査の対象とした。1953年9月15日、『アカハタ』に伊藤を「スパイ」として除名する中央委員声明が載った。1955年7月の第六回全国協議会で除名が再確認され、罪状の重心はゾルゲ事件との関連へ移された。伊藤は中国で長く拘禁され、1960年に秦城監獄に移され、文化大革命期には「三号」と呼ばれた。1979年12月に釈放が決まり、1980年9月3日、車椅子姿で帰国した。 除名の根拠とされた「伊藤律端緒説」(伊藤の自白がゾルゲ事件発覚の端緒になったという説)は、渡部富哉『偽りの烙印』(五月書房、1993年)と加藤哲郎『ゾルゲ事件――覆された神話』(平凡社新書、2014年)によって否定されている。加藤によれば、発覚の実際の起点は1931年に逮捕された在米日本人共産党員・鬼頭銀一の供述であり、北林トモ、宮城与徳を経てゾルゲ検挙に至った。端緒説は特高警察の筋書きに始まり、GHQ参謀第二部と川合貞吉を経て流布し、1950年前後の党内抗争で野坂らが伊藤追放の口実に用いたという。 野坂は、国崎については戦後「必ずソ連のどこかに生きています」と語り、伊藤律については1960年代半ばに伊藤の妻に「伊藤は死んだ」と語ったとされる。伊藤の帰国手続きの際、妻キミが中国大使館と連絡を取ると、議長の野坂はその夜自ら伊藤宅を訪れ、「なぜ党に事前に相談せず」連絡したのかと詰問した。次男の伊藤淳はこれを、慌てた野坂が家族の引き取りを阻止しようとしたものとまとめている。伊藤淳によれば、実証研究によって「伊藤律スパイ説」は、「日本共産党を除き、伊藤律を知る多くの人の間では、誤りを正すべき歴史となった」。 伊藤律を「スパイ」として除名に追い込んだ野坂が、のちに「ソ連の情報提供者」として除名された。448号はこのことを、伊藤律事件を問い直す契機としている。 (3)北京機関の内部――国谷哲資の回想から 伊藤律が査問されたのは、北京機関においてである。1953年からそこで働いた国谷哲資の回想記「北京追憶」は、その内部を次のように伝えている。伊藤律(中国名・顧)は1952年末まで自由日本放送を指導していたが、1953年には査問が始まり、勤務員の前に姿を見せなくなった。野坂(中国名・丁)は同じ建物にいたが、あまり表に出なかった。国谷は、スターリンの病状を伝える放送を野坂が受信室で聞いていた場面を書き留めている。 1951年、徳田球一、野坂、西沢隆二はモスクワでスターリンらと会談した。同席した袴田里見は、「分派を止める」ことを認めざるをえなかったという(袴田『私の戦後史』による)。1954年の第六回全国協議会の決議原案は、モスクワで準備されたという。 国谷は、1954年秋から1957年夏まで放送局の主たる指導者であった袴田里見に、ペトロフという男性ともう一人の女性、二人のソ連人の秘書が付いていたことを記している。秘書が付いた理由は不明とされる。 国谷は1966年の日中両党の決裂後に宮本指導部と決別し、帰国後は『長周新聞』で働いた。その立場からの回想であり、出来事から半世紀以上を経た執筆であることを踏まえて読む必要がある。筆者は、回想記に登場する81人を、筆者が直接見たか、伝え聞きか、推測を含むかによって分類した一覧を作成している。直接の目撃・接触が47人、直接と伝聞が混在するものが17人、伝聞が4人、推測を含むものが1人、名前の列挙のみが8人、註や他の文献によるものが4人である。 (4)袴田里見とソ連資金 袴田里見(1904〜1990)は、1925年にモスクワのクートベに学び、1927年にソ連共産党に入党した人で、戦後は党副委員長を務めた。1977年に党員権の制限、剥奪を経て、12月30日に除名された。除名の直接の理由はソ連との関係ではなく、1933年のスパイ査問事件をめぐって党外で党と宮本顕治を攻撃したとされたことである。 袴田の死後に公開されたソ連の秘密文書からは、野坂とともに袴田にもソ連側からの秘密の接触がしばしばあったことが判明したとされる。ただし、袴田個人が資金を受け取ったことを示す文書は、今回の調べでは確認できていない。国谷が記した二人のソ連人秘書の目撃は、この秘密の接触と符合する。目撃それ自体は証拠にはならないが、文書が示す事実を外から支える傍証となりうる。 党としての資金も問題になった。名越健郎『クレムリン秘密文書は語る』(中公新書、1994年)は、ソ連共産党の文書にもとづき、日本共産党への援助を、1951年に10万ドル、1955年に25万ドル、1958年と1959年に各5万ドル、1961年に10万ドル、1962年と1963年に各15万ドル、計85万ドルと示した。2016年にはこの記述をもとに衆議院で質問主意書が出された。党はこれに対し、資金は「党として」受けたものではなく、野坂や志賀義雄らソ連に通じた分派への個人的な懐柔工作だったと説明している。両者の説明は食い違っており、文書の原本に当たって確かめる余地が残る。 (5)一九七二年への照応 序章に掲げた小説『見ていた青春』は、別の章で、1972年に日本共産党の青年組織の幹部たちが「分派」の嫌疑で党本部に呼ばれ、査問された新日和見主義事件を扱っている。モスクワの1930年代と、東京の1972年とでは、規模も帰結もまったく異なる。1972年の査問で銃殺された者はいない。しかし、組織の内部で「分派」や「スパイ」という言葉が根拠を示されないまま用いられ、それが人の生き方を変えたという点で、二つの出来事は同じ問いを投げかけている。1971年に比較政治機構論の授業でソビエトを調べた学生が、翌年に友人の身に起きたことをどう見たか。それは小説の主題であり、本稿の問いの背景でもある。 第九章 証言・記録・計量――史料としての扱い (1)目撃と証言の史料的価値 何気ない一言や「見たこと」の記録は、のちに公開された文書と符合したとき、重要な傍証になる。野坂事件そのものが、モスクワの文書と、日本側に残った証言や特高資料とを突き合わせて明らかになった。 ただし、証言が史料として生きるには条件がある。第一に、いつ、どこで、誰が見たのかを書き留め、後からの解釈と、そのとき見たこととを分ける。第二に、記憶だけでなく、日記、手紙、写真など当時の物を添える。第三に、独立した別の資料(公開文書、他者の証言)と照合する。第四に、符合しない点もそのまま記録する。 国谷が記した袴田の「二人の秘書」や、野坂がスターリンの病状の放送に耳を傾けていた場面は、この条件に当てはめて確かめる価値がある。一方、「だから密告の露見を恐れていた」「だから資金を得ていた」という結論は、目撃から直接には導けない。野坂が放送に耳を傾けたことを山本密告の露見への恐れと重ねるのは一つの読みであり、指導者の死後の路線変更を一刻も早く知りたかっただけとも考えられる。目撃は事実の片鱗として、推論は推論として並べて書くべきである。 (2)宮本顕治をめぐる未確認の証言 実在の人物の名誉に関わる証言は、とくに厳しく扱う必要がある。旧稿では、宮本顕治の中国滞在に関わる証言を取り上げたが、裏づけとなる公刊資料を確認できていない。その記録が、いつ、どこでの、何についての記録か。誰が残したか。党の公式の歴史書や本人の自述ではどう書かれているか。この三点が確かめられるまでは、「未確認の証言」として扱うのが妥当である。本稿では立ち入らない。 (3)計量の考え方との対応 1937年の国勢調査の事件が示すのは、測定の信頼性は技術だけでは守れないということである。現代の計量の考え方と、1937年のソ連で起きたこと、証言や回想への当てはめを並べると、次のようになる。 測定者の独立性 1937年のソ連:統計家が政権に従属し、結果のために罰せられた/証言への当てはめ:証言者が利害や圧力から自由か トレーサビリティ(根拠をたどれること) 1937年のソ連:原データが廃棄され、検証が不可能にされた/証言への当てはめ:いつ・どこで・誰が見たかを残す 測定の設計 1937年のソ連:1939年に信仰の設問を削った/証言への当てはめ:何を語らなかったかにも注意する 独立した測定との照合 1937年のソ連:出生・死亡登録との食い違いが抹殺された/証言への当てはめ:公開文書や他者の証言と突き合わせる 統計調査は、社会を対象とする測定である。メートル原器を基準として個々の計測がトレーサビリティによって連関していることと、人口調査の結果が実測のとおりに記録され、原資料にさかのぼって検証できることとは、測定結果への信頼を支える点で同じ根をもつ。証言もまた「一つの測定値」であり、その不確かさを明示し、別の測定(文書)と照合してはじめて価値をもつ。 (4)告発の記録もまた測定の記録である この考え方を、告発の記録そのものにも当てはめることができる。コミンテルンとNKVDの文書は、組織の側から人を「測った」記録である。そこに記された数値(作戦の人数と期限)や罪状(「タケダ」の命令)は、測定値ではなく、あらかじめ望まれた値であった。1937年の国勢調査が「望まれた数字」に合わないために抹殺されたのと同じく、人々もまた、望まれた罪状に合わせて記録された。 それでも、文書の中には、望まれた値に合わない記録が残っている。国崎が法廷で自白を否認したこと、照屋が否認を続けたこと、そして国崎の名が告発者として一度も現れないことである。抹殺されたはずの国勢調査の資料が残ったように、望まれた罪状に合わない人の姿も、文書の中に残った。 第十章 史料上の留意点 (1)記録の性格 本稿の記録の多くは、コミンテルンとNKVDが作った文書である。そこに書かれているのは、告発、尋問、申請、逮捕、判決という組織の立場から見た行為であって、本人たちの内面ではない。 関マツ、野坂参三、山本懸蔵の会談記録や書簡は、それぞれが自分の身を守る必要のある場で書かれた。そこに書かれた他人の行動を、そのまま事実とはしない。 勝野の『赤露脱出記』は告発された当事者の回想であり、野坂の『風雪のあゆみ』は告発した当事者の回想である。国谷の「北京追憶」は、日中両党の決裂後に宮本指導部と決別した人の回想である。 本稿が引く評価の多くは加藤哲郎のものである。加藤は国崎の伝記の著者であり、その仕事は国崎の名誉の回復と結びついている。山本や野坂の側から書かれた研究は、本稿では参照できていない。 拷問による自白という点は、加藤自身が「おそらく」と書く推定である。「国崎定洞ファイル」には、予審尋問調書と公判記録が含まれていない。 (2)日付と表記の食い違い 資料の間、または同じ資料の中で、日付や表現が食い違う箇所がある。本稿で採った読みとその理由を示す。 勝野金政・根本辰の告発の年 『人間 国崎定洞』は「1930年秋」「1930年10月」と書くが、一箇所だけ「1931年10月」とある。本稿は1930年秋を採る。片山は1931年正月から入院しており、前後の記述とも合う。 国崎定洞の名誉回復決定書の日付 通常は1959年10月29日。一箇所に「1959年11月31日付」とある。11月31日は存在しない日付であり、誤記とみて10月29日を採る。 国崎定洞の1935年の履歴書の日付 本文とファイル目録は3月14日、一箇所に3月10日とある。履歴書本体の日付である3月14日を採る。 国崎定洞のドイツ共産党入党の年 475号は1927年、481号の略年譜は1928年7月とする。本稿では「1927〜28年」と幅をもたせて書いた。 日本共産党が国崎らの銃殺を発表した日 478号は5月18日、481号の略年譜は5月16日とする。本稿は5月18日を採る。『赤旗』の掲載が5月19日であることと合う。 山本懸蔵の「病死」の公表時期 加藤は「1941年4月」とし、日本共産党が野坂の証言によりそうしてきたとする。445号や事典類は「1942年4月」とし、445号は発表者をソ連当局とする。本稿は加藤に従い1941年4月とする。 野坂参三の死去時の年齢 445号と448号は101歳、加藤は「百歳」とする。本稿は1892年生、1993年11月14日死去として扱う。 野坂参三の密告の宛先 448号は「NKVDに讒言密告」、445号は「NKVDないしコミンテルン指導部」、加藤は「ディミトロフ宛手紙」とする。本稿は、宛先はコミンテルンのディミトロフであり、NKVDへの伝達はその先の経路と読む。 野坂参三の書簡の発信地 445号は野坂が「1938年以降アメリカに拠点を移していた」とし、448号は書簡を「亡命先のアメリカから」送ったとする。一方、加藤は1938年11月の関マツの尋問に「アメリカから帰国した」野坂が出席したとする。書簡がどこから送られたかは本稿の資料では確定できず、本文では地名を書かない。 野坂参三の除名の日付 445号は12月27日に緊急会議、28日に除名を発表とし、448号は12月27日の中央委員会総会で決定とする。「27日決定、28日発表」と読めば両立する。 勝野金政の適用条文 資料は「ソ連刑法第五六条スパイ罪」とする(国崎は第58条)。資料のまま記す。第58条の誤記の可能性があるが、未確認である。 照屋忠盛の逮捕の日 482号は1938年3月15日、478号と479号はアメ亡組7人の一斉逮捕を3月22日とする。照屋が他の7人とは別に逮捕されたと読めば、「8人のうち7人が銃殺され、照屋は強制労働5年」という記述と両立する。本稿は両方の日付を示し、確定は原資料に委ねる。 1937年国勢調査の統計家の逮捕の日 476号は、クルマン、クヴィトキン、ブランド、オブローモフの逮捕を「1937年3月」とする。ロシア語の人物事典の記述では3月31日とある。ただしその記述は、日付が四人全員にかかるのか、一部の人にかかるのかが読み取りにくい。クラヴァリ本人の解任は5月22日、逮捕は5月31日である。オブローモフの役職は、476号は「運輸・通信部長」、人物事典は副局長とする。 クルマンの覚書の対象期間 人物事典の訳文には「1926年12月17日と1937年6月12日の国勢調査の間」とあるが、1937年の国勢調査は1月6日に実施されている。訳の過程で日付が崩れたとみて、本稿は1937年1月6日と読んだ。原文で確認を要する。 スターリン憲法の日付 442号は「1936年12月25日」とするが、採択は1936年12月5日(第8回臨時ソビエト大会)である。本稿は12月5日を採る。 『人間 国崎定洞』の刊行年 480号は1990年とするが、他の各号は1995年とする。本稿は1995年を採る。原本の奥付で確認を要する。 『闇の男』の著者 480号は加藤哲郎と小林峻一の共著とするが、誤りである。著者は小林峻一と加藤昭である。 伊藤律の拘禁の年数 資料によって26〜29年と幅がある。448号は、密航(1951年)と除名(1953年)のどちらを起点にするかの違いとみている。 伊藤律の除名声明と徳田球一の死の前後 448号は「1953年10月に徳田球一が死去すると……除名方針が固まり、同年9月15日付『アカハタ』に声明が掲載」と書き、日付の順序が逆になっている。本稿は声明の日付を1953年9月15日とし、徳田の死との前後は未確認とする。 『偽りの烙印』の著者と版元 448号の初稿は「加藤哲郎、みすず書房」とするが誤りで、改訂版で渡部富哉、五月書房に訂正されている。本稿は改訂版に従う。 片山潜が呼んだ医師の名 479号は「馬島們」と書くが、本稿は「馬島僴」と表記した。原資料で確認を要する。 (3)なお残る課題 次の点は、本稿の資料では確かめられなかった。今後の課題とする。 一、1937年国勢調査の統計家クルマン、クヴィトキンらのその後の運命を、ロシア語の人物事典や「メモリアル」の犠牲者データベースで確定すること。 二、1930年代のソ連で、度量衡の研究者や技術者が弾圧の対象になったかどうかを、メンデレーエフ計量研究所の所史で確かめること。 三、国崎が社会衛生学で統計をどう使ったかを、『社会衛生学から革命へ』に収められた論文で確かめること。 四、須藤政尾、前島武夫、ヤマサキ・キヨシ、野坂竜ら、告発の経路の分からない人々の経過を、加藤『モスクワで粛清された日本人』『国民国家のエルゴロジー』の詳細と照合すること。 五、野坂の書簡が山本の処刑の決定にどれだけ関わったかを確かめること。 六、袴田里見とソ連側の接触を示す文書の原典を特定すること(名越健郎『秘密資金の戦後政党史』など)。 七、福島新吾がソ連崩壊後に述べた反省の弁の出典を示すこと。 終章 結論 本稿は、1930年代のモスクワにいた日本人共産主義者の告発と粛清を、加藤哲郎が読み解いた旧ソ連の文書に沿ってたどった。 第一の問い、人々が置かれた条件について。分派の禁止、党の代表からコミンテルンを経てNKVDに至る報告の経路、「日本人はみなスパイ」という言葉、そして粛清作戦に定められた人数と期限があった。日本の特高警察を逃れてソ連に渡った人々が、ソ連で「日本のスパイ」とされた。同じ1937年には、人口を正しく数えた統計家たちが、その数字ゆえに罪とされ、統計局長クラヴァリは調査の無効が報じられた日に銃殺された。測った事実が罪とされる時代であった。 第二の問い、誰が誰を告発したかについて。片山潜は山本懸蔵への疑いを提起した。山本は勝野金政、根本辰、国崎定洞、伊藤政之助を告発した。国崎の有罪の根拠には伊藤の強制供述が含まれ、アメ亡組の逮捕には国崎の強制供述が関わり、山本の逮捕の根拠には伊藤と前島武夫の供述が含まれた。野坂参三は拘留中の山本について、疑いをディミトロフに書き送った。表の人物の多くは、告発した側と告発された側の両方に現れる。告発した山本は告発されて銃殺され、告発して生き延びた野坂は、半世紀後にその書簡によって党を追われた。その野坂は、戦後には伊藤律を「スパイ」として除名する側にいた。 第三の問い、国崎定洞の振る舞いについて。国崎は、尋問には自分の活動と友人とのつながりを答え、ベルリンの仲間を「敵」としては述べなかった。自筆の履歴書には、不利になりうる軍歴も書いた。逮捕の夜には「僕は潔癖なんだからね」と言い残し、遺書も遺稿も残さなかった。拷問によるとみられる予審での自白を、法廷で否認した。そして、他の人々の告発の文書が数多く残るなかで、国崎が自ら進んで他人を告発した文書は一つも出てきていない。国崎は告発しなかった。 国崎は、告発しなかったことによって命を守れたわけではない。それでも、他人を告げることが身を守る手段とされた時と場所で、他人を告げないという行動がありえたことを、記録は示している。 序章に掲げた一節で、1971年の学生は、ソビエトの社会主義を偽りの社会主義だと決めながら、社会主義の正義まで否定することはできなかった。そして、社会主義への懐疑を抱きながら物事を学んでいく姿勢を選んだ。本稿がたどった記録は、その懐疑の正しさを裏づける。同時に、その懐疑のなかでも人を信じる手がかりが残っていたことも示している。どのような主義と主張を持つ人間でも、スターリン体制のもとでは鬼畜にされかねなかった。しかし、すべての人がそうなったわけではなかった。 この歴史が明らかになったのは、ソ連崩壊で文書が開かれ、ジャーナリストと研究者がそれを読み、日本側の記録や証言と突き合わせたからである。廃棄を命じられた国勢調査の資料が半世紀後に戻ってきたように、告発しなかった人の姿も、文書の中から戻ってきた。個人が「見ていた」ことは、書き留めておきさえすれば、いつか公開される文書と出会う可能性がある。その記録を残しておくことも、歴史への貢献である。 参考文献 研究書・回想記・小説 川上武・加藤哲郎『人間 国崎定洞』勁草書房、1995年(加藤執筆部分の復元版をウェブ上で参照) 川上武・上林茂暢編著『国崎定洞――抵抗の医学者』勁草書房、1970年 川上武『流離の革命家――国崎定洞の生涯』勁草書房、1976年 川上武・加藤哲郎・松井坦編著『社会衛生学から革命へ』1977年 加藤哲郎『コミンテルンの世界像』青木書店、1991年 加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人――30年代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』青木書店、1994年 加藤哲郎『国民国家のエルゴロジー』平凡社、1994年 加藤哲郎「歴史における善意と粛清」『季刊 窓』第19号、1994年 加藤哲郎『ゾルゲ事件――覆された神話』平凡社新書、2014年 小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋、1993年 和田春樹「歴史としての野坂参三」『思想』1994年3〜5月号 名越健郎『クレムリン秘密文書は語る』中公新書、1994年 名越健郎『秘密資金の戦後政党史』新潮選書、2019年 渡部富哉『偽りの烙印――伊藤律・スパイ説の崩壊』五月書房、1993年 メドヴェーデフ(石堂清倫訳)『共産主義とは何か』上、三一書房、1973年 アイノ・クーシネン『革命の堕天使たち』平凡社、1992年 勝野金政『赤露脱出記』日本評論社、1934年 勝野金政『凍土地帯』吾妻書房、1977年 野坂参三『風雪のあゆみ』第8巻、新日本出版社、1989年 大森実『戦後秘史3・祖国革命工作』講談社、1975年 袴田里見『昨日の同志 宮本顕治へ』新潮社、1978年 袴田里見『私の戦後史』朝日新聞社、1978年 伊藤律「三重スパイ野坂参三」『文藝春秋』1994年1月号 伊藤淳『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』講談社、2016年 国谷哲資「回想記 北京追憶――若者が体験した戦後日中関係秘史」 五味川純平『人間の條件』全六部、1956〜58年 森夏之『見ていた青春――神田学生街の一九七〇年』改訂版六稿、2026年10月10日 統計・計量に関する資料 Wikipedia "1937 Soviet census" ロシア統計博物館 "Censuses on the brink of the War" Seventeen Moments in Soviet History "The Lost Census" クラヴァリ・イワン・アダモヴィチの経歴(ロシア語の人物事典、1918〜1953年にモスクワで銃殺された政治的弾圧犠牲者の名簿ほか) ソ連大百科事典「メートル法」 Wikipedia "D. I. Mendeleev Institute for Metrology" 公的資料・事典・新聞 科研費KAKEN「日本人スターリン粛清犠牲者の規模とメカニズム」(課題番号07620055) 衆議院 質問主意書第190号(2016年3月14日) しんぶん赤旗 2002年10月14日、2004年7月5日 コトバンク「国崎定洞」「山本懸蔵」「野坂参三」「袴田里見」 Wikipedia「国崎定洞」「山本懸蔵」「袴田里見」「加藤哲郎」"Sanzō Nosaka" 計量計測データバンク「ニュースの窓」掲載稿(号数順) 442号 横田俊英「ソビエト連邦の実際――その民主制と民主主義の実態」2026年9月19日 443号 横田俊英「ヨシフ・スターリンの独裁体制とその犠牲――歴史的検証」2026年9月19日 445号 夏森龍之介「コミンテルンにおける密告と粛清――野坂参三による山本懸蔵ら『日本人スパイ』告発事件の真相」2026年9月19日 446・447号 夏森龍之介「宮本顕治の中国渡航をめぐる資料的検証」2026年9月19日 448号 夏森龍之介「伊藤律の『戦後』再考――子息の証言と野坂参三との相克、そして一九八〇年帰国の実相」改訂版、2026年9月21日 474号 横田俊英「[あったこと--その1--]と[あったこと--その2--]による相関の確認作業」 475号 横田俊英「モスクワの粛清とコミンテルンの影――加藤哲郎の実証研究にみる日本共産党・国崎定洞・山本懸蔵の悲劇と、コミンテルン指導下の党活動の歴史的検証」2026年10月2日 476号 横田俊英「測った数字が裁かれるとき――1937年ソ連国勢調査の抹殺と統計家の粛清、国崎定洞の社会衛生学にみる計量と政治」2026年10月2日 477号 横田俊英「[第一次推敲]モスクワ在住日本人共産主義者における相互告発と粛清の連鎖」2026年10月4日 478号 横田俊英「[第二次推敲]モスクワ在住日本人共産主義者における相互告発と粛清の連鎖――『置かれた状況』と二つの事件にみる人物相関の確認作業」2026年10月4日 479号 横田俊英「『人間の條件』に照らす――スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住の日本人共産主義者の行動の記録」2026年10月4日 480号 横田俊英「昆虫の行動原理に対比する――スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住の日本人共産主義者の行動の記録から考えること」2026年10月4日 481号 横田俊英「告発しなかった人としての国崎定洞――スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住の日本人共産主義者の告発の記録と国崎定洞」2026年10月4日 482号 横田俊英「スターリンとコミンテルンの時代、粛清の嵐のなかでのモスクワ在住の日本人共産主義者の行動から浮かび上がる姿」2026年10月4日 484号 横田俊英「資料:スターリンとコミンテルンの時代にモスクワに滞在した日本共産党の人々の粛清に関する資料の所在」2026年10月4日 (以上、計量計測データバンク「ニュースの窓」475〜482号の統合稿) (了) 見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-改訂版6稿-2026年10月10日・@森夏之 見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」外論-隅田肇がソビエト連邦調査で垣間見た「スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住日本人共産主義者の相互告発と粛清、そして国崎定洞」-2026年10月10日・@森夏之 2026-10-10-d-1-revised-edition-sixth-draft-external-discussion- お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026年10月11日 01時02分26秒
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