日本の犬 縄文の犬 弥生の犬 現代の日本犬 オオカミ データベース-雑記帳-
日本の犬 縄文の犬 弥生の犬 現代の日本犬 オオカミ データベース-雑記帳-日本の犬 縄文の犬 弥生の犬 現代の日本犬 オオカミ データベース-雑記帳-犬の骨格図。全身骨格図奈良県文化財研究所による。panese dog Jomon dog Yayoi dog Modern Japanese dog Wolf database of notebook日本の犬 縄文の犬 弥生の犬 現代の日本犬 オオカミ データベース-雑記帳-(本文)ttps://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/4760/化石からイヌの家畜化の歴史が判明?2011.08.22シベリアで発見されたイヌの頭骨の化石。Photograph courtesy Yaroslav Kuzmin, PLoS ONE ロシアで発見された化石から、3万3000年前のイヌの詳細が明らかになった。1970年代にロシアのシベリア南部、アルタイ山脈で見つかった保存状態の良いイヌ科動物の化石が、最古の“飼い犬”である可能性が出てきたという。 家畜動物として最も長い歴史を持つイヌは、1万4000年前までの化石が多く、2万6500年前を境に発見がほぼ途絶えている。約2万年前にピークを迎えた最終氷期極大期と重なり、氷床が最も拡大していたためと考えられている。 記録が少ないため、オオカミがイヌに枝分かれした時期や過程についてはほとんど解明されていない。 「われわれの研究が重要な意味を持つ。好条件に恵まれていた」と、研究の共同責任者であるロシア科学アカデミー・シベリア支部(所在地はシベリア南部の都市ノボシビルスク)のヤロスラフ・クズミン氏は話す。 今回の化石の種は絶滅しているが、完全に家畜化されたイヌの先駆けとなる特徴をいくつか有している。◆イヌの起源は一カ所ではない? クズミン氏のチームは3つの研究施設で放射性炭素測定を行い、イヌの頭骨とアゴを分析。すべての施設で同じ分析結果が導き出され、化石の年代は約3万3000年前と確定した。 発見されたラズボイニクヤ洞穴(Razboinichya Cave)では、焼かれた小枝も発見されており、なんらかの目的で狩猟採集民が住んでいたらしい。イヌの死因は明らかになっていないが、彼らに飼われていた可能性が高いという。「洞穴内は気温が非常に低く、非酸性の土壌が化石の良好な保存状態に影響したのだろう」とクズミン氏は付け加える。 研究チームはこの化石を、最終氷期極大期以前に生息していた野生オオカミ、現代のオオカミ、現代のイヌ、2万6500年前より古い初期のイヌ科動物と比較した。 外見の比較では、体重と骨格はグリーンランドのそり引き犬、容貌は現代のサモエド(シベリア原産の原始犬に近い犬種)に似ていたらしい。 一方、化石のイヌは、オオカミのような鋭い歯をはじめ、祖先種の特徴がいくつか残っている。家畜化の程度は低く、しかも古代や現代のオオカミ、ロシアの他地域に住む犬種との類似点もない。 つまり他の犬種から派生したのではなく、独自の進化を遂げて人間との関わりを持ちはじめた可能性が高い。過去のDNA分析の結果から、イヌの家畜化は東アジアに起源を発するという説が有力視されていたが、他の地域にもその可能性が出てきた。◆好奇心旺盛なオオカミからイヌへ 研究の共同責任者に名を連ね、カナダのビクトリア大学で人類学と動物考古学を専門にしているスーザン・クロックフォード氏によると、イヌ科動物の家畜化は、石器時代の人々が住居の周囲に捨てた食べ残しを目当てに、好奇心旺盛なオオカミが接近したことがきっかけだと言う。 研究チームによると、同様の現象はヨーロッパや中東、中国でも見られる。「オオカミは人間の近くでうまく生活することを覚えると、成長過程を変化させる。やがては繁殖パターンや体の大きさ、骨格の形状の変化につながり、イヌとなる」というのがクロックフォード氏の見解だ。「イヌはオオカミよりも体格が小さく、頭骨の幅が広い。一度に産む子どもの数も平均するとオオカミより多い。好奇心旺盛で人間をあまり恐れない“先駆者”のオオカミたちが仲間同士で交配を繰り返し、その特徴を強めていったのだろう」と同氏は話した。◆家畜化は複雑なプロセス「しかし、アジアやヨーロッパでのイヌの家畜化に関しては、次々と新しい種が生まれては絶滅しており、非常に複雑なプロセスのようだ」とクズミン氏は述べる。 例えばロシアで発見された今回の種は、氷河時代の進行に伴い、狩猟採集民が食料を求めて行動範囲を広げたことが原因で絶滅した可能性が高いという。「オオカミは同じ場所に数十年留まっていないと、完全に家畜化されないという学説もある」。ミズーリ大学コロンビア校の人類学者R・リー・ライマン氏は、「動物の家畜化はたった一回の“事象”では説明できず、一連のプロセスとして考える必要がある。遺伝子が変化し、野生の祖先種から家畜化された種に進化するためには、長い時間がかかる」とメールでコメントを寄せている。「この研究は、考古学者が見落としがちなこの点を際立たせている」。 研究の詳細は、「PLoS ONE」誌で7月28日に発表された。Photograph courtesy Yaroslav Kuzmin, PLoS ONE文=Christine Dell'Amorehttp://digx.hatenablog.com/entry/2016/05/10/1958012016-06-08イヌの起源 「オオカミ、ヒトに出会う」犬遺伝学生物最古の家畜 イヌ イヌは文句なく最古の家畜である。 そしてその起源は、家畜の中でも桁外れの数万年(もう一桁多い予測もある)という単位が出てくるほど古くまで遡ってしまう。 そしてその古さ故に、家畜としてのイヌの起源の追及は、人類の移住の歴史とも関わってくる。 実は、出アフリカ民である日本の縄文人の祖先と無関係な話で済まないほど、というか、現生人類が世界中に拡がった人類史との関係性を持つほどに、イヌの起源は極端に古いのだ。(イヌもおそらく一万年以上前から日本列島にいて、いつ誰が連れてきたかが問題となる) 今回は、ここ数年イヌの起源にまつわるニュースが錯綜していることもあり、結局今はどのような判断になってるのか、まとめてみることにした。f:id:digx:20160509110823j:plainf:id:digx:20160509110942j:plain 左:柴犬 右:ニューギニアシンギングドッグ 今回断りのない画像の出典はすべてwikipediaのCC0。 まずは基礎知識を書いておこう。狭い意味のイヌであるイエイヌ(英語でdomestic dog。学名Canis lupus familiaris)は、すべての犬種が、タイリクオオカミ(別名ハイイロオオカミ。学名Canis lupus)を家畜化したもの。タイリクオオカミがアフリカにいないため、少なくともイヌはユーラシア起源だと考えられている。で、詳しい場所を追及すると、中国・東南アジア・インド・中東・中央アジア・ヨーロッパと、いろいろな地名が登場することになる。f:id:digx:20160509134742j:plain オランダの動物園のタイリクオオカミ (Canis lupus lupus)。By Warsocketオーストラリアなどのディンゴ(学名Canis lupus dingo)はイエイヌが再野生化したものと考えられていて、オーストラリアに現れたのはせいぜい5000年前ぐらいのようだ。ニューギニア・シンギング・ドッグ(トップから2枚目の写真)*1もこのディンゴの一変種で、学名でもDingo。同じようにこのディンゴと同類とされるイヌに、タイ・リッジバック・ドッグ(タイ)やプー・クォック・リッジバック・ドッグ(ベトナム)もいて、この東南アジアあたりがディンゴ類の起源だと考えられている。f:id:digx:20160509131720j:plain ディンゴの子供イヌの起源論には、一つの大きな障害がある。イヌと、近縁のイヌ属のオオカミ(ユーラシア・アメリカ)・コヨーテ(アメリカ)・ジャッカル(インド・中東・アフリカ)・リカオン(アフリカ)・ドール(ユーラシア東南部)などは(もちろんイエイヌと変わりのないディンゴ類も含めて)染色体の本数も同じで相互に遺伝的に交配可能であり、その子供も子孫を残すことができるのだ。犬種(サイズとか)にもよるが、イヌとオオカミがもともと自然状態でも交配可能であり、実際に世界各地で交配があったと見られることは、イヌの起源の追及を難しくしている。DNAを調べて関係が近いという結果が出ても、それはお互いに後の時代の交配の影響だと考えられるからだ。実際、ヨーロッパのオオカミとヨーロッパのイヌが近いだとか、中国のオオカミと中国のイヌが近いということが、現状として同時に起こっているわけである。(なお、日本などには意図的にオオカミと猟犬を交配させたという、いくぶん伝承的な話もあったりする。紀州犬にも伝承がある。派生して村上和潔さんの話だとか)イヌとオオカミなどが生殖的に隔離された種ではないため、その境目をどこに置くかも問題となる。何を持ってイエイヌがオオカミから分かれたことになるか、家畜化されたというのはどういう状態を意味するのか(これはイヌ限定ではない家畜化の定義問題)、基準をどこに置くかも議論となるわけだ。(もちろん基準次第でその起源地も変わってくることが大いにあり得る)するとイヌの起源は、(これは個人的な予測ではあるが)ストーリー展開のある起源譚となると考えられる。イヌの起源譚は、ヒトが出アフリカした後で、中東でタイリクオオカミと始めて出会い(おそらく始めて出会った場所に関しては異論がない)、○○で何が起こり、○○で何が起こったとか、最終的にイエイヌはデンプンを消化する能力も持っている(これは農耕開始以降のことだと考えられる)だとか、いろいろな変化を並べ立てていく必要があると考えられるのだ。(実は、ネアンデルタールなどがイヌの起源と関係している可能性もある。タイリクオオカミの側から見れば、現生人類以前にネアンデルタールのような化石人類と出会っているはずなのだ)イヌの場合も、まず、オオカミがヒトのすぐ近くで生活を始め、ヒトの作り出した世界にある程度適応する(生態と形態が変わる)という家畜化の前段階があったはずである。(これは家畜だけでなく、ネズミ・スズメ・カラス・ゴキブリ・シラミ*2などヒトの近くに棲む動物すべてが該当する。だからこの段階を家畜化と表現することはないだろう。そして実は、ネコはこの「ヒトの近くで自由に獲物を捕り、自由に繁殖していた」状態が長かったと考えられ、家畜化の定義を難しくする動物となっている。ネコは「ヒトが意識的に家畜化したのでなく、ネコが自らヒトの作り出した世界に適応して、結果的にヒトと共生する道を選んだ」と考えられるのだ)オオカミ(ヒトを怖れることを知らない子供だったかも知れない)は、まずヒトの食べ残し(ゴミ)を狙って、オオカミの側からヒトに近づいたと考えられている。最古の家畜であるイヌの場合もネコのように、自らヒトの作り出した世界に適応することから始まっていると考えられているのだ。(ヒトが意識的に家畜化を始めるのも、このような無意識の家畜化の経験を経てからではないだろうか?)人間は犬に飼いならされた? | ナショナルジオグラフィック日本版サイト 基本的にわれわれは、進化における適者生存について最も強く優勢な種が生き残り、脆弱な種が滅びると考えがちだ。ところが、ほとんどの犬種はぜい肉を落として競争力をつけたのではなく、人なつこさが決め手になった。 最も可能性が高いのは、人間からオオカミにアプローチしたのではなく、オオカミが人間にすり寄ったという説だ。おそらく、人間の居住地の隅にあるゴミ捨て場をあさることがきっかけになったはずだ。勇敢だが攻撃的なオオカミは人間に殺され、大胆で人懐っこいオオカミだけが受け入れられた。f:id:digx:20160509133703j:plain オオカミの子供。©2011-2016 woxys次は日本のイヌについて。日本で最古のイヌの骨の出土例は、奈良文化財研究所骨データベースによれば、「約1万年前の神奈川県夏島貝塚の縄文時代早期初頭の貝層から出土したのが最古で、やや遅れて佐賀県東名遺跡や愛媛県上黒岩岩陰遺跡から」夏島貝塚。骨が少ししか出ていないため分析できないようだ。市のサイトなど公式的なところを探してもwikipediaを見てもイヌの骨への言及が出てこない。東名(ひがしみょう)遺跡。たくさんの骨が出土。飼育されていたと考えられている。DNA解析で現生の柴犬・秋田犬・紀州犬・琉球犬に認められるタイプの遺伝子の組み合わせが確認された(つまり、後のイヌが持つ変異マーカーが出た、現在の日本犬と共通する系統)、という。上黒岩岩陰遺跡。イヌが埋葬されていたとわかる日本最古の例。ちなみに、イヌの骨は、琉球の古人骨が見つかった旧石器時代の遺跡からは未だに出てきていないようだ。出てきていればどこかに記述が見つかるはずだから。縄文時代以前のイヌは縄文犬と呼ばれる。大きさはちょうど柴犬と同じぐらいだが、額の形などに違いがある。(ただしディンゴの頭骨と似てるし、柴犬の顔の変化は子供の顔に似てるし、その顔立ちの変化ってペット化が進んでヒトが可愛い顔を選んで幼形成熟した、人為選択による変化ではないかと思うのだが。ディンゴとオオカミの子供の写真を参照してほしい)f:id:digx:20160509140412j:plainf:id:digx:20160509140446j:plain 左は東名遺跡の記事より。右はwikipediaにあったディンゴの頭骨。額の角度に注意。f:id:digx:20160509151928j:plain 絶滅した日本のオオカミの遺伝的系統より。http://ci.nii.ac.jp/naid/10030556934 縄文犬のサイズは柴犬やニューギニアシンギングドッグ(トップの写真で並べた二種)と同じぐらい。 なお、秋田犬はエゾオオカミよりは小さいが、日本犬で唯一の大型犬種となっている異例の存在。ただし、イヌの骨も人骨と同様に日本の土壌では分解されてしまうため、基本的に古い物が出てこない。だから、実際に日本列島へのイヌの到来がどこまで遡るかは定かではない。(今のところ旧石器時代の琉球から出てこないことが非常に重要か)日本犬は遺伝的にタイリクオオカミに非常に近いことで知られる。(日本犬が交配していたと考えられるのはニホンオオカミであり、ずっと昔にタイリクオオカミから海で切り離された種だったのだが)柴犬は遺伝的にもっともオオカミに近いイヌだったという次のグラフは、犬好きには有名だと思われる。(秋田犬も三番目にいる。秋田犬は日本犬の中でも交配によって大きくしたイヌだがそれでもこんな位置に来る。ただし、ディンゴなどリストにないイヌがたくさんいることに注意)f:id:digx:20160509141425p:plain 犬が持つ4つのDNA情報を分析し犬種ごとに分類するとこんな感じになる - GIGAZINE 元ネタHow to Build a Dog - Family Ties - Pictures, More From National Geographic Magazine この記事は2012年だが、元にされた研究は2004年に遡る。Genetic structure of the purebred domestic dog. - PubMed - NCBI 最後のグラフに関わった人たち(Heidi G. ParkerとElaine A. Ostrander)には、2010年の別の論文もある。 Man’s Best Friend Becomes Biology’s Best in Show: Genome Analyses in the Domestic Dogf:id:digx:20160509151326j:plain このグラフで見て欲しい場所。オオカミもちゃんと地域別に見ていることが重要。(オオカミが残ってないせいもあって脱落している地域もあるし、適当なヨーロッパ特有要素はなかったのかと思うが)オオカミ側にもイヌからの遺伝要素が入っているとわかる。(たぶん、イヌの存在の歴史が長くて数量もあるところの方が混ざりも多くなるんだよ。数学的に考えれば)中東のオオカミには犬要素が多くてアジア要素も入ってるのに、中国オオカミに中東要素はない。アジア東方と中東の間で移動があったのか、逆に中東要素の一部だけがアジアに移動して繁栄しアジア要素となったのか。(だから間のインドとか東南アジアが気になる。中央アジア側の影響は薄いから、南方ルートであるはずだし、人類史を踏まえても、アジア要素の真の起源地である可能性がある)ところが犬はオオカミと逆だ。アジア要素は他の地域の犬にそれほど広まっていない。しかし東アジアの犬には中東要素が入ってる。しかも秋田犬もアラスカン・マラミュートもエスキモー犬も。(エスキモー犬はむしろ新しい犬種に似てるし、アジア要素も少ないし、西からシベリア経由かもしれないが)しかしディンゴとニューギニア・シンギング・ドッグ(NGSD)は中東要素が薄い。中東要素はいつどんなルートで移動したのだろう?個人的なイヌの起源の想定シナリオ。家畜化初期(最初は家畜化の前段階に当たる)のイヌの先祖において、東南アジアで発生したアジア要素の中東への移動があった。(人類も氷河期に東南アジア中心で人口の増えた時期があったため、そのタイミングに当たると見る。ヒトY染色体ハプログループでは、世界に広まっているCおよびPQR集団あたりが鍵。ただし、初期のオーストラリア移住者などがイヌ類を伴っていないことに注意。西方向は犬の存在証拠が古いんだけどね)しかしイヌはその後中東を中心に発展。後の時代にその犬種が世界へ広まる。ディンゴ類は、その移動は比較的遅かったが、中東の影響を受ける前の古い犬種だった。ミトコンドリアによる人口変化の予測http://mbe.oxfordjournals.org/content/25/2/468.longf:id:digx:20160409113948j:plain(縄文犬はどちらだったのだろう。中東の影響があるか、ディンゴに似ていたのかが、移動時期や中東犬種の広まり時期の問題に関わる。交配の多い秋田犬より縄文犬に似た柴犬を調べて欲しかったな。……いや、それより古い骨自体を調べるべきか。日本は、ニホンオオカミも古くに大陸から切り離された種だったわけだし、結構この犬の問題にとって重要な情報を秘めてるはずなんだよ)(それと、どの時点で・どの場所でイエイヌとなったかの解答は、定義をどうするかの問題となる。ディンゴ類をイエイヌと認めるなら、この解答は東南アジアかインドになりそうだが、ここで、縄文犬がディンゴに近かったかの問題が出てくるわけ。縄文犬がディンゴに近いなら、東アジアも候補に入るのだ。つまり、日本犬の研究者頑張れってことです。何も言わないと、欧米の研究者は日本犬としては異例の秋田犬しか調べないぞ) では、ここ最近の起源論争に関係するニュースを書いていこう。 (実はいくつかのニュースは、イヌの起源の議論の流れを踏まえずに書かれた、あおりのようなニュースであり、ここまでに書いてきた知識に、新しい情報や判断を付け加える物ではない場合もある)2011年8月まずは「イヌ科動物」(原文canine)という表現が曲者。イヌ科だとキツネまで含んでしまうし、イヌ類だとしてもイヌだけを指さずオオカミなど近縁種をすべて含む表現であり、これをイヌと訳してはいけないのだ。しかも「家畜化の程度は低く、しかも古代や現代のオオカミ、ロシアの他地域に住む犬種との類似点もない。つまり他の犬種から派生したのではなく、独自の進化を遂げて人間との関わりを持ちはじめた可能性が高い。」とも書いてあるわけだ。この家畜化的な形態変化は、ヒトの作り出した世界への適応による、ヒトのまわりに棲む動物一般に存在する適応変化ではないかと考えられる。(むしろ、動物の変化を調べることでヒトの歴史がわかる、という事実のほうが重要かも知れない。その時期のヒトの存在証拠になるのだから)2013年11月これは、ヨーロッパのオオカミとの近さを調べていることが問題だった研究。イヌとオオカミが各地でそれぞれ交配してる=比較すれば同じ地域のイヌとオオカミが近いだろうというのは、両者が交配できることのわかった時点で既に予測されてたことなのだ。それに、ニュースの見出しの末尾が「?」とか「か」で終わるのは、そんなに信頼できるニュースじゃないのだよ。2015年2月これはイヌの祖先の物だとされていた骨が、オオカミのものだったという研究。(ただし論理としては、イヌの祖先であることを否定したわけではない)最古の証拠は15000年前だという言い方からすると、ここで直接否定している骨だけでなく、この年代より古いイヌの証拠だとされるすべての骨が、実際はまだイヌとは言えないオオカミの範疇だと主張しているようだ。ここにはイエイヌの定義の問題も絡んでくるところ。確かに、イエイヌは穀物を食べ消化できるようになってから、その形態も適応によって大きく変化してるはず(ヒトと同じように!)で、ある程度の真理は突いているだろう。最終的には「定義の問題」だけれど。これより前にこんな話もあった。2013年。イヌとヒトは共に進化した | ナショナルジオグラフィック日本版サイト シカゴ大学を初めとする国際研究機関から集まった研究者らは、ヒトとイヌの遺伝子を調べ、複数の遺伝子グループが何千年にもわたり並行して進化していたことを発見した。これら遺伝子は、食事や消化、そして神経学上の作用や疾病などに関連するものだ。 研究によれば、ヒトとイヌの並行進化は環境の共有によって起きた可能性が高いという。この記事には「イヌの家畜化が始まった地域について、中東という従来の推定と異なり東南アジアとする」というのもある。ヒトの近くに棲むことによる適応を「家畜化の始まり」としているわけ。2015年10月 (このへんからがニュースのメインディッシュ)これは飼育犬種じゃなく、各地の"Village dog"(そこらへんの無名のイヌ)を中心に調べたもの。ボルネオ(インドネシア)のイヌのように明確に名付けられていないが気になる存在(ディンゴ類と推測できるが)もいたり、他の論文で見たことのないデータもあって面白い。しかし何よりも気になることがある。それはこの論文の言う中央アジアが、ネパールとモンゴルであること。なんでそんなユニークな地域分けしちゃうかな……この研究、実際にはネパール起源説と呼ぶのが妥当。(まあ、生物学の専門家は地理学の専門家じゃないんで、地域分けは気をつけなくちゃいけない。なんでそんなところで地域を分けてるんだよってことがたまにあるので)それと、古い者ほど周囲に散るように移動し、僻地に残る現象を考えると、結局は比較的普通のインド周辺起源と考えることも可能ではなかろうか。後の時代の動きの激しいところは、古い者がかき消されて残らないわけで。以下の図は論文から。Genetic structure in village dogs reveals a Central Asian domestication originf:id:digx:20160510162457g:plain ネパールが中央アジアになってることに、この図で気づいた。(インド集団が散っているため、インドの延長にも見える。というか地理的にそう見るべきだと思うのだが。あとは、ブータン・チベット・ミャンマー・ラオス・雲南あたりの、「アジアを舞台とした起源問題で、結局いつでも問題になってるインドと中国の間の地域」+αを調べるとどうなるか、か)f:id:digx:20160510172052j:plain この図を見ると、ネパールとモンゴルをまとめたくなる気持ちがわかる。f:id:digx:20160510163734g:plain こっちの図だと、起源地はインドから東南アジアという定番の解読になると思われる。2015年12月ヘッダーは中国と書いてあって違う地域のように見えるが、実際は「東アジア南部(英文だとsouthern East Asia。これほとんど東南アジアだよな)のどこか」と書いてあって、結局上の記事でも問題になった中国西南方面の、インドとの間が気になる話になっている。(これもミャンマーとかは調査してない)なお、これも中国の"indigenous dog"(無名の地イヌ)を調べてる。以下の図は論文から。Out of southern East Asia: the natural history of domestic dogs across the worldf:id:digx:20160510190113j:plainf:id:digx:20160510194547j:plainま、結局最近本命として意識されてるのはどの論文も東南アジアだと思われる。ただし、この段階は家畜化ではなくてその前段階の適応状態に当たるだろうけれど。起源論でいつも問題となる、インドと中国の一部も含む東南アジア(インドシナ)地域。(イネ・ソバ・サトイモ・茶・蚕・ニワトリ・ブタなど*3)f:id:digx:20160514162445j:plainNOAAのBathymetric data viewerの画像を使用し、自分で日本語の地名を追加。なお、照葉樹林文化論に雲南省を中心とした地域を指す東亜半月弧という言葉がある(この地域は日本人学者が得意とするフィールドだ)が、古い起源問題を追及する場合は、もっと南寄りか高度の低い別の地域を意識することが多くなる。考えているのが氷河期ならば、当然その寒さによる気候環境の変化を考慮する必要があるからだ。(チベット高原などの高地は山岳氷河も発達した不毛の大地となるため、後のチベット人など高地に住む民族や野生動物たちも、もう少し環境の良い場所にいただろう。まあ、現生人類はデニソワ人を不毛の高地に追いやって滅ぼしてしまったかも知れないが)(気候が寒くなる→山の周辺で快適に過ごせる場所が減って、ヒトと動物たちの集中と出会いと衝突が多くなる、といった想定をするのも一興。氷河期が終わると今度は海が上昇して陸を呑み込むが)ついでにもう一つ。2016年3月。12460年前(やけに細かい数字だ)のシベリアのイヌは何を教えてくれるのだろう?6月追加の新しいニュース。遺跡の骨と地イヌ(インドと中国に、チベットとベトナムが加わってる)の研究。産経の記事はwiredだからこんなところか。よくあることだが、だんだんサイエンスマガジンの元の記事と違うニュアンスになってるから、そこはツッコんでおく必要がある。そもそもヨーロッパとアジアだけで家畜化されたと言ってるわけでなく、家畜化が一度きりでなく、アジア以外でも独自に家畜化されたのではないか、という主張なのだ。さらに元の論文もサイエンスにある。Genomic and archaeological evidence suggest a dual origin of domestic dogs | Scienceタイトルに"dual origin"という、なんだか日本人の見慣れた言葉が使われていたり。サイエンスの記事でSavolainen先生(2015中国起源説)とWayne先生(2013ヨーロッパ説)がコメントしてる。Wayneは「まだ答えは混沌としている」、Savolainenは「素晴しいデータだが、1000年だと誤差の範囲」「ヨーロッパの古いイヌのルーツもアジアの可能性がある」(意訳)みたいなことを言ってる。これはSavolainen先生のおっしゃる通りで、こういう年代は誤差が結構大きいためそれほどはっきりしたことが言えず、古いヨーロッパ犬種のルーツがどこか指し示す情報が発見されたわけでもないわけだ。それにこの問題は、どこからイヌとするかの定義次第で答えが変わるため、決着が難しいところもある。イヌ化の始まったイヌの祖先が、各地に拡がって各地で飼育され始めたとすると、イヌの基準の置き方次第で答えも変わってしまうのだ。よみがえる縄文犬 〜人と犬の関係史〜 石川県立歴史博物館 当館の第1展示室に入ると、最初に縄文時代の犬が迎えてくれます。この縄文犬は、七尾市三み引びき遺跡から出土した約7000年前の犬の骨にもとづいて復元しました。歴史博物館なのに犬の展示?と疑問に思う方もおられるかもしれませんが、犬は人と関係の深い動物なので、犬の歴史をひもとくと、人の歴史も見えてきます。犬は、人がオオカミを飼いならした動物で、その起源は約3~2万年前にさかのぼり、最も古い家畜と言われています。日本では縄文時代に現われますが、大陸から人に連れられて渡ってきたと考えられています。三引遺跡の縄文犬の復元を監修していただいた茂原信生氏(しげはらのぶお、京都大学名誉教授)の分析によると、この遺跡の犬は体高(肩までの高さ)が41cmで、現在の柴犬より少しだけ大きいことがわかりました。体の大きさは柴犬に似ていますが、縄文犬の骨は太く頑丈です。頭骨をみると、額ひたいから鼻にかけての段差が小さく、鼻筋がとおる顔に復元され、祖先のオオカミに似ています。こうした特徴は、他の遺跡で見つかる縄文犬の骨と一致しています。 縄文時代(約15000~2900年前)は、主に狩猟採集を生業としていた時代で、犬はシカやイノシシなどの狩猟の際に獲物を追い込むなどの役割を果たしていたと考えられています。三引遺跡では特にシカの骨がたくさん出土しているので、シカ猟が盛んだったようです。縄文時代の人びとは、狩りのパートナーとして犬を大切に飼っていたようで、遺跡から犬の墓が見つかることがあります。亡くなった犬をしのんで、丁重に埋葬してあげたのでしょう。 縄文時代には、犬は猟犬として大切にされていましたが、弥生時代になると、人びとは犬を食べるようになりました。弥生時代以降の遺跡からは、刃物で肉を刻んだ解体痕を残す犬の骨が見つかるようになります。弥生時代に朝鮮半島から水田稲作が伝来し、米食とともに、犬を食べる食文化も伝わったと考えられています。また、弥生時代には、農耕が定着することによって食料を生産するという考え方が広がり、犬もブタと同じように食肉用の家畜とみなされるようになったようです。犬にとっては受難の歴史ですが、人と犬の関係は時代の移り変わりに応じて変化してきたのです。 愛玩用のペットとして犬を飼うことが広がったのは、江戸時代になってからです。外国から洋犬などの外来種が輸入され、グレイハウンドや狆ちんなど、大小さまざまな犬種が飼われていました。「唐とう犬けん」や「南なん蛮ばん犬」と呼ばれた外来犬は、特に大名たちに人気があり、長崎のオランダ商館などを通じて輸入された犬が大名の間で贈呈されたり、将軍へ献上されたりしていました。1634(寛かん永えい11)年、加賀藩主の前田光高も、三代将軍の徳川家光南蛮犬を下賜(かし)されています。 最近でもロシア大統領に秋田犬が贈られたことが話題になりましたが、犬が外交の舞台に登場するのは古代にさかのぼります。平安時代の823(弘こう仁にん14)年、中国東北地方~ロシア沿海地方にあった渤ぼっ海かいという国の使節が冬の日本海をこえて加賀に来着しました。この渤海使は、「契丹大狗」2匹と「㹻子(かし)」2匹を連れてきました。契丹大狗は蒙もう古こ犬のような大陸産の大型犬、㹻子はその子犬か別種の小型犬とみられます。この時の渤海使は平安京への入京を許されませんでしたが、犬たちは他の進物といっしょに都の天皇のもとへ届けられました。 古代の契丹大狗や近世の南蛮犬のように、海外の珍しい犬は権力者に重宝され、彼らのステータスシンボルになっていたことでしょう。渤海から船でやってきた犬たちには、加賀の地はどのように見えたのでしょうか。犬の目線で歴史を考えてみるのも楽しく、当館の縄文犬にぜひ会いに来ていただければと思います。(学芸主任 三浦俊明)石川県立歴史博物館https://www.nabunken.go.jp/research/environmental/dog.htmlイヌ(Dog) 奈良県文化財研究所概要 イヌは食肉目イヌ科に属する。日本列島では、約1万年前の神奈川県夏島貝塚の縄文時代早期初頭の貝層から出土したのが最古で、やや遅れて佐賀県東名遺跡や愛媛県上黒岩岩陰遺跡からの出土し、それ以降、時代が下るに従って類例が増加する。縄文犬は一般的に体高38cm~45cmの柴犬くらいの小型犬が主流で、頭蓋骨の特徴は、額から吻部までの凹み(ストップ=額段)が小さく、鼻筋の通った細面の顔である。弥生時代になるとやや大型化した現生の四国犬クラスの中型犬が、大阪府亀井遺跡から出土している。中世の広島県草戸千軒町遺跡からも多くのイヌが出土したが、形態的には概して縄文犬の系譜をひく小型犬が主体であった。 【参考文献】松井章 編2008『動物考古学』京都大学学術出版会。日本犬はどこから来たのか(No.58)更新日:2013年12月18日左・亀井遺跡出土の弥生犬右・復元された弥生犬考えてみると、犬が自分の意思で北や東に勝手に移動することはないのです。犬はヒトに伴って移動するのです。東京大学の人類学者埴原和郎さんは、弥生文化の成立時には、在来の縄紋人を上回るような大量の人々が渡来したと推定されています。その主張を聞いてみましょう。まず、縄紋時代末期の日本列島内の人口を75000人、7世紀初めの人口を文献資料から約540万人と仮定し、その千年間の人口増加率を0.2パーセントで計算すると、じつに150万人の渡来者があったと結論されたのです。人口増加率を0.4パーセントと最大限の高率に見積ったとしても、94000人という数字が得られるのです。発表されたこの数字は、これまでの研究者が漠然といだいていた日本人の生成イメージを大きく揺るがせる衝撃を与えたのです。埴原説によれば、まさに、弥生時代は渡来人によって日本列島が席巻された時代だったのです。その渡来人は稲作文化をもたらしたのですが、彼らに伴って犬も上陸したのです。ところが、その犬は縄紋犬と違って猟犬ではなかったのです。弥生時代の遺跡の調査で見つかる犬の骨は、バラバラになったものが多いのです。縄紋犬は猟犬あるいは番犬として飼育されてきたのですが、弥生時代に渡来した犬は、食用の家畜として飼われていた可能性が強いのです。食用の家畜としては、犬のほかに豚も持ち込まれたのですが、食用家畜を飼育する文化は、その後日本には根づかなかったようです。渡来人と共にやって来た北方系の犬は、在来の南方系の縄紋犬と交配した痕跡が日本犬(柴犬、紀州犬、秋田犬、甲斐犬、四国犬)の遺伝子に記憶されているのです。北海道と南九州および琉球列島には、渡来人が行かなかったか、あるいは極めて少なかったので、在来の縄紋犬の血統がほぼ純粋に保たれたと考えられるのです。それが北海道犬であり、琉球犬なのです。いま、わたしたちのコンパニオンとなっている日本犬は、日本人の生成の秘密を解き明かす情報も秘めているのです。ついでですが、日本に愛玩犬が登場するのは、『日本書紀』によれば、天武朝(7世紀後半)です。新羅から愛玩犬がもたらされたことが記録されているのです。おそらく、この犬の犬種は、のちの記録から推して「ちん」だと考えられます。写真:左・亀井遺跡出土の弥生犬[大阪府文化財センター提供]右・復元された弥生犬[大阪府立弥生文化博物館提供]『広報ふじいでら』第308号 1995年1月号より教育委員会事務局教育部 文化財保護課〒583-8583大阪府藤井寺市岡1丁目1番1号 市役所6階65番窓口電話番号:072-939-1111 (代表)072-939-1419 (文化財担当)ファックス番号:072-938-6881〒583-0024 大阪府藤井寺市藤井寺3丁目1番20号 電話番号:072-939-1111 (代表)072-952-7854 (世界遺産担当) ファックス番号:072-952-7806http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/03412.p朝日遺跡出土のイヌと動物遺体のまとめ 西本 豊弘(国立歴史民俗博物館)じめにここでは、先の報告書で記載できなかったイヌの内容についてまず報告し、その後、朝日遺跡出土の動物遺跡全体の特徴について述べることとする。イヌ以外の未報告の資料としては魚類・爬虫類などが残されているが、これらは小さな破片が多く、種と部位の同定に時間がかかるので別の機会に報告したい。1.イヌa.出土量朝日遺跡から出土したイヌの主要部位は約200点である。そのうち頭蓋骨・下顎骨・四肢骨154点の内容を表2~4に示した。発掘区及び時期別に別個体であると考えると、下顎骨の左側の数量からみて、この遺跡では少なくとも27個体のイヌが出土していることになる。右側の下顎骨が別個体であるとすると実際には40個体以上出土していると推定される。四肢骨の出土量は最も多い部位である上腕骨をみても左側は11点であり、最小個体数27個体に比べてかなり少ない。この部位ごとの出土量のアンバランスは縄文時代でも少しはみられるが、これ程大きな部位ごとの差異は縄文時代にはみられない。b.形質イヌの形質については、頭蓋骨と下顎骨を中心にみてみよう。縄文犬は一般に前頭部から吻部にかけてのくぼみが無く、前頭部から吻部にかけて直線的な側面観をもっている。晩期になって少し前頭部にくぼみ(ストップと言われる)をもつものが現れるが、これは弥生犬の影響の可能性もある。縄文犬は、前頭部の正中線部分はくぼまず平坦であることも特徴である。下顎骨では歯列の弯曲が強く、下顎底が丸みをもち、下顎体高は第1後臼歯部分が最も高く2前臼歯部分が最も細くなる。それに対して、弥生犬は一般に前額部のくぼみが強く、吻部が短く高い。後頭部も縄文犬より高い。弥生犬の下顎骨は縄文犬よりも下顎底の丸みが弱くなり、これ以降現代犬に近くなるにしたがって下顎底は平坦化し、下顎体高は前方部と後方部の差が小さくなる。大きさは縄文犬と弥生犬はほぼ同程度であり、体高35~45cm程度の小型から中型犬である。また弥生犬以降では大小のバラエティが大きくなる傾向がみられる。このような縄文犬と弥生犬の所見を基にこの遺跡のイヌをみてみると、頭蓋骨の61AB-283・745・850・328,60D-182・183はストップがあり前頭部中央がくぼんでおり典型的な弥生犬である。61AB-217・995,61D-072はストップがなく前頭部もくぼまず縄文犬との区別がつかない。また頭蓋骨61F・002はストップがみられる点は弥生犬的であるが前頭部中央は平坦であり、縄文的要素がみられる。このイヌは縄文晩期のイヌに近い。このタイプのイヌは独自の品種として存在したのかもしれないが、頭蓋骨の形態が弥生犬と縄文犬の中間的なものであることから両品種の混血的なものと考えたほうが自然である。尚、前頭部のくぼまない縄文的なイヌは弥生時代に少量みられるものの、中世以降の日本では全くみられないものである。(現在のところ古墳時代の資料は無いので古墳時代のイヌの形質は不明である)おそらく、弥生時代に縄文犬との混血により全く消滅してしまったのであろう。この遺跡でも古い時代には縄文的なものが多く、表採資料(Ⅰ期)に弥生犬的なイヌが多いことは偶然ではないであろう。遺 跡 名 シ カ イノシシ ) ブ タ イ ヌ (全 体 に 占め る割 合 ・% )愛 知 県 ・朝 日 遺 跡 3 5 140 2 7 (1 3 )4 )佐 賀 県 ・莱 畑 遺 跡 27 5 1 5 ( 6 .0 )大 阪 府 ・池 上 遺 跡 17 60 5 ( 6 )0 )大 阪 府 ) 恩 地 遺 跡 5 24 6 (17 .1)大 阪 府 ・亀 井 遺 跡 20 63 多 量岡 山 県 ) 門 田 遺 跡 25 43 5 ( 6 .8 )大 分 県 ・下 郡 桑 苗 遺 跡 3 23 3 (10 .3 )表1 主要弥生時代遺跡出土のシカ、イノシシ・ブタ、イヌの最小個体数329C.大きさについてイヌの大きさは、さまざまな部位から推定した体高を用いて見てみよう。まず下顎骨では13例の体高を推定できた。それによると体高は37-42cmであり、縄文犬とほぼ同大でしかも体高の大小の幅が小さい。四肢骨では同一個体のものを除いて12例であり、体高の分布域は37-46cmである。同一個体の資料からみると、下顎骨では四肢骨よりも大きく推測される傾向がみられるので下顎骨からの推定体高は1ないし2cm差し引く必要がある。しかし四肢骨からの推定値の方が範囲が大きいのでこの遺跡では体高37~46cmの小型から中型のイヌが主体であったとしてよいであろう。d.狩猟犬か食用犬かの問題縄文時代ではイヌは狩猟に用いられた。イヌの骨に解体痕がみられることもあるが、一般にイヌは埋葬される。四肢骨がバラバラでみられることもあるが、頭蓋骨から指骨まで全身揃って出土することが多い。弥生時代になると、骨がバラバラになって出土し、解体痕をもつ骨も縄文時代より多くなる。この遺跡でも一個体のイヌの骨がまとまって出土する例が1例みられるが(61AB―220~234)、大部分は散乱状態で出土している。縄文時代のイヌとは異なって埋葬されずに食用とされた可能性が高い。解体痕のみられるものは頭蓋骨1例・四肢骨3例と少ないが、いずれも鉄器によると思われる鋭利な傷であった。e.年齢・性別この遺跡の資料の特徴の一つは、幼若獣が殆ど含まれていないことである。頭蓋骨・下顎骨では永久歯が未萌出の幼若獣は全くみられない。四肢骨でも関節部が外れた亜成獣は3点しかない。性別は後頭部の側鎖線と矢状稜の状態から判断したが、確率はあまり高くない。少なくとも雌雄の両方が含まれることは確実である。f.病変この遺跡のイヌでは老獣が比較的多く、下顎骨では第1・第2前臼歯が早く脱落し歯槽が埋っている例が多い。これは人為的に歯が抜かれたというのではなく、恐らく歯周症による歯の脱落の可能性が高い。また頭蓋骨の例(60D-183)では前頭部右側にくぼみがあり、なんらかの病気によるものと思われる。脛骨のひとつ(61B―107)では腓骨が癒着していた。縄文時代では四肢骨の他に椎骨や肋骨の骨折及び癒着したものが多いが脛骨の1例を除いて、この遺跡では椎骨や肋骨の骨折などは全くみられなかった。イヌを用いた狩猟活動が縄文時代に比べて活発ではなかったことを示すのかもしれない。2.朝日遺跡の動物遺体の特徴3.哺乳類弥生時代の主要な遺跡のシカ・イノシシ・ブタ・イヌの出土量を表1に示した。これらの4種以外の動物は出土量が少ないので省略する。弥生時代では、縄文時代に比べてシカが少なく、イノシシ・ブタが多い事が特徴である。そして、イノシシとブタの割合は、例えば、朝日遺跡では1:4程度であることが分かっている。それに対して、菜畑遺跡や門田遺跡ではシカの出土量はイノシシ・ブタの約半分であり、シカの出土量がかなり多い。これらの遺跡では、おそらくブタの量が朝日遺跡等よりも少なく、イノシシとブタがほぼ同程度と思われる。イヌについて見てみると、弥生時代の場合、イヌがある程度の量で出土することが知られており、一般に1遺跡当たり数頭程度である。それに対して朝日遺跡では、今回の報告分だけでも少なくとも27個体が含まれており、イヌが多いことがこの遺跡の特徴である。また、イヌの出土量状態については、一体分がまとまったものは1例しかなく、大部分は散乱状態で出土した。これらのイヌは主に食用とされたと推測される。b.鳥類鳥類については、弥生時代は出土量が少ないと言われているが、この遺跡ではガン・カモ類を主体にかなり多く出土している。ツルやバクチョウ等の大型の鳥類も見られる。そして、ニワトリが確認された事も特徴の一つであり、そのニワトリがチャボ程度の小型のものであることが明らかとなった。しかし、ニワトリの量は1点しかなく、多くは飼われてはいなかったと思われる。C.まとめ朝日遺跡の動物遺体の特徴はイノシシ・ブタが最小個体数140と多量に出土した事である。発掘面積が大きいという理由もあるが、骨の保存条件も良かったことが影響しているのであろう。更に、朝日遺跡がおそらく弥生人の植民地的性格の遺跡であり、渡来系の弥生人が千人から2千人の規模で生活していた可能性がある。そのため、この遺跡で、イノシシ・ブタが多量に出土するのではなかろうか。表1に示した朝日・菜畑・下郡桑苗・池上・恩地・亀井・門田遺跡は動物遺跡が多量に出土しているが、いずれもその地域での中心的な集落である。そのような集落は渡来系の弥生人の植民地的な性格があったのではなかろうか。その意味では、動物遺体も遺跡の性格を示すと言えよう。弥生時代 (やよいじだい) 防府歴史用語辞典 防府市教育委員会防府市教育委員会基本的には稲作農耕が始まってから、前方後円墳[ぜんぽうこうえんふん]が造られるようになるまでの期間を言います。だいたい紀元前3・4世紀から紀元後3世紀中頃までを指します。弥生時代 ウィキペディアウィキペディア弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる[1]。弥生時代とは 鹿島デジタル博物館弥生時代の始まりをいつと捉えるかは難しい問題ですが,一般的には稲作の開始が弥生時代の始まりとされています。様々な研究の成果や発掘調査の増加に伴い,北九州ではこれまで縄文時代晩期とされていた時期に稲作が開始されていることが明らかになり,弥生時代の開始がこれまでよりも遡る可能性もでてきました。日本の稲作は,約2600年前に九州北部から始まり,九州・四国・本州のほぼ全域で行われるようになりました。しかし,稲作が九州地方から東北地方に伝わるまでには500年もの時間を要し,更に水田に向かない火山性の台地や河岸段丘といった土地はかなりの時間が経過してから稲作が開始されました弥生時代の特徴としては,金属器の使用が開始が挙げられます。弥生時代前期には青銅器の鋳造技術が朝鮮半島を経て北九州にもたらされ,銅剣や銅矛,銅鐸などが武器や祭祀道具として使用されるようになりました。また,日本国内での鉄の鍛冶加工も始まり,鉄製品の農具等が増え,農耕などの生産力が向上し飛躍的に人々の生活を発展させました。そのような背景の元に弥生時代は,地域の統合,小国家の形成の土台を構築する階級社会を生み出しました。そして小国家の形成は,人々を支配する豪族を誕生させ,古墳時代へと繋がっていきます。弥生ミュージアムについて 国営吉野ヶ里歴史公園弥生ミュージアムは、国営吉野ヶ里歴史公園が、吉野ヶ里遺跡にとどまらず弥生時代全般について、広く興味・関心を喚起すべく、運営しております。このサイトを通して多くの方に弥生時代ひいては、吉野ヶ里遺跡に興味、関心をもっていただければと考えております。なお、本ホームページの制作にあたっては、以下の方々にご協力頂きました。(財)大阪市文化財協会 大阪歴史博物館春日市教育委員会北区飛鳥山博物館佐賀県教育委員会桜井市教育委員会滋賀県教育委員会滋賀県埋蔵文化財センター静岡市教育委員会田原本町教育委員会津和野町鳥取県埋蔵文化財センター福岡県教育委員会福岡市教育委員会福岡市博物館文化庁(財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター米子市教育委員会(50音順)第一章 弥生時代の年代弥生時代のはじまりは紀元前300年頃、終わりは紀元後300年頃(この間約600年)というのが、これまでの通説です。最近、自然科学的な年代測定法により弥生時代中期の年代が100年近く遡り、始まりも500年近く早くなるという説も出てきています。1.社会組織・階層階層の出現を裏付ける弥生時代の王墓弥生時代の人々の階層については魏志倭人伝は大人(支配者層)、下戸(一般的身分層)、生口(奴隷身分)という階層が存在したことを伝えています。 こうした階層の存在を裏付けるのが弥生時代の墳墓です。弥生時代になると他とは異なり、多くの副葬品や墳丘などを持つ「王墓」とも言える墓が出現してきます。 こうした階層を表す王墓は、弥生時代の前期末~中期初頭に、まず北部九州地方に現れます。福岡県福岡市吉武高木遺跡では、甕棺墓・木棺墓等11基より朝鮮大陸製の多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)1面をはじめ、銅戈、銅矛(11口)、玉類などの副葬品が出土しました。これらの副葬品が出土した墳墓群の東50m付近からは同時代に属する大型の掘立柱建物跡も発見されています。第二章 弥生時代の集落と墓弥生時代の集落は、水田をつくるのに適した湿潤な低地をのぞむ微高地や台地部に立地するのが一般的です。10軒内外の竪穴住居に倉庫(前期は地面に穴を掘った貯蔵穴、中期以降は高床倉庫)、少し離れた場所に墓地というのが一般的な集落のすがたです。 こうした一般的な集落とは別に周囲を壕で囲んだ大規模な集落が登場してくるのも弥生時代の集落の特徴です。1.弥生時代の自然環境今からおよそ6,000年前の縄文時代前期、地球規模の気候温暖化により氷河がとけ、海水面が10m 近く上昇し、海岸線が陸地の奥深く入り込んでいました。縄文時代中期後半以降、気候が寒冷化し海岸線が徐々に後退し始めます。海岸線の後退に伴って陸地化した場所には沖積平野が形成され、また海が取り残されたところは、干潟や湖となっていきました。縄文時代の終わり頃から弥生時代の初め頃にかけて、こうした海退(海岸線の後退)はさらに進んだと考えられています。海退によって出現した湿地や沖積平野は初期の水田稲作にとって絶好の耕地となりました。集落も台地上から平野部に進出するようになります。 稲作の開始と進展に伴い、大規模な森林伐採が行われるようになります。稲作を行うために必要な農具、水田を作るために必要な矢板など木材の需要が飛躍的に高まります。北部九州地方で木を伐採するために必要な福岡県今山産の太型蛤刃石斧が広い地域に普及するようになったのも、こうした状況の表れでしょう。森林伐採は、西日本の平野部で集落が急激に増加する弥生時代中期以降、さらに進んでいったと考えられます。写真:今山産の太型蛤刃石斧今山産の太型蛤刃石斧しかし、そうした伐採が山林の荒廃を引き起こし、自然環境を決定的破壊していった痕跡は見られません。弥生時代は縄文時代以来の自然環境の変化によって形成された沖積平野に水田を作って耕し、その近辺の低い台地上に集落を営み、背後の丘陵から山にかけての森林から生活のために必要なだけの木材や資材を得るという、長く日本に根付いた土地利用の原型が生まれた時代だと言えます。2.弥生人の身体的特徴弥生人の身体的特徴を最も雄弁に物語るのが、北部九州地方の甕棺墓等から出土する人骨です。佐賀県の三津永田遺跡や吉野ヶ里遺跡、山口県の土井ケ浜遺跡出土の弥生人骨は面高で身長が高く、中国黄河流域や朝鮮で出土した人骨と同じ特徴を備えています。一方、同時期の西北九州や東日本から出土する人骨は、そうした特長は見られず身長も縄文人同様の低身長です。これらのことから、縄文時代晩期から弥生時代にかけて中国大陸や朝鮮半島から人々が日本列島に渡来したが、渡来系の人々の数はそう多くなく、北部九州周辺に分布する程度であったことが窺えます。イラスト:縄文人の頭蓋骨と渡来系弥生人の頭蓋骨の比較縄文人の頭蓋骨と渡来系弥生人の頭蓋骨の比較渡来弥生人の身体的特徴を在来の縄文人と比較すると次のようになります。縄文人 渡来系弥生人 顔全体 ・幅が広く(横長)四角い・彫りが深い ・上下に長い・のっぺりしている鼻 比較的大きい 鼻幅が細く低い瞼 二重 一重(厚い)唇 厚い 薄い歯のサイズ 現代人より小さい 現代人より大きい噛み合わせ 上下の歯がぶつかり合う 上の前歯が下の前歯に覆い被さる(現代人と同じ)身長(推定平均) 男性:158cmぐらい女性:148cmくらい 男性:164cmぐらい女性:150cmくらい体毛 濃い(眉毛も濃い) 薄いこれらを総合すると、縄文人・・・背が低く、丸顔で彫が深く、二重瞼で鼻が大きく、唇が厚い渡来弥生人・・・長身で面長、彫が浅く一重瞼、鼻は小さく唇も薄い第三章 弥生時代の自然と人水田稲作は弥生時代の自然環境をたくみに生かして営まれました。各地の遺跡から出土する人骨は、弥生時代に朝鮮半島や中国大陸から日本列島に渡来してきた人々が存在したことを示しています。こうした渡来人と縄文以来の在来の人々との混血が、現在の日本人の形質を形づくっていったと考えられます。第四章 弥生時代の生活水田稲作や金属器や織物など、新しい技術や文化が中国大陸や朝鮮半島からもたらされ、衣食住の生活も狩猟採集の縄文時代から変化していきます。稲作の農耕サイクルに合わせて確立されていった新しい生活パターンは、その後の日本の農村生活の原形になっていったと考えられます。第五章 弥生時代の社会農耕の開始と発展により現れてきた身分階層の分化や、地域格差は新しい世界観や支配秩序をもたらします。やがてそれはより強大な政治的権力を生み出し、次の古墳時代には巨大な前方後円墳が築造され、古代王権・古代国家の形成へと向かっていきます。