世界の大学ランキングは英国が仕組んだ虚構だ(計量計測データバンク編集部)
世界の大学ランキングは英国が仕組んだ虚構だThe world's university rankings are a fiction organized by the United Kingdom国の財政悪化対応として英国のサッチャーは腎臓病高齢者患者への人工透析を断つ政策を実行つづくブレア政権は国立大学の財政を国家から切り離す行動にでた大学ランキングは授業料を取るためのブレアの方策であった世界の大学ランキングは英国が仕組んだ虚構だ(計量計測データバンク編集部)世界の大学ランキングは英国が仕組んだ虚構だ山極壽一氏Wikipedia「なぜ東大や京大が上位に入らないのか」世界大学ランキングを信じてはいけない霊長類学者・人類学者 山極寿一https://president.jp/articles/-/52833山極 壽一(やまぎわ じゅいち、1952年生まれ )は、日本の人類学者(人類学・生態環境生物学)。学位は理学博士(京都大学・1987年)。名の「壽」は「寿」の旧字体のため、新字体で山極 寿一(やまぎわ じゅいち)とも表記される。日本学術振興会奨励研究員、財団法人日本モンキーセンターリサーチフェロー、京都大学霊長類研究所助手、京都大学大学院理学研究科教授、京都大学大学院理学研究科研究科長、京都大学理学部学部長、京都大学総長(第26代)、一般社団法人国立大学協会会長(第26代)、日本学術会議会長などを歴任した。2021年4月より総合地球環境学研究所所長を務める。東京都出身の人類学者、霊長類学者にして、ゴリラ研究の第一人者である。京都大学理学研究科教授を経て、京都大学総長に就任し、2020年9月30日をもって、任期を終え、退任した。日本学術会議では「安全保障と学術に関する検討委員会」委員を務めており、会長にも就任した。東京都出身。国立市立国立第一中学校、都立国立高校を経て、京都大学理学部卒、同大学院理学研究科博士課程修了。理学博士(1987年)。人類学者として。カリソケ研究センター客員研究員、日本モンキーセンターリサーチフェロー、京都大学霊長類研究所助手、京都大学大学院理学研究科助教授、同教授を経て、2014年7月3日に京都大学で行われた教職員による投票(意向調査)で山極が1位となり、翌日の4日の学長選考会議で正式に学長になることが決まった。 2014年10月1日より総長に就任[1]。京都大学の総長としては初の戦後生まれの総長となった。河合隼雄学芸賞選考委員などを務めている。伊谷純一郎を師とし、人類進化論を専攻、ゴリラを主たる研究対象として人類の起源を探る。病理学者で人工癌研究のパイオニアとして知られる山極勝三郎は遠縁にあたる。(山極壽一 Wikipedia)世界の大学ランキングは英国が仕組んだ虚構だ(本文) 世界の大学ランキングは英国が仕組んだ虚構なのだが、週刊朝日、週刊毎日など週刊誌そして何となく知的な雰囲気を漂わせてきた月刊誌が「世界の大学ランキング」として、まことしやかに報じてきた。現在米国の大学院博士課程に在籍する畠山勝太氏の文章より引用 世界大学ランキングでは5つの項目でが評価される。教育の質30点のうち15点はタイムズ紙による評判調査を用いる。15点は職員と学生のが4.5点、博士号授与数―学士号授与数比率が2.25点、博士号授与数―学術関連の職員比率が6点、大学の収入が2.25点。大学の研究の質が30点。18点がタイムズ紙による評判調査に割り当てられ、12点が研究からの収入と研究の生産性。研究の生産性とは研究者一人当たりの論文数。30点は論文の被引用数。100点のうち10点が記載されていない。評価対象は学部生の教育をしている大学で単科大学は除外される。上越教育大学や鳴門教育大学や大学院大学は対象外。この文章の引用先は現在米国の大学院博士課程に在籍する畠山勝太氏の文章。山極寿一氏の文章を下敷きにして構成 大学ランキングという言葉をつくり騒ぎ立てたのは英国政府である。国の財政悪化対応として英国のサッチャーは腎臓病高齢者患者への人工透析を断つ政策を実行した。つづくブレア政権は英国の国立大学の財政を国家から切り離す行動にでた。大学の年間予算の10%だった授業料収入を上げるための方策が大学ランキングだった。ランキング上位大学の授業料が高くなり、最近は年間予算の50%が授業料収入になっている。米国の私立大学はブレアの画策に便乗した。ランキング上位の大学が英米の英語圏にある。ランキング評価決定の方法がはじめから英米に優位に働くように仕組まれていた。英国の大学は留学生には通常の3倍の授業料を設定している。 世界大学ランキングは英国の国立大学の財政を国家から切り離す手段であった。日本では偏差値偏重の子弟教育を週刊誌が煽り、知的にみえた月刊誌が大学世界ランキングを読み物にした。ブレアの画策を見抜けない日本は高等教育の低さと単純に受け止めて、世界大学ランキングの100位以内に10校をという目標を立てたのであった。日本の大学は米国に比べて私立大学の授業料は安く、留学生には日本の学生と同じ授業料になっている。 1960年に1,300万人だった世界の大学生は、2008年には1億5000万人になった。大学は少数のエリートを養成する場所ではなくなり、さまざまな能力を養成する教育機関に分化し始めた。この間に財政を悪化させる大国が相次ぎ、国の資金で高等教育を担えなくなった。ヨーロッパでは、授業料を国が一時立て替えて、就職後に給料から天引きする学生ローン制度がつくられている。 高等教育は社会のためにあるのか、それとも個人のためにあるのか、という問いに大学は直面している。高等教育は道徳、知性、作法、知識つまり教養を高めることは、個人の能力として蓄積されるものではあっても、そのことで社会がより良くなるという考えのもとに、高等教育の費用負担を国が受け持ってきた。 教員の身分について米国では、理事会や学長の力が強かった。これに対抗して教員による教授協会はテニュア制度をかちとった。テニュア制度は教授としての終身在職権である。米国のシカゴ大学の経済学教授であった宇沢弘文氏はテニュアを取得していた。ベトナム戦争反対して同一の行動をとっていた助教授たちは解雇された。宇沢弘文氏が英国に教授交換で出向いている間にテニュア資格を持たいなかった助教授たちは解雇されていたのであった。宇沢弘文氏は1968年に東京大学経済学部助教授として日本に戻る。翌1969年同教授、1980年同経済学部長。東京大学に機動隊が突入したあとで国が大学を管理するようになった日本の大学は世界で一番魅力のない大学になったと宇沢弘文は述べる。(これらの文章は京都大学総長だった山極寿一氏を一部下敷きにしている。)(計量計測データバンク編集部)[資料]「なぜ東大や京大が上位に入らないのか」世界大学ランキングを信じてはいけない霊長類学者・人類学者 山極寿一https://president.jp/articles/-/52833日本人がほとんど知らない「世界大学ランキング」の問題点 そもそもどう順位付けしているの? 畠山勝太NPO法人サルタック理事https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57892[参考]卒業記念にボブ・ディラン全詩集を渡された男のその後 甲斐鐵太郞政治が熱く語られ自らの立場を問われた学生生活であった 1970年当時、大学は70年安保と学費値上げなどを問題にして荒れており、学生は皆このことと無縁で学生生活をすることはできなかった。政治が熱く語られ自らの立場を問われた学生生活であった。学生たちの社会観は現実の社会と離れていたから、企業に就職しても役所に就職しても、自らの理念と相克した。役所ならば労働組合がしっかりしていたから仕事との矛盾を組合活動によって埋め合わせることができた。企業となるとそうは行かない。このことが学生の巣立ちを阻んでいた。企業戦士になることには大いなる躊躇があった ある者は大きな国家試験に通ることを心の助けとして職にに就いた。弁護士、弁理士、公認会計士などがそれである。企業にはいって一介のサラリーマンとなる、あるいは企業戦士になることには大いなる躊躇があった。その躊躇を救う道として外国に苦難の旅にでる者がいた。この男はある女と恋人になることが何時しか目的になった。そうすればどのような苦難にも立ち向かえると考えたのである。デモ隊列でボブ・ディランの「風に吹かれて」と西岡たかしの「遠い世界に」が歌われた デモ行進のときに歌われるボブ・ディランの「風に吹かれて」があった。1962年のレコードデビューの曲であり、米国のベトナム反戦デモでよく歌われていた。「どれだけ多くの死者が出れば気が付くのか。どれだけ海の上を飛べば鳥は陸地に着けるのか。知るのは風だけである。」というのがストーリーである。日本では五つの赤い風船が「風に吹かれて」の歌詞に啓発されてベトナム反戦歌として聞えるのが「血まみれの鳩」である。西岡たかしの詩である。西岡たかしの「遠い世界に」はボブ・ディランの「風に吹かれて」と共に歌われた。藤原秀子が歌う「血まみれの鳩」と「遠い世界に」は飾らなくてよかった。五つの赤い風船は1967年結成、1972年解散した。この時代の女性ボーカルは藤原秀子であった。「遠い世界に」は1968年5月8日にレコード発売された。社会的共通資本の理論をつくりあげた宇沢弘文 米国のベトナムへの介入としてのベトナム戦争へについて触れる。日本では1968年からの大学紛争が1970年の日米安保反対運動への雪崩を打っていく。この前後に米国と日本にいて大学教員として当事者の立ちがから運動にかかわり、運動を見ていたのが宇沢弘文であった。宇沢弘文はシカゴ大学で教授であったが、シカゴ大学の同僚教授のミルトン・フリードマンの市場競争を優先させることで経済は効率的に成長するという考えに対し、宇沢は効率重視の過度な市場競争は、格差を拡大させ社会を不安定にすることを主張する。ミルトン・フリードマンの経済学の着想の逸話が宇沢弘文によって語られている。教育の経済学の発想は大学に行くときの費用と労力と行かなかったこととの生涯賃金の差はどうであるか、ということである。犯罪の経済学は人を殺すときの快感と捉えられて監獄に押し込められ時に死刑になることの苦痛の比較として成立させた。自殺の経済学は現在の苦痛と死ぬときの苦痛の差によって計算される。ベトナム戦争に関しては最小の兵器と兵力でいかに敵を殺すかという市場原理による計算をしていた。新自由主義のフリードマン氏と社会的共通資本を着想した宇沢弘文の経済学の違いは明白である。ベトナムへ派遣米軍は1965年末に第3海兵師団、第175空挺師団、第1騎兵師団、第1歩兵師団の計184,300名になる 1956年に宇沢弘文はスタンフォード大学に招聘(しょうへい)される。1964年には シカゴ大学経済学部教授となる。米国はベトナムの内戦に本格的に介入するようになる。1965年3月8日に海兵隊3,500人が南ベトナムのダナンに上陸する。ケネディ政権時代は南ベトナム軍を強化するためにアメリカ軍人を「軍事顧問及び作戦支援グループ」として駐屯させていた。その数は1960年には685人であったものをケネディが15,000人に増加させ、1964年末には23,300名にとなった。ジョンソン大統領は1965年7月28日に陸軍の派遣することを決めた。ベトナムへ派遣されたアメリカ軍(陸軍と海兵隊)は1965年末までに第3海兵師団、第175空挺師団、第1騎兵師団、第1歩兵師団の合計184,300名になった。地上軍の投入により戦線が拡大する。米国では学生は徴兵の対象であり反戦運動をしたり成績が悪い学生を優先して徴兵する政策がとられていた 米国の徴兵制は1973年1月に廃止される。1975年3月には選抜徴兵登録も廃止される。1966年ころには徴兵制であった。徴兵の年齢と大学生と大学院生の年代が重なる。アジアの小国ベトナムに米国が軍事介入し空爆による大量殺戮(さつりく)と枯れ葉剤による自然破壊といった暴虐を、知識層は自分がなす行為として受け止めていた。学生は徴兵の対象であり、反戦運動をしている学生や成績が悪い学生を優先して徴兵する政策が実行されていた。シカゴ大学は大学院大学であった。シカゴ大学の経済学部教授として宇沢弘文は在職していた。学生の成績表を徴兵局に送らないことを求めて1966年にシカゴ大学の学生は本部塔を占拠する。宇沢弘文氏は他の三人の教授と大学と学生の調停役として活動する。調停によって大学は学生の成績を付けないことが決められる。シカゴ大学の学生は学者研究者になる人々であったのだ。調停役を勤めた教授たちは全国の反戦運動の動きを大学教授と学生に伝える雑誌を発行していた。宇沢弘文氏が前からの約束によって1966年8月にケンブリッジ大学に行って一年後に戻る他の三人の教授は大学を追われていた。テニュウアという終身的な地位の保証権を保有していたのは宇沢弘文だけだった。米国はその後に選抜徴兵登録制度が復活して現在に至っている。博士論文作成途中の三人の学生のベトナム反戦運動の結末 宇沢弘文が担当していた博士論文を執筆していた優秀な学生のうち二人が山の中に籠もるようになった。一人は州立大学の教員になっていた。一人は一家がある州の有数の山林地主であり宇沢が東大に戻っていたころに一度姿をみれた。幽霊と向き合っているような不気味さがあった振り返る。この人はその後に自殺した。ある学生は徴兵局を襲撃して自ら出頭する。10年の懲役刑を受けて刑務所を転々としたのち故郷に戻ったという消息が残っている。これらの人々が大学に残って研究していたら米国の経済学はまったく違った姿になっていたに違いないと宇沢弘文は述べる。ベトナム戦争期間をつうじて米国では10万人近い学生が徴兵を逃れて海外にでていった。ほとんどは米国に帰らなかった。帰った人は逮捕され重い刑に処せられた。宇沢弘文を日本に戻らせたのはベトナム戦争であった。アジアの小国ベトナムを焼く尽くす軍事行動をする米国にいることが恥ずかしくなったのある。東京大学の運営は管理主義的運営であり教授たちは権力闘争に明け暮れる 宇沢弘文は1968年に東京大学に戻って経済学部助教授に就任する。シカゴ大学はこの処置に対抗して宇沢弘文の教授職の名目を特例で残していた。宇沢弘文は1969年同教授、1980年同経済学部長の経歴。1968年4月に東京大学に戻ると安田講堂を学生が占拠するという事件が発生して東京大学は研究らしい研究はほとんどできなかった。宇沢弘文は学生の思いに同情する。大学と学長の管理主義的な対応に反発する。養老孟司が折に触れて述べることは東京大学の管理主義的運営であり、教授たちが権力闘争に明け暮れることである。教授会の選挙では匿名の怪文書が飛び交う。推薦された候補者に投票すると票を入れたのは養老孟司だけであった。このような東京大学を定年前に退職したときにどんよりとしてしか見えていなかった空が青く見えた。宇沢弘文は丸山真男教授らと東京大学改革の委員として活動する。東京大学を法律、経済学、物理学、理学、医学などの高度な学問を追究する大学院大学の構想をつくるのだが実現しないままに現在に至っている。米国のベトナム戦争従軍兵員数は8,744,000人、戦死47,434人、その他の死者1,0786人 ベトナム戦争に徴兵されて駆り出された人々の戦争体験を描いたプラトンなどの映画がある。滑稽な描き方をしたのがトム・ハンクス主演による映画「フォレスト・ガンプ 一期一会」である。敵兵を攻撃することと相まって米兵の戦闘の悲惨な状況が描かれている。従軍兵員数は8,744,000人、戦死47,434人、その他の死者1,0786人。対象期間は1964年8月4日から1973年1月27日まで(出典はThe World Almanac and Book of Facts 2014)。ベトナムにおける暴虐を自分の行為と思い込む学生がいたことを宇沢弘文が伝える。学生生活から徴兵されたベトナムの戦地に行き、銃を持って人を撃つのであるから苦悩は大きい。日本における学生の状態と米国のそれは違う。日本でもベトナム反戦運動があった。日本の学生の学園紛争にはベトナム反戦が添えられていた。事実として日本はベトナムへ戦争の前線基地になっていた。相模原補給廠(相模総合補給廠)か兵器がベトナムに送られた。この近くには三菱の軍関連の施設がいまもある。東京大学医学部の助手であった養老孟司は2年間大学に行けない状況にあった 米国でベトナム戦争に反対する行動にでた大学教員と学生には懲罰的な仕打ちがとられた。シカゴ大学で博士論文課程にいた三名の経済学徒には悲惨な結末が待っていた。日本ではどうであったか。日本の東大闘争の先頭に立った今井澄(いまい きよし)は、機動隊による安田講堂封鎖解除後に逮捕され東京拘置所に勾留された。その後復学をして1970年に卒業、医師国家試験に合格。当初は都内の医療機関に勤務し、1974年に茅野市の公立諏訪中央病院に勤務。 1977年には安田講堂事件の判決が確定し服役する。1978年3月に刑期を終え、1980年に40歳で諏訪中央病院の院長に就任。1988年に鎌田實が代わって院長になる。今井澄は1992年、日本社会党から参議院議員選挙に長野選挙区に立候補し当選する。後に民主党に移り1998年の参議院選挙では比例代表区から当選。参議院では決算委員長ならびに厚生委員長を歴任した。東京大学医学部の助手であった養老孟司は2年間大学に行けない状況にあった。学生の行動と戦時中の軍の指導者の行動は同じ根から起こったと養老孟司は言いのける。日本では学園紛争の渦から社会に飛び出すと企業戦士として生きる者が多かった 医学部の学生には救いの道があった。田渕義雄と同じ道にいた人は会社員となって大企業の役員になった。髪をのばして無精髭で学生集会に時々出かけた男は就職が決って髪を切った。そしてもう若くはないさと言った。荒井由実の作詞・作曲の歌である。学生のころの社会への不満の行動は押し殺して企業戦士として働き、身なりと行動と思想は変容していた。この人の人生の価値観はもたらされる収入と社会一般の評価のそれと同じになっていた。ある男がいた大学の仲間40人の行く末は、教員が10名、地方議会議員が3名、国会議員秘書が1名、労組書記が3名、税理士2名である。残りの人々は地方公務員7名、国家公務員3名、農協職員と地方銀行職員が5名。残りの5名は出版社ほかに勤務する会社員である。米国の大学院大学であるシカゴ大学でベトナム反戦の運動をした学生と教員に比べて日本の学生は学園紛争の渦に巻き込まれながらもその後は穏やかな人生をである。2022-02-28-university-rankings-are-a-fiction-organized-by-the-uk-