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高田の一本松近くに「一本松茶屋」ができ、訪れる人の休憩地になっている。
市街地は土を盛り上げて嵩上げされている。見上げるような台地だ。 震災後に芽を出した柿の木が実をつけていた。向こうに見えるのは高台移転した高田高校と仮設住宅だ。 高田高校から市街地を見下ろす坂道。 高台に高田高校の校舎が完成して移転をすませている。仮設住宅が隣接する。 岩手県陸前高田市の2015年10月11日の現在(震災から4年7カ月)-その1- (副題) 東日本大震災から4年7カ月 三陸沿岸の現在。地震と津波被害からの復興の現状を街道からカメラでとらえる。岩手県陸前高田市の2015年10月11日の現在(震災から4年7カ月)-その1- (本文) 陸前高田市は奇跡の一本松として取り上げられる。この松は枯れたがこの木からつくりだした4本の苗が育っている。その奇跡の一本松は復興の象徴として残されている。幹を防腐処理し心棒を入れて補強し、枝葉を複製したものに付け替えて立てられている。ここには観光物産施設「一本松茶屋」ができ、訪れる人の休憩地になっている。 震災時陸前高田市の人口は24,246人であり、死者・行方不明者は1,757人。平成27年10月31日現在の人口は20,200人だ。三陸沿岸のどの被災地でも震災前から4,064人減っている。震災による死者・行方不明者1,757人を差し引くと2,307人が減っていることになる。 津波によって中心市街地が壊れてしまったのが陸前高田市だ。広田湾に沿って開けた低地につくられて旧高田町にある岩手県立高田病院、市役所、陸前高田高校が津波で壊された。付近に建てられていた中層のアパートは最上階付近まで浸水した。壊された施設は高台の新しい場所に移っており、市街地は土盛りによる嵩上げ工事がすんでから再度つくられる。 広田湾にそそぐ気仙川に沿って津波は奥地まで駈けのぼった。川が大きく流れが緩やかなほどに津波の遡上は平地でたっする地点より更に奥にとどく。この現象が陸前高田市の気仙川でおこった。被災直後に市内にはいるために気仙川の上流にのぼってそこからくだることになった。 土盛りによる嵩上げ、山を切っての高台に住居地をつくる工事が被災地ではどこでも行われている。 岩手県の宮古市田老地区、山田町、大槌町、釜石市の鵜住居地区、陸前高田市、宮城県の南三陸町、女川町は市街地がまるごと津波によって破壊され発生した火災によって焼かれたために家や事業所の建家は撤去されていた。津波到達区域は土盛りによって嵩上げ工事がすすめられ、ある区域は高台を削ってここに移る。土盛り工事による嵩上げがすんでいるところでは、これから家が建つ。家が建てば市街地ができる。 陸前高田市では高台にある仮設住宅とそこに住む人々の暮らしぶりを見た。この地には校舎が津波で破壊された高田高校が2015年3月27日に新校舎を建てて移転している。それまでは中学校を仮校舎としていた。高田高校と仮設住宅からは津波が押し寄せた市街地をみおろす高台(陸前高田市高田町長砂)にある。景色はよい。眼下に消え去った高田の松原がある。その松林は消えた。 見下ろす景色は嵩上げした台形の住居と商店などの予定地だ。そこには何もない。大がかりな屋根付きのベルトコンベアーが架設されて土盛り工事を今なお行われている。コンベアーは海岸部の火力発電所に石炭などを運ぶ施設や鉱物を陸揚げするそれと同じだ。現代の工業力あるいは土木技術をつかって山を削り、土地を嵩上げしている。昭和の初めにはしたくてもできなかった土木工事だ。いまはこれをやっている。自然に対する人の心の変化がここにある。その昔は津波を経験すると高台に移転して暮らした。山田町などの縄文遺跡の住居は丘陵地や峠の鞍部などに限定されている。災いの教訓を掟として置き換えて津波がくるところには住居をつくらなかった。 八戸港、宮古湾、山田港、大船渡港、広田湾、気仙沼港、志津川湾の志津川漁港、女川湾、石巻湾を回った。どの漁港も魚を水揚げしていた。仲買人と加工業者がこれを買う。山田町、大槌町、陸前高田市、南三陸町、女川町は市街地が消えていて、そこに人の生活の気配がないなかにおいてである。 女川町の漁協には最新のトラックスケールが二基設置されていた。一基は稼働していて一基は調製中であった。ある漁協ではステンレス製の架台のトラックスケールを検察する計画中である。南三陸町の志津川漁協では海獲の鮭の水揚げが行われていた。ここでは電気式のハカリが使われていた。ある小さな漁港の施設には機械式のハカリが置いてあった。漁港の施設でみる機械はハカリだけといってよい。 魚を獲って市場に水揚げするまでは第一次産業に属する。これを加工すれば第二次産業になる。鮮魚店で魚を売ればこれは商業であり第三次産業になる。山田では町中に一軒だけ鮮魚店が開業していてここには二台の電気式ハカリが置いてあった。 鮮魚店の店主は二間の仮設住宅暮らしであり、嵩上げした土地に店舗兼住居を建てたくても高齢であるために建築費用の融資を受けられない。「復興」という言葉をつかって震災からの再建を語るのはよい。鮮魚店の店主にとっての復興と再建への素直な思いはどのようなことだろう。被災地でみる機械は、素朴でありふれたハカリとガソリン計量器だけだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年12月06日 12時18分53秒
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