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カテゴリ:エッセー
上田城跡と白土三平と霧隠才蔵 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
城は千曲川の分流である尼ヶ淵に面していた。 上田城跡と白土三平と霧隠才蔵 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎 上田城は築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれてもいた。 上田城跡と白土三平と霧隠才蔵 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎 上田城は千曲川の分流で天然の堀となる尼ヶ淵に面していた。 上田城跡と白土三平と霧隠才蔵 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎 上田盆地の北部に位置、城は千曲川の分流・尼ヶ淵に面していた。 上田城跡と白土三平と霧隠才蔵 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎 上田城跡に校舎がある旧制上田中学に学んだ白土三平にある霧隠才蔵の影 (永六輔も旧制上田中学に学んだ。「上を向いて歩こう」は懐古園での思い出) 白土三平の旧制上田中学在学 (忍者武芸帳、サスケ、カムイ伝と真田十勇士に上田時代の影がある) 白土三平が在籍した旧制の上田中学は猿飛佐助や霧隠才蔵ら真田十勇士と真田幸村の真田藩の居城の跡地である。真田がこの地にいたのは40年ほどの短期間である。以後は徳川家につながる者が藩主となっていた。上田の人はそれでも六文銭の真田を慕う。だから白土三平も同じように真田幸村と猿飛佐助や霧隠才蔵のことを意識したのだろう。長野県立上田高校は上田城、三の丸跡地にある。三の丸は徳川の殿さまの政務所であった。それでも上田の人は真田なのである。現在この地にある長野県立上田高校は旧制の上田中学だ。 白土三平(本名は岡本登)は1932年(昭和7年)2月15日、東京府東多摩郡(後の杉並区)で生まれた。1944年、私立旧制練真中学校に入学。長野県小県郡中塩田村(現上田市の八木沢駅付近)に一家で疎開し、旧制長野県立上田中学(現長野県立上田高等学校)に編入する。旧制上田中学にいた軍事教練担当の白土牛之助の苗字を漫画家白土三平に使う。白土三平の父は左翼活動のために特高警察の拷問の後遺症で脊椎カリエスを病んでいた。一家の収入の助けにするために白土三平は山仕事や力仕事をした。1年ほど塩田で過ごす。のち真田へ、さらに西塩田に引越す。事情は不明だ。 戦後の1946年に白土三平は東京に戻る。白土三平は近くの東京都練馬区の被差別部落の住民の荻原栄吉、のちの部落解放同盟練馬支部長と同級生であり、荻原の家業を手伝ったりもするなどの交流があった。『カムイ伝』など白土三平の漫画には練馬での体験が影響している、という近しい人々が述べている。人の発想は荒唐無稽に一足飛びするものではない。どこかに根がある。白土三平の独特の考え方と画風の下地になったのは何だったのか。 『忍者武芸帳 影丸伝』『サスケ』『カムイ伝』の登場人物に真田十勇士の誰かが、そして霧隠才蔵の影がみえる。これは白土三平が上田城のあった場所に建つ旧制上田中学に通っていたときに真田の武勇伝とその陰で働く捨て石のような人々のことを考えていたのではないか。 白土三平の父親はプロレタリア画家の岡本唐貴である。妹は絵本作家の岡本颯子。絵を描く才能は父からのものか絵描きの家の環境がもたらしたものなのか。 旧制上田中学から旧制練真中学に戻るも3年の途中で学校をやめる。学費がままならなかった。父の知人の金野新一のもとで、山川惣治作の紙芝居の模写や彩色の仕事を手伝う。1947年ころに手塚治虫を知る。以後、手塚治虫を意識するようになる。 1951年、金野の指導の下『ミスタートモチャン』という紙芝居をつくる。このとき白土三平はノボルという名を使った。1955年、東京都葛飾区金町に移り仲間と共同生活を始める。紙芝居『カチグリかっちゃん』を描く。白土は遊びにくる近所の子供らから「イチ二の三チャン」と呼ばれた。三平の名の元になった。 共同生活者であった瀬川拓男が人形劇団「太郎座」をつくったため白土は舞台背景の絵を描くようになる。1957年、劇団の先輩だった少女漫画家の牧かずまに漫画を描くことを勧めらる。牧の補助をしながら漫画の技法を学ぶ。同年8月、『こがらし剣士』を出版する。1959年、三洋社から『忍者武芸帳』を刊行する。『忍者武芸帳』は1962年まで全17巻が刊行される大長編となった。1961年、長井勝一が三洋社を解散し青林堂を設立、白土はここで『サスケ』『忍法秘話』などの貸本を手がける。1963年、『サスケ』『シートン動物記』により第4回講談社児童まんが賞受賞する。 1964年、青林堂より『ガロ』が創刊される。『ガロ』は白土の新作『カムイ伝』のための雑誌として創刊されたのである。白土は「赤目プロダクション」を設立し量産体制に入る。弟の岡本鉄二は「赤目プロ」で作画を受け持った。経営業務は一族の者が担当した。 白土は『ガロ』の設立者だった。出版事業が振るわなかったために原稿料を受け取らなかった。『カムイ伝』のほかに、他誌にも『ワタリ』『カムイ外伝』(ともに1965年-)などを発表して原稿料を稼いだ。1971年、『カムイ伝』第一部が終了。続編が待たれたものの長く再開されず、第二部が開始されたのは、『神話伝説シリーズ』(1974年-)や『カムイ外伝 第二部』(1982年-)などの作品を経た1988年のことである。 第二部は『ビッグコミック』で2000年まで連載され、2006年に発売された全集に書き下ろしを加え完結する。2009年には『カムイ外伝』の新作を久々に発表した。現在『カムイ伝 第三部』を構想中である。 『忍者武芸帳』『カムイ伝』など作品には唯物史観が漂う。白土三平はこのことを特別に意識していない。描かれる忍術に図解や説明が付くことがある。手塚治虫は白土三平の漫画に小説に類する要素をみる。白土三平は手塚治虫をずっと意識している。同時代を生きた人気漫画家は互いを意識していたのだ。 手塚治虫の鉄腕アトムは原子力で動く。アトムの妹はウランちゃんだ。ウランと原子力と科学の発達が未来を切り拓くことを思わせた。2011年3月11日の原発事故は鉄腕アトムと手塚治虫には因果なことであった。とてつもない力をだすアトムに人々は惹(ひ)かれ、原子力の未来に人々は希望を抱いた。 白土三平の漫画には抜けようにも抜けられない人の定め背景に貫かれている。人には努力しても報われない。悲しい運命が描かれている。権力と身分制度と虐(しいた)げられる者が描かれる。読み終えると人は諦めて生きていかなくてはならないのだと納得にも似た気持ちになる。 手塚治虫は1945年3月に旧制浪速高等学校を受験するが失敗。同年7月、大阪帝国大学附属医学専門部に入学する。医学専門部は、戦争の長期化にともない軍医速成のため正規の医学部とは別に臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもので、学制上は旧制医学専門学校と扱われ、旧制中学校から入学することができた。手塚治虫が旧制浪速高等学校に合格しなかったのは漫画を描くことに熱中して受験勉強をおろそかにしたためだ。 作家の北杜夫も旧制麻布中学4年修了で東京帝国大学附属医学専門部に入学する。父親は医者で歌人の斎藤茂吉である。旧制高校に憧れていたことや帝国大学医学部に進むために東京帝国大学附属医学専門部に通学するも、間もなく辞めて旧制松本高校に入学する。そのあと東北大学医学部に進学して卒業後に精神科医として仕事をする。帝国大学附属医学専門部は1951年に廃止された。 漫画家である白土三平と手塚治虫の二人。手塚治虫の境遇は恵まれていた。白土三平は思わずも塗炭の苦しみに陥る。人の境遇はモノの見方に考え方に影響する。差別を受け虐げられる者たちの眼は白土三平の眼に移される。旧制上田中学に通う白土三平に立川文庫の真田十勇士が忍び込んだ。旧制上田中学は真田の上田城の三の丸の跡地にあったことはおのずと歴史を意識させた。 永六輔の旧制上田中学在学 永六輔(本名は永孝雄)は1933年(昭和5年)4月10日に東京府東京市浅草区で誕生。早稲田大学第二文学部中退。旧制上田中学では白土三平の一学年下になるのであるが二人の交流は確かめられていない。その後に歌謡の世界や漫画の世界で活躍することなど14歳ほどの少年には想像することはできない。 永孝雄は永六輔として活躍するようになるのだが東京都下谷区(現・台東区)の国民学校に通っていた。1944年、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村の国民学校に転校し、そこで終戦を迎える。1946年に長野県立上田中学校(旧制)に入学する。翌年には東京へ帰り早稲田中学校(旧制)に2年編入で転校する。学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。そして早稲田大学第二文学部に進む。 永六輔は、北佐久郡南大井村の国民学校のころに感じたさみしさ、つまり小諸時代の懐古園での悲しい思い出が元になって「上を向いて歩こう」を作詞したのだと地元の人に語っている。明るい調子の楽譜であるこの歌の歌詞はいたたまれない悲しみが元になっていた。学童疎開で異郷の地にある国民学校の児童の気持ちがそのまま「上を向いて歩こう」の作詞になったのである。白土三平の漫画には諦めの気持ちが漂う。永六輔の歌詞は寂しさや悲しみでできている。少年時代の経験が人の心に芯に座っているのだろう。 島崎藤村は、暮行けば浅間も見えず、歌哀し佐久の草笛、千曲川いざよふ波の、岸近き宿にのぼりつ、にごり酒濁れる飲みて、草枕しばし慰むと、謳(うた)う。佐久の地に学童疎開していた永六輔は小諸なる古城のほとりで親や浅草を思って泣いていた。 旅人の群はいくつか畠中の道を急ぎぬ雲白く遊子悲しむごとく、千曲川のある地に放り出された永六輔である。学童疎開した児童は夜には寂しくて泣いた。強がりをするガキ大将もこっそり泣いていた。永六輔は泣き虫でありよく泣いた。佐久時代、上田中学時代の経験が歌謡界、テレビ界で活躍したのちに永六輔は旅人になったのであった。知らない街を歩いてみたい、どこか遠くへ行きたい、というのは親の元へ帰りたい東京に帰りたいという気持ちの表現である。山下清の諏訪の花火を見にでかけたり、あちこちにふらりと行ってしまうのは人ににある根源の発露のようだ。 懐古園は小諸城址に残る三の門のあった場所。苔むした野面石積の石垣、樹齢500年といわれるケヤキの大樹などがある。小諸城は武田信玄のころ山本勘助らが縄張りとし、豊臣秀吉天下統一のとき仙石秀久により完成された。城下町より低い位置にある穴城は日本百名城とされている。仙石秀久が築いた大手門や野面石積みの石垣は400年前の姿で残されている。明治の廃藩置県により小諸城は本丸跡に懐古神社を祀(まつ)り懐古園と名付けられた。 上田城と現代の様子 旧二の丸内が上田城跡公園になっている。桜の名所として花見の季節にはにぎわう。敷地内には上田市民会館(平成26年(2014年)閉館)、野球場、市立博物館、招魂社がある。 本丸跡にある眞田神社(真田神社)は、上田合戦で「落ちなかった」城であることにあやかり、受験生の祈願が多い。神社境内の古井戸は「城外への抜け穴」になっている。三の丸の藩主居館跡は松平氏時代の屋敷門と堀が残る。同地は現在、長野県立上田高校の敷地であり門は学校の正門になっている。 上田城の城址は長野県上田市二の丸にある。旧信濃国小県郡上田だ。現在残っている城は仙石忠政が江戸時代初期の寛永年間に再建築城したものである。 城址は上田盆地の北部に位置する。城は千曲川の分流である尼ヶ淵に面していた。築城当初は尼ヶ淵城と呼ばれていた。北に太郎山、南に千曲川があり、築城前は土豪小泉氏の古い城館があった。現在、二の丸より西側の小泉曲輪と呼ばれている場所である。城の南側は千曲川に接し、北側と西側に矢出沢川を引き込んで総構えとし、唯一の攻め口である東側には蛭沢川が流れ湿地帯が広がる。 上田城は江戸時代には上田藩の藩庁が置かれた。昌幸の嫡子である真田信之は関ヶ原の戦いで東軍についたことにより上田など真田領を安堵された。真田信之は上田城が破却されていたので元々の居城である上野国沼田城を本城とし、上田城三の丸跡地に屋敷を構えて統治を行った。このころ上田城下町の整備が行われた。 真田十勇士 漫画本に真田十勇士がある。真田幸村と真田十勇士であり上田城なのだ。立川文庫と英雄の真田幸村である。私たちの記憶は漫画本と立川文庫によってつくりだされる。 真田十勇士(さなだじゅうゆうし)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての伝説の武将で、講談で親しまれた真田幸村こと真田信繁に仕えたとされる10人の家臣である。立川文庫は、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊左入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎を真田十勇士とする。 真田幸村は、寛文12年(1672年)に書かれた軍記物『難波戦記』に登場する。江戸後期には小説『真田三代記』が書かれる。真田昌幸、真田幸村、真田大助の三代が徳川家に対して奮戦する。「真田もの」が講談となり、明治後期には神田伯龍『難波戦記』(1899年)などの口演が速記本となる。講談師たちは『真田三代記』にはない忍術つかいの「猿飛佐助」を登場させ、「霧隠才蔵」らの英雄豪傑が活躍させる。 1911年に大阪で発刊された立川文庫は、講談師玉田玉秀斎らが講談を読み物として再編集したものである。 1、猿飛佐助(さるとび さすけ)は、真田十勇士でも屈指の実力と人気を持つ忍者。戸沢白雲斎の秘蔵弟子。 2、霧隠才蔵(きりがくれ さいぞう)は、猿飛佐助と並び真田十勇士の中でも忍術を得手とする。伊賀忍者の頭領である百地三太夫の弟子とされており、同時代に生きた盗賊の石川五右衛門は兄弟弟子にあたるという。立川文庫の55冊目に『真田三勇士忍術名人 霧隠才蔵』の巻があり、真田十勇士では猿飛佐助に次いで人気がある。前述の「霧隠才蔵」以降でも主役を務めることがある。江戸以前の資料では『真田三代記』に「霧隠鹿右衛門」という忍者が登場する。霧隠才蔵を主人公にした小説に『風神の門』(司馬遼太郎)、『霧隠才蔵』(柴田錬三郎)、漫画では『豪談 霧隠才蔵』(永井豪)がある。映画では『忍びの者 霧隠才蔵』(1964年、監督:田中徳三、演:市川雷蔵)、『忍びの者 続霧隠才蔵』(1964年、監督:池広一夫、演:市川雷蔵)、『忍びの者 新・霧隠才蔵』(1966年、監督:森一生、演:市川雷蔵)がある。 3、三好清海入道(みよし せいかいにゅうどう)は、弟の伊三入道と兄弟で真田幸村に仕える僧体の豪傑である。出羽国亀田の領主出身で、遠戚に当たる真田家を頼って仕えたという。『真田三代記』でも亀田の領主と設定されており、兄弟共に非常に高齢。大坂夏の陣で兄弟共に戦没しているとされる。 4、三好伊三入道(みよし いさにゅうどう)は、三好清海入道の弟で、やはり幸村に仕える僧体の豪傑。兄と同じく元は出羽国亀田の出身で、兄とともに真田家に仕官した。『真田三代記』でも兄とともにその名が見られ、大坂夏の陣では豊臣方として参戦、戦没したとされる。 5、穴山小助(あなやま こすけ)は、真田幸村の側近の一人。作品によっては幸村の影武者となる。『真田三代記』では幸村の家臣としては特に登場頻度が多い股肱の臣として描かれている。 6、由利鎌之助(ゆり かまのすけ)は、真田幸村に仕えた豪傑の一人。『真田三勇士 由利鎌之助』の巻がある。『真田三代記』でも豪傑、武将として登場。諱を基幸といい、最初は野田菅沼家に仕えていたが、真田軍に敗れて捕虜となった後に真田家へ加わっている。 7、筧十蔵(かけい じゅうぞう)は、真田幸村の側近の一人。父は真田家の重臣である筧十兵衛。『真田三代記』には登場しないが、父と同名である筧十兵衛は登場する。筧十兵衛虎秀は元は足軽という低い身分だったが、真田幸隆・昌幸に仕えて取り立てられた。そのほか同作では、筧金六郎など筧姓の真田家武将が登場している。 8、海野六郎(うんの ろくろう)は、真田幸村の側近の一人。真田家重臣の家柄で、叔父は真田家の侍大将を務めていた。『真田三代記』には同名の人物こそ登場するが、「真田幸隆の義理の甥」という立場であり、同一人物とは認めがたい。幸村の時代には海野六郎兵衛利一という人物が登場する。 9、根津甚八(ねづ じんぱち)は、真田幸村の家臣の一人。『真田三代記』でも幸村の家臣・根津甚八郎貞盛として登場する。大坂夏の陣の最終局面で幸村の影武者となって討死した。同作には根津姓の真田家臣も複数登場している。俳優の根津甚八の芸名の由来となった。 10、望月六郎(もちづき ろくろう)は、真田幸村の側近の一人。作品によっては望月主水、望月三郎などとも呼ばれる。『真田三代記』では望月主水が登場。そのほか望月姓の真田家臣が数多く登場する。爆弾作りが得意だという話もある。 真田幸村こと真田信繁 父:真田昌幸 母:山手殿(寒松院) 兄弟 村松殿、信之、信繁(幸村)、信勝、昌親 ほか 妻 正室:竹林院(大谷吉継の娘) 側室:隆清院(豊臣秀次の娘) 側室:堀田興重の娘または妹 側室:高梨内記の娘 子 阿菊/すへ(石合重定/道定室)、於市 阿梅(片倉重長後室)、あくり(蒲生郷喜室) 幸昌、なほ(御田姫、岩城宣隆室)、阿昌蒲(片倉定広室)、おかね(石川貞清室)、守信、幸信 ほか 真田信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田幸村(さなだ ゆきむら)の名で知られる。 豊臣方の武将として大坂夏の陣で徳川家康の本陣まで攻め込んだことが江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評された。後世、軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治・大正期に立川文庫の講談は真田十勇士を従えて宿敵である家康に挑む武将として活躍させた。 真田幸村の名の由来 真田幸村のその名は信繁である。直筆の書状、生前の確かな史料で「幸村」の名が使われているものはない。信繁は道明寺の戦いで勇戦した家臣6名に対して、将棋の駒型の木片に戦功を書き記した感状を与えている。「繁」の字の下半分に花押を重ね書きする信繁の書き癖から翻刻された際に「信仍」「信妙」と誤写されているが、花押の形が信繁のものであると断定でき、死の前日まで「信繁」と名乗っていたことが確認できる。 幸村と署名された古文書は2通現存しているが、いずれも偽文書で、信繁が幸村と自称したことにはならない。 幸村の名が見られるようになったのは夏の陣が終わって60年近く経った寛文12年(1672年)にだされた軍記物の『難波戦記』が初出。『難波戦記』では昌幸の次男「左衛門佐幸村」や「眞田左衛門尉海野幸村」の名乗りで登場するが、名乗りを使用した形跡はなく、大坂入り後の書状でも「信繁」を用いている。 幸村という名前にも説得力があった。「幸」は真田家や(真田家の本家にあたる)海野家の通字であり、また「村」については徳川家に仇なす妖刀村正が由来に利用された。話に尾ひれがついたことで「幸村」の名は元禄時代には広く知られた。元禄14年(1701年)に書かれた『桃源遺事』(徳川光圀の言行録)では、三木之幹、宮田清貞、牧野和高らがわざわざ、幸村は誤り、信仍が正しいと書き記したほどである。もっとも、信仍というのも誤っている。 時代が下るにつれて「幸村」の名があまりに定着したため、江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正式な系図までもが「幸村」を採用した。 松代藩が作成した系図の『真田家系図書上案』では信繁だけだが、『真田家系譜』になると幸村が現れる。大坂夏の陣から200年近く後、文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から「幸村」名の問い合わせを受けた松代藩・真田家は「当家では、『信繁』と把握している。『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」と答えている。 ある論文には、武田信玄の同母弟に典厩信繁がおり、難波戦記の作者らには真田信繁の活躍を描く効果上、その旧主家一門の著名な同名者の呼称を避ける意図があり、信繁の名乗りが否定されて幸村が案出されたとある。 真田幸村の生涯 真田幸村こと真田信繁は永禄10年(1567年)または元亀元年(1570年)、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛を名乗る)の次男として生まれた。母は正室の山手殿。通称は、長男の信幸が源三郎を称し、信繁は源二郎と称した。 真田氏は信濃国小県郡の国衆で、信繁の祖父にあたる幸隆(幸綱)のころに甲斐国の武田晴信(信玄)に帰属し、伯父の信綱は先方衆として信濃侵攻や越後国の上杉氏との抗争、西上野侵攻などで活躍する。父の昌幸は幸隆の三男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて長兄の信綱、次兄の昌輝が戦死したため、真田氏を継いだ。 幸隆は上野国岩櫃城代として越後上杉領を監視する立場にあったが、昌幸も城代を引き継いだ。信繁は父に付き従い甲府(甲府市)を離れ岩櫃に移った。天正7年(1579年)には武田と上杉間で甲越同盟が締結され上杉方との抗争は収束するが、相模の北条氏との甲相同盟が破綻したため、上野国は引き続き緊張状態にあった。 天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順して上野国吾妻郡、利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵され、信繁は関東管領として厩橋城に入城した滝川一益のもとに人質としてだされる。 同年6月に本能寺の変により信長が横死すると武田遺領は空白域化し、上杉氏、北条氏、三河国の徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生する。天正壬午の乱である。滝川一益は本能寺の変によって関東を離れるときに信繁も同行させ、木曾福島城で信繁を木曾義昌に引渡した。 真田氏は上杉氏に帰属して自立し、天正13年(1585年)の第一次上田合戦で徳川氏と戦っている。従属の際に信繁は人質として越後国に送られ、信繁には徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられたといい、天正13年(1585年)6月24日に屋代氏旧臣の諏訪久三に安堵状を発給している。慶長5年以前の信繁領は上田市西塩田の前山村で、上田領全体で千貫以上を所持していた。 豊臣秀吉の馬廻衆としての真田幸村 織田家臣の羽柴秀吉こと豊臣秀吉が台頭すると昌幸はこれに服属し、独立した大名として扱われる。信繁は人質として大坂に移り、のちに豊臣家臣の大谷吉継の娘、竹林院を正妻に迎えている。 天正17年(1589年)、羽柴秀吉の命で、信幸は沼田城を北条氏へ引き渡したが、北条氏直が裁定に逆らって名胡桃城を攻めたことで、12月に小田原征伐が号令される。翌年の遠征では昌幸と信幸は前田利家、上杉景勝らと松井田城・箕輪城攻めに、信繁と吉継は石田三成の指揮下で忍城攻めに参戦した。 『大鋒院殿御事跡稿』は文禄の役で昌幸と信幸とともに肥前名護屋城に700名を率いて在陣していることを記す。『松浦古事記』には三ノ丸御番衆の御馬廻組に信繁の名がある。 文禄3年(1594年)11月2日、従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜される。この信繁の立身には、岳父の吉継とその母である東殿の意向が反映されていた。 豊臣政権期の信繁の動向は史料が少なく詳細はわかっていない。文禄3年の叙任も史料はある。近年の研究によって信繁が秀吉の馬廻衆であり、昌幸とは別に1万9000石の知行があったことがわかっている。信繁は豊臣政権から伏見城の普請役を課され、大坂・伏見に屋敷を与えられるなど独立した大名として遇されていた。知行地の支配については原昌貞ら昌幸の家臣に任せていた。 関ヶ原の合戦と真田幸村 信繁は秀吉死後の慶長5年(1600年)に五大老の徳川家康が五大老の一人である会津の上杉景勝に向けて討伐の兵を起こすとそれに従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、真田信繁(幸村)は父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)であるため東軍についた兄の信之と袂を分かつ。 東軍の家康の三男である徳川秀忠勢は中山道の制圧を目的として進軍し、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、38,000の徳川軍を城に立て籠もって迎え撃った。少数の真田隊に手こずっている秀忠は家康に上田城攻略の中止と関ヶ原参戦を命じられる。 秀忠勢が去った後も海津城将の森忠政は葛尾城に井戸宇右衛門配下の兵を配置して上田城の動きを監視させていた。これに対して信繁は9月18日と23日の2度討って出て、夜討と朝駆けを敢行している。 9月15日、西軍は秀忠率いる徳川軍主力の到着以前に関ヶ原で敗北を喫する。昌幸と信繁は本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところだったが、信之とその舅(しゅうと)である本多忠勝の取り成しがあって、高野山配流を命じられるにとどまり、12月12日に上田を発して紀伊国に向かう。はじめ高野山にある蓮華定院に入り、ついで九度山に移った。蟄居中の慶長16年(1611年)に昌幸は死去。慶長17年(1612年)に信繁は出家し、好白と名乗った。 真田幸村の大坂城入城 慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川と豊臣の関係が悪化する。これは徳川得意の因縁付けである。秀吉亡き後、徳川家康の老獪(ろうかい)な政治戦術が爆発したとみていい。大名の多くが徳川に付いている。大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策をとる。また九度山に蟄居(ちっきょ)しているの真田信繁(幸村)に黄金200枚、銀30貫をたずさえた使者をおくる。信繁はこれに応える。信繁は国許(上田)にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、嫡男大助と一緒に九度山を抜け出して大坂城に入る。大坂で信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一していた。真田の赤備えである。 大坂冬の陣と真田幸村 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、信繁は当初からの大坂城籠城案に反対し、まずは京都市内を抑え、近江国瀬田、現在の滋賀県大津市の瀬田川の瀬田橋付近まで積極的に討って出て徳川家康率いる軍勢を迎え撃つよう主張した。作戦案に浪人衆は賛成を表明するが結局受け入れられなかった。 大坂城への籠城策が決定すると、信繁は大坂城の最弱部とされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築いた。大坂城の最弱部は、上町台地の中央部、真田丸の西のである。 信繁は、地形の高低差が少なく惣堀の幅も狭い真田丸という突出部を築くことで真田丸に敵の注意を引きつけ、大坂城の真の弱点を隠す。真田丸の背後には幅200メートルの深い谷があり、信繁は、真田丸が落とされても、谷が大坂城を守ると見越して真田丸を築いた。半円形といわれてきた真田丸は『浅野家文庫諸国古城之図』が採録した『摂津 真田丸』の絵図では不定形であった。 戦闘で信繁は寄せ手を撃退し武名を天下に知らしめる。真田丸の建造は大野治長ら豊臣の武将は、信繁が徳川方に寝返るための準備であると疑った。寝返ることが頻繁になされている時世であるから人を信じない。人の言葉は信じられない。 冬の陣の講和後、真田丸は両軍講和による堀埋め立てとあわせて壊される。豊臣方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615年)2月に、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し、「信州で十万石下さるべく候旨」条件を提示し、承知をするならば、本多正純から誓詞を与えることを持ち出す。信繁が秀頼には恩があると断ると、「信濃一国を与える」と使者をだす。信繁は「信濃一国どころか、「日本国中の半分をいただけるとしても、わたしの気持ちはかわりません」と応じなかった。 大坂夏の陣 信繁は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の道明寺の戦い(5月6日)にに兵をだす。伊達政宗隊の先鋒である片倉重長らを銃撃戦の末に一時的に後退させた。道明寺の戦いでは、先行した後藤基次こと通称は又兵衛隊が真田隊が駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。遅れは濃霧のため真田隊が行路を誤ったと史料が伝える。 毛利勝永隊は真田隊より早く戦闘現場に着陣しており真田隊の到着を待っていた。指揮権は大坂城内の譜代の大野治長にあった。後藤基次討死の責任が、信繁や勝永ら現場の武将にあるとは断定できない。所定の時間に着陣できなかった信繁は毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。 毛利勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と信繁を慰留、自らは退却に移った。真田隊は殿軍(しんがり)を務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させた。 撤退戦では「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」つまり関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだなと徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と作戦を実行した。 信繁は兵士の士気を高めるために豊臣秀頼本人の直接の出陣を訴えた。豊臣譜代衆や秀頼の母・淀殿が阻む。秀頼は出陣しないで敗戦が決定的になると自刃する。 5月7日、信繁は大野治房、明石全登、毛利勝永らとともに作戦を立てる。戦いにおける最後の作戦になってしまう。右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺と茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回させ待機、合図と共に急襲して横撃するいうものだった。 先鋒の本多忠朝の部隊が毛利隊の前衛に向けて発砲し、射撃戦が始まる。信繁はかねての作戦計画に齟齬(そご)をきたすため、毛利隊に射撃中止の伝令をだす。勝永も中止を促したが、射撃戦は激しくなり、本格的な戦闘へと突入したため、作戦計画は失敗する。信繁は武運尽きたと死を覚悟し徳川家康本陣をに決死の突撃をする。 突撃は真田隊、毛利、明石、大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、徳川勢は総崩れの観を呈する。信繁率いる真田隊は、越前松平家の松平忠直隊15,000の大軍を突破、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦家康本陣に向かって突撃を敢行。精鋭で知られる徳川の親衛隊、旗本、重臣勢を蹂躙し、家康本陣に二度にわたり突入した。真田隊の攻撃の凄まじさに家康は自害を二度覚悟した。 家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは三方ヶ原の戦いに次ぎ二度目である。家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒された。 大野治長は秀頼の出馬はこのときしかないと考え、自ら言上するために大坂城に引き返した。治長は秀頼の馬印を掲げたまま帰ろうとしたため、退却と誤解した大坂方の将兵に動揺が走り、落胆が広がった。さらに城内で火の手が上がったことで、前線で奮闘していた大坂方の戦意が鈍った。このことが事実かどうかはわからない。歴史は権力者の意図によって、またさまざまな立場の人々によって事実が捻じ曲げられる。辻褄のあう説明が「史実」になることが多い。徳川家康はこれを見逃すことはなく、全軍に反撃を下知した。東軍は一斉に前進を再開し、大坂方は崩れ始めた。 真田隊は越前・松平隊と合戦を続けていたが、そこへ岡山口から家康の危機を知って駆けつけた井伊直孝の軍勢が真田隊に横槍を入れて突き崩した。真田隊は越前・松平隊の反撃によって次々と討ち取られて数が減ってついには備えが分断された。 数度の突撃で信繁の疲弊は頂点に達した。兵力で勝る徳川勢に押し返され、信繁は家康に肉薄しながらも撤退を余儀なくされた。真田隊が撤退をはじめたのを見た毛利隊も攻撃続行をあきらめた。こうして大坂方は総崩れとなって大坂城への退却を開始。天王寺口の合戦は大坂方の敗北が決定的となった。 信繁は四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていた。越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次が見つけると「儂の首を手柄にされよ」との言葉を残す。享年49。 実際は、真田信繁という首が多数あったといわれている。近年発見された新史料では、生玉(生國魂神社の周辺)と勝鬘(勝鬘院の周辺)の間の高台で身を休めていた信繁に、西尾が相手を知らずに声をかけ、互いに下馬して槍で戦った末に討ち倒し、のちに陣中見舞いにきた知人が真田家に仕えていたことがあったので信繁の首と判明したとされる。 真田家の家紋である六文銭 真田家の旗印である六文銭もしくは六連銭は冥銭を表している。冥銭とは本来古代中国の習俗で、日本では人を葬る棺に入れる六文の銭を意味し、三途の川の渡し賃である。旗印は「不惜身命」つまり身も命も惜しまないことを意味する。 夏の陣の戦功においては、自らも参戦した証人とも言える黒田長政は生前に、大坂夏の陣図屏風を描かせ、右隻中央に信繁軍の勇猛果敢な姿を配している。江戸時代中期の文人・神沢杜口は、自身の著した随筆集『翁草』のなかで、「史上、単独一位は真田、第二の功は毛利」と記し、さらに「惜しいかな、後世、真田を言いて、毛利を言わず」と、毛利勝永の活躍を記している。 幕府側は、徳川に敵対したにも関わらず真田の名将ぶりの流布を敢えて禁じなかった。「その忠勇に敵方も武士として尊意を示した」「主君に最後まで忠義を尽くすという筋立てが幕府に容認された」ためである。 「二代将軍となった秀忠の関ヶ原での遅参を誤魔化すため、真田親子が名将の方が都合が良かった」「大坂の陣でやや不甲斐なかった徳川勢を遠回しに擁護するため」といった見方もる。 関ヶ原の遺恨が江戸徳川治世に持ち込まれた 徳川の治世における裏切り者への仕打ちは厳しい。真田一族は東西に分かれていたのも裏切りの一形態であった。徳川としてはどのような作戦によってでも兵力を集めることが大事であった。真田の長男の信之が徳川に付き、次男の信繁と父のが豊臣方に付いたのはその時は作戦上致し方なかったとしても大局すれば真田には怪しさがある。 江戸の敵を長崎で討つよろしく、関ヶ原の遺恨が江戸徳川の治世に持ち込まれた。 徳川治世における裏切り者への仕打ちは厳しい。真田一族は東西に分かれていたのも裏切りの一形態であった。徳川としてはどのような作戦によってでも兵力を集めることが大事であった。真田が長男である真田信之のが徳川に付き、次男の信繁と父昌幸とが豊臣方に付いたのはその時は作戦上致し方なかったとしても真田には怪しさがある。 昌幸と信繁親子は徳川秀忠の上田城攻略を失敗させ、徳川秀忠に大きな恥をかかせた。 江戸の敵を長崎で討つよろしく、関ヶ原の遺恨が江戸徳川の治世に持ち込まれた。真田信之が江戸幕府に対して元和7年(1621年)に上田城の整備と拡張を申し出ると、何かにと因縁をつけて却下する。翌、元和8年(1622年)9月には信濃国松代へ転封する。 福島正則は賤ヶ岳の七本槍であり、母が豊臣秀吉の叔母(大政所の姉妹)である。血縁はないものの小姓として秀吉に仕えた。東西に分かれての戦では東方の徳川に付いた。これを主家豊臣への裏切りとみれば裏切りの前科がある。福島正則は豊臣の縁故につながっているから機会をみて処罰するというのが徳川の治世である。 福島正則が台風による城の破損の修復を申し出ると幕府は因縁をつける。安芸と備後50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減転封される。 長野県小布施町の岩松院と福島正則 寛永元年(1624年)、高井野(長野県高山村)で福島正則は死ぬ。享年64。幕府の検死役の堀田正吉が到着する前に家臣・津田四郎兵衛が火葬したことがとがめられ、わずかに残っていた2万石を没収され福島家は取り潰される。幕府は正則の子・福島正利に旧領から3,112石を与えて旗本とした。福島正利が嗣子なく没した後は一旦断絶したが、福島忠勝の孫・正勝が家を再興し、代々御書院番などを務めた。 長野県小布施町の岩松院に福島正則廟がある。岩松院は葛飾北斎の八方睨み鳳凰図があり、小林一茶ゆかりの寺である。福島正則の高井野での生活は5年であった。領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水工事などを行った。小林一茶の「やせ蛙負けるな一茶これにあり」は幼くして命尽きたわが子への追悼である。一茶の里は小布施から北に向かう野尻湖の近くにある。小布施町の岩松院に葛飾北斎、小林一茶、福島正則が交錯する。 真田幸村の人柄 信繁の人柄は、兄の信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒るようなことはない。信之は『幸村君伝記』において「幸村は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある」と語る。 『真竹内伝追加』は、九度山幽閉中の信繁は日頃から地域の人々や老僧と深く交わり、狩りをしたり寺に遊びに行っては囲碁や双六に興じ、屋敷では夜更けまで兵書を読み耽(ふけ)っていたことを伝える。父、昌幸生存中は、兵書の問答を欠かさず、欠けていた知識を補った。つねに武備を怠らない。心中に蟠竜(伏流する竜)を保ち近隣の郷士や郎従をしばしば集めては、兵術、弓、鉄砲の訓練を行っていた。 仙石忠政による上田城の建築の跡が現在の上田城 真田信之は江戸幕府に対して元和7年(1621年)に城の再整備・拡張を申請するが却下され、ついで元和8年(1622年)9月には信濃国松代へ転封される。あとには小諸藩より仙石氏が移封された。仙石忠政は破却されたままの上田城の再建を申請し、寛永3年(1626年)から現在の上田城が普請される。 真田氏時代の縄張りをも利用していると推測されているが、徹底破却の後に近世城郭として新たに築城された。本丸には櫓7棟、櫓門2棟、それらをつなぐ塀が普請された。現在ある本丸の3棟の櫓(南櫓、北櫓、西櫓)など建物の外壁は煤と柿渋で防水した板を用いた下見板張の黒い外観である。 二の丸にも櫓や櫓門を再建するため、櫓台なども構築されたが、寛永5年(1628年)4月20日仙石忠政の死により工事は中断され、これ以上の増築は行われないまま仙石氏の転封された。あとに藤井松平家に藩主家が交代し、それが長くつづいて幕末を迎える。 明治以降は、破却や城外への移築が行われて城内には石垣と櫓(西櫓)が1棟残っていた。昭和期に、移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、平成期には櫓門や塀などが木造復元された。二の丸の土塁や塀なども復元される計画である。 現代の上田城のつくり 本丸を南側に置き、二の丸が本丸の北・東・西を囲み、二の丸と東の大手門の間に三の丸を置く、梯郭式といわれる縄張りとなっている。これは千曲川に接する断崖の南側が最も天然の防御力が強く、当初は天正壬午の乱において北条氏による上州方面からの、上杉氏による越後方面からの攻撃に対するものであった。翌1584年に真田氏が徳川氏と断交したため、当初は越後方面に予定していた防御正面である大手を対徳川を想定して東側に変更した。 上田城では、本丸や二の丸など城の中心に置かれる政務用の建物が三の丸に置かれている。真田信幸が上田領を継承したときに上田城は破却されていたために、城下町に近い三の丸跡地に居館を建てたことに始まる。 その後、上田城は仙石氏により再建されたが、仙石忠政の死により工事は中断され、これ以上の増築は行われないまま、仙石氏の転封および松平氏(藤井松平家)に藩主家が交代し、幕末までつづく。 真田昌幸時代の上田城の詳細な造はわからない。堀底の発掘調査で真田氏時代と想定される金箔瓦や菊花文軒丸瓦、金箔鯱の破片どがみつかっている。 上田城に天守があったのかを確認できない。起工から2年後の第一次上田合戦当時の資料として山鹿素行の『武家事紀』)がある。ここには「天守も無き小城」とある。仙石氏により再建された上田城にも天守はない。 第一次上田合戦当時の上田城は未完成とされていることや、寛永年間の作成という絵図には上田城本丸に「御天守跡」と記入されていること、金箔瓦や菊花文軒丸瓦、金箔鯱の破片が出土していること、同時期の近隣諸城(小諸城や松本城、高島城)や嫡男真田信幸の沼田城に天守があることなどから真田昌幸時代に三層四階建ての天守があったことも考えられる。第一次上田合戦から第二次上田合戦後に破壊される間の資料がみつからないのでいる。本丸は東西に延びた長方形だが、その北東の角のみ鬼門を避けるため欠いた構造になっている。 真田の上田支配は40年ほど 上田での実際の支配期間は40年ほどであるが、小説『真田太平記』『真田十勇士』や時代劇の舞台として真田氏の居城「上田城」が登場する。戦国期の真田氏城郭にはほかにも以下の城がある。真田本城、戸石城(砥石城)、沼田城、岩櫃城、名胡桃城、塩田城、伊勢崎城、矢沢城。 (写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郞) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年06月11日 18時47分55秒
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