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2019年12月27日
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カテゴリ:エッセー
私の履歴書 蓑輪善藏-その1-佐原で造り酒屋の分家の長男として生まれる



私の履歴書 蓑簔輪善藏-その1-佐原で造り酒屋の分家の長男として生まれる

本家は代々蓑輪由兵衛を名乗り酒造業を営んでいた

 私の出生地は、幕末、精巧な実測日本地図と、このとき使用したと言われる折衷尺で有名な伊能忠敬を生んだ千葉県佐原市で、1925年3月、蓑輪仲三、雪江の長男として生まれました。私の家は分家で、本家は代々蓑輪由兵衛を名乗り酒造業を営んでいて、分家した初代が儀助、二代が善吉、三代が仲三です。本家も明治の中頃まではなかなかの羽振りだったようですが、何故か家業が傾き一気に没落してしまいました。

 この時わが家の当主は1865年生まれの善吉で本家の蔵番等をして生計を立てていたようですが、本家の没落後の我が家は、ある時払いの催促なしの借金とはいえ200円の負債を持つ生活に入りました。この借金は本家の土地200坪を買い取る資金とこれから住む家の修理代(それまで蔵として使っていた所)で、本家は総てを整理して残った資産は2000円だったと聞いています。本家、分家の間柄とは武家社会の主従と同じ様なものだったのでしょうか、今考えると随分と不合理のようにも思われます。わが家の借金最後の返済は、確か1940年中学生の私が1人で親戚に届けに行き借用証書を受けとってきたと覚えています。

祖父善吉とその妻

 善吉は中風を患い左足が悪く歩くのも不自由だったこともあってか、書を良くし、郡役所の書記や女学校の事務員などを勤めていました。菩提寺である日蓮宗浄国寺内にある七面大明神縁起の碑文は善吉の書によるものです。善吉には5人の弟がおりましたが東京に2人、北九州に1人いて、あとの2人は身寄りがなく我が家の墓に入っています。

 善吉の先妻「くに」は佐原町の加瀬尚八の三女で、善吉には「くに」との子「みの」と「くに」死亡後の後妻「はつ」との子仲三がいますが、「はつ」が後妻にはいった時「みの」は「はつ」の実家、久住の医家沢田良安のもとに引き取られて育っています。詳しい話は聞いていませんが、「はつ」の性格が知れようと言うものです。「みの」の嫁ぎ先坂井家は今松戸市に続いています。母雪江は銀行員吉田忠蔵の長女で妹4人と弟1人がいます。雪江の母は直ぐに亡くなり、次に来た後妻も妹1人を残して他界、後の弟妹は三度目の後妻の子です。

 母は女学校には入ったものの継母に大分虐められた様ですが、実家は私より10才程上の、母の弟義一が継ぎ、吉田家は佐原市浜宿に続いています。

善蔵の名は祖父から貰う

 私が生まれた時、名前を何とつけるか大分揉めたようですが、結局二人の祖父善吉と忠蔵の一字づつを取って善蔵とつけたとのことで、お蔭様で字画が多く苦労したのは私でした。祖父善吉は1865年生まれ、父は1901年生まれそして私は1925年生まれで3人とも丑年でした。私が生まれて2年後に生まれた弟昭二を始め6人もの弟や妹が生まれましたので、私は早くから祖父母特に祖母「はつ」の手に移っていたのは当然のことでしょう。

祖父母の思い出

 祖父との思い出は、冬は居間の炬燵に、夏はテーブルを前に同じ場所に座っていて、子供達はその傍には寄り付けませんでしたが、小学校に入学する前に祖父と2人で、当時向島区隅田町に住んでいた「みの」の嫁ぎ先坂井家を訪ねたことがありました。

 祖母とは幼稚園に入るまで天気がよければ幼稚園の庭や、小野川の土手で遊び、菩提寺の日蓮宗浄国寺に併設されている清正公のお祭りの日(毎月23日)に太鼓を叩きに行ったり、天理教につれていかれたことなどがありました。

 佐原の家を整理した時の遺品などを見ると祖父母は信心深かったように思えます。浄国寺に今も残る二体の浄行菩薩は由兵衛と善吉の寄付したもので、わが家にはこの浄行菩薩や不動明王などの掛軸が残っています。この頃の話でしょうか、浄国寺のお上人が私の顔を見て「この子は親、子に縁の薄い子だ」と言ったとか。

水運の集散地佐原町

 私が覚えている頃の千葉県香取郡佐原町は、人口2万人程の町で利根川を挟んで千葉県側の佐原と茨城県側の北佐原とに分かれ、小学校も佐原小学校と北佐原小学校の2校がありました。千葉県側の佐原はさらに利根川に注ぐ小野川によって東側の本宿と西側の新宿とに分かれています。

 伊能忠敬宅は小野川沿いの本宿側にありましたが、新しく建てた現在の忠敬記念館は小野川を隔てた新宿側に建てられています。私の家は伊能忠敬宅から300メートルほど離れた小野川の上流部分にありました。

 佐原は江戸時代、利根水運による江戸への物資輸送のための集散地として栄えていました。利根川周辺から生産品の荷揚げと、江戸への輸送のため、小野川沿いには大きな店が並び、店の前の道路から川まで階段が作られていました。その中に、利根川を越えた茨城県から白瓜を購入して奈良漬を作っていた親戚(分家としての初代儀助の妻、喜舞の実家)があって、小さい時から度々使いに行っては可愛がられていました。

佐原の祭り

 関東の三大祭の一つとも言われる祭りは、本宿にある八坂神社の夏祭りが7月半ばに、新宿にある諏訪神社の秋祭りが9月末に行われていました。この祭りは、各町内にある山車に7、8人のお囃子を乗せ佐原ばやしを奏でながら、街中を引き回すもので、近在からの見物客で大いに賑わったものです。山車は大きな歴史人形、藁で作った鷹や鯉などを乗せた大きなもので、本宿に約10台、新宿に約14台があります。また、今は佐原市になっていますが、香取には武神、経津主命を祭る官幣大社香取神宮があります。香取神宮のお祭りは、お田植え祭、12年毎の軍人祭、などが記憶に残っています。

佐原小学校時代

 私の年代は1931年9月18日に起こった柳条湖における鉄道爆破事件即ち満州事変発端の年に小学校に入り、1937年7月7日盧溝橋で始まった日支事変の年に中学校に入り、最上級生になった1941年12月8日には第二次大戦が始まっています。物心つく頃から戦争の歩みの中に身を置いてきたことになります。

 1931年に小学校に入りましたが、佐原小学校は家から200m位の所にあり、運動場も広く子供達の遊び場の1つでした。私は3月生まれの早生まれでしたので,3年生まで弱年組の男女組でした。佐原は伊能忠敬の出身地であり、小学校時代は毎年4月半ばの忠敬記念日に、諏訪公園にある銅像の写生をさせられていました。

 小野川の上流には田に水を引くための堰があり、田植え時期以降になると堰は閉ざされ、その上流は2m位の深さがありました。私なども小学校2年生位から背の立たないここで泳いでいました。

 男女組が解消された4年生の頃に家と小野川との間にあった水田が埋められ5、6年生用の校舎が建ちました。丁度5年生になった時その校舎が竣工し、この校舎に入ったため、この時から家の裏庭から学校に行けるようになりました。

 放課後の遊びは専ら校庭でしたが、町内に年上で野球の好きな人達が何人かいたためか、近所の子を集めて野球チームが作られたのが丁度5年生の頃で、私も初めから参加させられ6年生までショートを守っていました。昭和11年の2・26事件の日は佐原でも深いところで50cmもの雪が積もっていました。

佐原中学に進む

 佐原付近での中等学校は農業学校を除けば県立の銚子商業、佐原中学そして私立の成田中学でした。前にも記したように私の家は代々商人で、父は銀行員、小学校5年生の時には、5、6年生合同の算盤大会(読上げ算と加減算)があって上位に入ったりもし、また本家の人達は皆銚子商業でしたので、私も銚子商業かとも思っていましたが、通学時間や交通費などのこともあり、佐原中学校になりました。

 1937年約150人ほどが佐原中学校に入学しましたが、その内35人程が佐原小学校からの入学者でした。この辺での通学は下宿を含めた徒歩以外に自転車、汽車、バス、船ですが、船通学などはこの辺ならではのことでしょう。

軟式庭球部に入る

 佐原中学校には剣道部、柔道部、野球部、籠球部、弓道部、庭球部(軟式)、陸上部、射撃部、そして端艇部などがありました。人気のあった端艇部はボートの老朽化からこの年に廃部になってしまいました。利根川で行うボートレースは夏の風物詩の一つで、見物人は堤防にあふれ、たくさんの出店が並びました。

 小学校から野球はよくやっていましたので、同級生の中では上手だった筈で、野球部の上級生からは執拗に入部を勧誘され、脅されもしましたが何故か軟式庭球部に入っていました。部活動とは別に剣道と柔道が正課になっていて、そのどちらかに所属しなければならず私は剣道部でした。

 1938年でしたか、7月に台風による大水があり、畳を上げて道具類をその上に上げ、弟妹達を母の実家に避難させたりしましたが、床下に水が入り乾くまで大変でした。このとき利根川近くの養鯉場も水をかぶり多くの鯉が逃げ、水が入った水田で鯉を釣る人で賑わったりしていました。

 中学も3、4年生頃まで勉強もぼちぼち、祖父か父が読んだものか、漢文や古文の本やその解説書などがあり、十八史略や徒然草、土佐日記などを読み始めたのもこの頃で、物理、数学よりは興味を持っていました。

映画「愛染かつら」

 遊ぶことには不自由しませんでしたが、テニスに明け暮れる中で霞ヶ浦、利根川での水泳、鮒釣りそして「愛染かつら」の映画にうつつを抜かしていました。この当時中学生の映画館入りはご法度でしたが、「愛染かつら」の時などは教師も来ていて補導されることもありませんでした。家から200mも歩けば鮒釣り場があり、暇があれば釣りに行っていた頃もありました。

事教練と「非国民」

 軍事色が強くなる中、配属将校の権力が校長を凌ぐほどになり、教練の授業での体罰は殴る、蹴るなどは当たり前でした。1940年、当時の5年生が紀元2500年を記念して宮城前で行進したこともあり、この頃から毎月朔日の早朝、香取神宮に参拝させられました。1941年中学も最上級生となり、軍事教練も多くなり、富士の裾野や下志津練兵場などでの軍事教練も行われるようになっていました。

 12月8日の米英への宣戦布告により軍事体制は更に加速されていきました。

 中学5年生の時、忘れもしません、私を非国民と罵(ののし)ったまだ若かった国語の先生がいました。漢文を教えていたのですが、教科書の順序を飛ばして講義するので、講義の順序を前もって教えておいてほしい、と言ったら、途端にがなり始め、果ては非国民にまで発展してしまいました。卒業式の日にでも、殴ってやろうかと思っていましたが、間もなく結核になり学校に来なくなってしまいました。

(つづく)

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最終更新日  2019年12月27日 14時17分14秒
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