1779109 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

「計量計測データバンク」とその情報

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カテゴリ

カテゴリ未分類

(1124)

東日本大震災から4年7カ月 三陸沿岸の現在

(45)

計量と計測を考察する「計量エッセー」

(101)

日本計量新報論説と解説(電子判)

(77)

「今日の計量計測情報ニュース」

(765)

計量計測情報はこちらで

(632)

計量器売れ筋商品

(108)

紀州犬物語

(90)

「web情報報総合サイト」は生活サイト

(10)

計量器

(39)

「日本列島ぶらり旅」甲斐鐵太郎(旅行家)

(1140)

自然・ネイチャーのおはなし(横田俊英)

(732)

エッセー

(1001)

写真 デジカメ 銀塩カメラ レンズ

(728)

「計量計測データバンク」運営責任者からのお知らせ

(296)

紀州犬物語オス犬「テツ市」の成長記録

(31)

紀州犬物語(紀州犬はいい犬です)

(126)

情報・インターネット

(121)

犬の飼育の仕方と悩みごと相談室

(64)

柴犬の子犬譲ります

(338)

三菱パジェロ物語(E-V45W)ほか自動車

(7)

新事業および改善課題

(23)

「豆柴」風の柴犬譲ります

(93)

新 野鳥歳時記 (執筆 横田俊英)

(46)

紀州犬の子犬譲ります

(1005)

旅行(旅と自然の日記)

(525)

柴犬物語(執筆 横田俊英)

(83)

紀州犬と柴犬

(330)

紀州犬の成犬の里親探しです。

(111)

有色紀州犬は素晴らしい 子犬情報

(206)

有色紀州犬 子犬出産情報

(207)

紀州犬 子犬 出産情報

(617)

紀州犬・四国犬里親探し情報

(187)

柴犬里親探し

(126)

旅するバイク カワサキW650(甲斐鐵太郎)

(3)

計量が大好き人間のおすすめ商品

(8)

測ること、計量のこと、その雑感とエッセー

(36)

自動車とオートバイと自転車など

(17)

高尾山麓自転車博物館(高尾山麓にある自転車博物館)

(45)

高尾山麓にある自転車博物館による自転車と部品の記録と記憶(販売はしません)

(30)

私の履歴書「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」鍋島綾雄

(15)

本日の気になるニュース

(105)

自転車情報

(36)

甲斐鐵太郎の上高地讃歌

(18)

伸子のブログ 旅行と写真ほか

(4)

音楽とオーディオ

(3)

安西正一(計量士)私の履歴書(計量計測データバンク)

(2)

バックナンバー

プロフィール


shunei-yokota

フリーページ

全90件 (90件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 ... 9 >

紀州犬物語

2018年09月24日
XML
カテゴリ:紀州犬物語
紀州犬物語167 紀州犬はことに処して自らの命を顧みない「もののふ」だ(横田俊英)
(副題)この犬は愛嬌がないわけではない。しかし人に諂(へつら)うことをしない
(副副題)普段は大人しい。利口で胆が座っている。紀州犬の神々しさの由来だ。
第167章 紀州犬はことに処して自らの命を顧みない「もののふ」だ 執筆 横田俊英



紀州犬のオス犬3歳の顔だ。派手ではない。素朴だ。

(本文)

 犬に音楽がわかるかどうか知らない。音楽を流しも犬のようすは変わらない。この犬は大きな音に驚かない。CDの音楽を流すときにボリームの位置をうっかり大音量にしてあっても同じだ。目の前にものが倒れて大きな音を立てても動じない。花火大会の真下にいても何も変わらない。そのような犬だ。

 大きな音も小さな音もこの犬は何とも感じない。子犬のときからテレビとラジオの音を聞き、オーディオからながれる音楽を聴いた。犬がいる庭にはラジオから昼夜音がでていた。普段は庭に据えられた犬舎で静かに過ごす。犬は何時でもそこにいる。人は犬がいるのが当たり前で長い年月をともに過ごしている。犬がいるからどうだこうだということない。気まぐれにおやつをやりに庭に行き、散歩に「行くぞ」と声をかける。するとむっくりと起き上がる。そのような暮らしがつづく。

 犬と音とのことで誤解があってはならないので事例を一つ添える。知人の紀州犬は雷が鳴ると網戸を破って居間に飛び込む。犬の音への感覚である。

 庭にいる犬がお産のために居間でいるときには音楽を流す。これは犬のためというより人が静かな心になるためにする。犬はそれだからといって変化をみせない。犬が子を産んで育てることは厳(おごそ)かなことだと人は思うからそのような音楽にする。

 流す音楽は神山純一の八ヶ岳シンフォニーである。シリーズになっていてフォレスト、やさしさに包まれて、冬のアダージョ、スノー・プレリュード(Snow Prelude)などだ。ピアノなのかシンセサイザーなのか単純な楽器編成で高く跳ねたり大きく踊ったりのない音楽である。ドラムやギターや金管楽器の音はしない。穏やかな旋律が時を刻んでゆく。ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」わけてもハレルヤ、あるいはベートーベンの第九の合唱は掛けない。こころを躍らせる音楽は除けられる。

 犬は居間で子を生む。お産に付き合うようにしているが前兆なしに生むことがある。ヘソの緒を切って身体をなめて乾かすと子犬は母親の乳首にしがみつく。朝になってようすをみて狂喜する。母犬は犬の生活をそのままにする。子を生むこともその一つである。何事もなかったように子を生み育てる。子が対面の犬舎で暮らしていてもそこに子がいるという素振りをしない。

 この犬は愛嬌がないわけではない。人に諂(へつら)うことをしない。出された食事はゆっくりと食べる。お腹が空いていてもそうだ。この犬の子のオス犬はガツガツと食べる。もう一頭のオス犬はさほどではない。どのような場面でも尾を股の下にいれることがない。泰然自若という言葉が似合う。

 この犬はあの曲がり角で出会った狸(たぬき)のことを考えている。別の曲がり角には狐(きつね)がいる。林のある散歩道にはイノシシがいる。その子のウリボウもいる。ウサギもいる。獣たちを獲ってしまおうと心は充満している。そのようにして過ごす日々である。

 道でイノシシに出会ったらどうするか。イノシシが飛び出した。夜のことだ。イノシシは鼻をブーブー鳴らして犬に向かってきた。人はたじろぐ。犬はイノシシに向かって行こうとする。引き綱を離した。犬は声もなくイノシシの首に咬みついた。イノシシはブーと声を立てた。首を振って振りほどき犬に牙を立てようとする。犬は腰を低くして踏ん張って咬みついたままに離さない。イノシシの反撃は力任せでありイノシシの牙が犬には脅威(きょうい)だ。

 人を襲ってきたイノシシへの防御のために犬を放した。イノシシは犬の攻撃があったことでその場から立ち去るとみて、もうよいと引き離した。

 日本犬がイノシシを追うときの闘争心はすさまじい。イノシシを追っていた犬が腹を裂かれて腸が飛び出した。犬は走るのに邪魔な腸を食いちぎってイノシシを追った。狩り好きの西郷隆盛が薩摩犬を連れて伊豆でイノシシ狩りをしたときの逸話が直木賞作家の戸川幸夫氏の一文にある。

 犬には自己の命を初めから考慮しないの行動様式がある。もののふ(士)の命を捨てることを恐れない精神ち一緒だ。一緒に暮らしていて人に勝る神々しいまでの精神のメス犬はイノシシを恐れなかった。イノシシが出現すればそれを獲りに行くことに躊躇はない。物事に動じず為すべき行動にとっさに移る。普段は何事もないように悠々として大人しい犬である。その犬がこのような行動をする。紀州犬を長く飼っている人ならわかることだ。姿かたちのよい伊豆半島に暮らすメス犬は散歩の途中で二頭のイノシシを獲った。

 和歌山県日高郡旧美山村長であった池本功氏は紀州犬の繁殖に努め素性のよい紀州犬を世に残した。猟のために狩猟免許を取って自ら鉄砲を担ぎ紀州犬を鍛えた。

 その池本氏は次のように述べる。「紀州犬の特色は沈着怜悧。普段は非常におとなしいが、猪猟につれていくと勇猛果敢、絶対に後ろに引かない烈しい性質を持っている」と。

 私はこの言葉が紀州犬を定義していると考える。由来など歴史経緯を添えればそれ以上ない紀州犬の定義になる。

 獣の臭いを取るやいなやリードを噛み切って常願寺川に飛び込んで7メートルもある滝をもものともせずに駆け下った私の飼い犬がいた。。このメス犬もイノシシと格闘することたびたび。イノシシに怯(ひる)むことがなかった。常願寺川に飛び込んだ犬は、上に述べてきたメス犬の叔母である。

 紀州犬を飼う者たちには自分の飼い犬の武勇ともいうべき逸話をもっている。皆が一様に言うことは事に及んでわが命を考慮しないことである。それでいて普段は大人しい。利口さ、胆のすわりかたを語る言葉が多い。それらのことが紀州犬に神々しさにつながるようだ。

new-kisyu-dog-story-a-167-It is "Samurai" which does not respect its own life

(誤字、脱字、変換ミスなどを含めて表現に不十分なことがある場合はご判読ください。)






最終更新日  2018年09月24日 15時11分48秒
コメント(0) | コメントを書く
2018年08月06日
カテゴリ:紀州犬物語

紀州犬のメス犬。欲は無く、怒らず、静かに笑っている。
紀州犬物語162 「丈夫な体を持ち」「決して怒らず」「よく見聞きよく分かり」て人の心を和ませる(横田俊英)
(タイトル)
「丈夫な体を持ち」「決して怒らず」「よく見聞きよく分かり」て人の心を和ませる
(サブタイトル)
「長幼の序」と犬の性質から学ぶ犬のシツケ方
第162章 「丈夫な体を持ち」「決して怒らず」「よく見聞きよく分かり」て人の心を和ませる 執筆 横田俊英



(本文)


 犬が人の生活に馴染んで人に好ましい行動をする。人に好ましい行動とは人によって変わる。普通の人が飼う犬では、部屋にいても、犬舎にいても粗相(そそう)などせず大人しくしていること、むだ吠えせずに人を咬まないこと、一緒にいることで人の心を和ませる、似たことだが愛嬌があること、などである。

 人の在り方を宮沢賢治は語る。

 雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けず、丈夫な体を持ち、欲は無く、決して怒らず、何時も静かに笑っている。一日玄米四合と、味噌汁と少しの野菜を食べ。あらゆることを自分を勘定に入れずに、よく見聞き分かり、そして忘れず。野原の松の林の陰の、小さな茅葺(かやぶ)きの小屋にいて。東に病気の子どもがあれば、行って看病をしてやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいいと言い、北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないから止めろと言い、一人のときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなに木偶の坊(でくのぼう)と呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、そういうものに、私はなりたい。

 上の言葉が当てはまればのその犬はのぞましい。夫婦が口論するとおろおろし「つまらないから止めろ」と部屋の隅でうずくまる。「丈夫な体を持ち」「自分を勘定に入れず」に「欲はなく」「決して怒らず」「よく見聞き分かり」「そして忘れず」「ほめられもせず」「苦にもされず」に生きている犬がいる。

 「欲はなく」「決して怒らず」「よく見聞きし分かり」「苦にもされ」ない犬を育った犬を何頭かみている。そのように育つ要素は、慈しみの情を持って飼い主が接すること。強く打(ぶ)つこと、あるいは打つをしない。シツケとして打つことをしない。孟子は「五倫」の徳として「長幼の序」と「朋友の信」を説く。「長幼の序」とは年少者は年長者を敬い従うこと、「朋友の信」とは友はたがいに信頼の情で結ばれることである。これを実行する。

 犬と人のあいだに保持される秩序がある。犬は人ではない。犬には犬の行動原理が貫通する。群れをなす狼の社会の序列はそのまま犬と人との間の秩序になる。母犬が子犬を育てるときにしていることは序列の教え込みである。狼の世界では群れにリーダーがあって群れに序列が形成される。このことがあって群れは狩りを実行できる。狼から分離したか狼そのものであるかする犬の性質は分離後の日数では行動原理に変化をもたらすことがない。狼の社会は序列によって形成されている。人と犬がつくる社会でもこの原理が貫かれる。飼い主は犬に対してリーダーの地位にいることが大事だ。

 上で述べたがオオカミ(狼)あるいはその類縁は、人に寄り添うようになり、人に飼われるようになった。犬の行動の様式には狼の行動様式が保存されている。人によってはこのことに異議あるかも知れないが、犬の行動様式は狼のそれと瓜二つであることは野犬の群れをみればわかる。

 次が躾(しつ)けられない犬のようすである。人が通ればワンワン・キャンキャン間違いなく吠える。どのように飼われてきた。家では勝手に駆け回っていて夜には飼い主の布団にくるまって寝る。飼い主には犬は動くおもちゃである。可愛ければそれでよい。ワンワン・キャンキャンは犬が生きている限るつづく。この犬にとって外を歩く人も玄関ドアを開ける来訪者も侵入者である。それは縄張りへの進入として理解される。犬は縄張りをもつ動物であるから縄張りへの侵入者を撃退する。

 どうすればよいか。まずは犬が穏やかでいられる状態をつくること。犬が穏やかに心情になるのは狼と同じで巣穴に籠(こ)もることである。昼には巣穴に籠もる。巣穴はぎりぎりの大きさである。侵入者を撃退しやすく進入を防ぎやすいからだ。広い庭に放しておかれること、家の中をうろうろさせられていることは、この防御壁が取り外されているのと同じであるから落ち着かない。

 広い庭は犬が守るべき縄張りとなる。歩き回る家のなかも同じである。広い縄張りを守るために何時もイライラしている。侵入者が近づけばワンワンやる。侵入者が縄張りに入れば噛みつく。これが郵便配達人がピンポンとベルを押すと庭にいた犬が飛んできて噛みつく。玄関を開けて入ってきた訪問者にガブリと噛みつく。多くの事例がある。

 対処する方法は何か。単純な方法は家のなかで犬を放し飼いにしないこと、庭でも犬を放し飼いにしないことである。人と遊技するとき以外には犬舎のなか、ケージのなかで過ごさせることだ。狭い犬舎、狭いケージは犬には苦痛ではない。なぜなら犬の生活と連動する狼の生活は極小の巣穴のなかであり、この巣穴のなかが最上の安心空間なのだ。犬の行動様式と人の行動様式は違う。感覚も違う。来客時も飼い主がリーダーとなって「控えよ」と諭す。

 犬は人ではない。犬には犬の行動原理がある。人の世界の平等感覚を犬との間に持ち込んではならない。そのうえで、友はたがいに信頼の情で結ばれる「朋友の信」を考慮すればいいではないか。

 人の感覚をそのまま犬との暮らしや躾けに持ち込んではならない。犬には犬の行動様式と感情・感覚があるから、これに見合う付き合い方としての躾(しつ)けを施す。犬を飼う、そして躾けするために誰でもが簡単に実行できる方法がある。犬の住まいは扉の付いて犬舎のなか、ケージにする。おやつや遊びのときには外にだす。終わったら住まいのなかに戻す。

 母犬が子育てるときにしていることは序列の教育である。強いものと弱いものとの関係をどのような形で伝えるか。子犬は育つにしたがって母犬に噛みつくなどして挑む。執拗に噛みつく。そうさせておいて母犬はガッと声をだして口吻を大きな口でおさえる。子犬を裏返しにして口でおさえる。子犬はそれ以上攻撃するともっと痛い眼にあわせる。傷つけない加減はされている。大人になった犬でもコロリと仰向けになって服従の姿勢をとる。服従の姿勢に対して攻撃はしない。これが犬と狼の世界の約束事である。狼の世界の掟は犬の世界の掟でもある。掟(おきて)は相互に守られる。

 狼や犬の掟、つまり犬の行動様式を利用して犬を躾ける。犬を扉の付いた犬舎にいれケージにいれて飼うことは、犬の心を穏やかにすることにつながる。飼い主と犬との間には折り目をつける。子犬と遊びながら何食わぬふりで子犬の口吻を包む。子犬を裏返してソケイ部をなでる。子犬を後から抱える。この三つを何気なく繰り返してやる。

 子犬同士で遊んでいるのをみると後に回って跨って腰を振る。マウントというのであるが子犬の間での強さの競い合いがマウントだ。飼い主が子犬にマウントと似たことをして強さを示す。そのようなことをしておくことによって飼い主に刃向かい飼い主に噛みつくことを抑制できる。子犬を後から抱えることの意味だ。

 犬は可愛い。可愛いから犬を飼う。飼っている犬が飼い主を咬み、よその人を咬むだら犬は飼っていられない。可愛さが転じて恨みの対象になる。

 孟子の「五倫」の徳があり、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の五つである。さきに長幼の序、朋友の信をがそれだ。人と犬のあいだに用いられてよい。「五倫」の徳をいきなり引っ張り出すと犬と人とは不平等であると言いたいのかと誤解されかねない。狼の世界のこと、犬の世界のこと、その行動様式と心情のことを説明した。犬と人の世界は孟子の「五倫」の徳によって形成される。

 「父子の親」とは、父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない。「君臣の義」とは、君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない。「夫婦の別」とは、夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる。「長幼の序」とは、年少者は年長者を敬い、したがわなければならない。「朋友の信」とは友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない。

 犬と人とは慈しみの心で結ばれ信頼しあう。基底にあるのは親愛の情であり、人は犬に対して年長者の位置にあり敬われるように行動する。犬と人にはそれぞれの役割があり、人は犬が社会で問題行動をおこさないように責任を持つ。

 偶然に大人しく、むだ吠えせず、人も咬まず、一緒にいることで人の心を和ませる犬が育つ。「丈夫な体を持ち」「自分を勘定に入れず」「欲はなく」「決して怒らず」「よく見聞きし分かり」「そして忘れず」「苦にもされず」に生きている犬がいる。これを偶然ではなく確実なものにしたい。

 犬が社会の決まりどおりに振る舞う犬に育てたい。普通に育つことは当たり前のようであるが普通に育たない犬もいる。持って生まれた性質や賢さに差があることもある。人に病気があるように犬にも病気がある。偶然がまぐれこむ。難しいことである。

 犬に対処するのに、とくに子犬に対処するのに自分の知識や思い込みといった観念を絶対のものにしないこと。子犬は可愛い、子犬を人の子と同じに扱いたい、子犬に人権と同じ感覚で接したい、という感情は自然である。自然な感情であるからといってその感情のままで子犬に接すると悪い結果を招くことが多い。理由は明確である。犬の行動様式は人とは違う。犬の世界に形成されている掟(おきて)を抜きにして犬のシツケはできない。犬のシツケは人の子のシツケとは違う。たがいに信頼の情で結ばれる「朋友の信」は貫かれるけれども、年長者の立場にある人と年少者の立場にある犬との間で、年少者は年長者を敬いしたがうという「長幼の序」があることが大事だ。

 「長幼の序」をいきなり述べるとあらぬ誤解を受けかねないので遠回しに述べ、また犬の行動様式にも言及した。

 「ほめられもせず」「苦にもされず」に生きている犬がいる。欲深く、勘定も高く、聞き分けなどなどなく、何時でも怒っている飼い主は多い。

 「丈夫な体を持ち」「自分を勘定に入れず」「欲はなく」「決して怒らず」「よく見聞きし分かり」「そして忘れず」「苦にもされず」といった良くできた犬に巡り合うか、そのように育てることができれば幸甚なことだ。残念なことに人はそのようにはなれない。

(誤字、脱字、変換ミスなどを含めて表現に不十分なことがある場合はご判読ください。)






最終更新日  2018年08月06日 18時24分41秒
コメント(0) | コメントを書く
カテゴリ:紀州犬物語

紀州犬のメス犬。欲は無く、怒らず、静かに笑っている。

紀州犬物語162 「丈夫な体を持ち」「決して怒らず」「よく見聞きよく分かり」て人の心を和ませる(横田俊英)
(タイトル)
「丈夫な体を持ち」「決して怒らず」「よく見聞きよく分かり」て人の心を和ませる
(サブタイトル)
「長幼の序」と犬の性質から学ぶ犬のシツケ方
第162章 「丈夫な体を持ち」「決して怒らず」「よく見聞きよく分かり」て人の心を和ませる 執筆 横田俊英


(本文)

 犬が人の生活に馴染んで人に好ましい行動をする。人に好ましい行動とは人によって変わる。普通の人が飼う犬では、部屋にいても、犬舎にいても粗相(そそう)などせず大人しくしていること、むだ吠えせずに人を咬まないこと、一緒にいることで人の心を和ませる、似たことだが愛嬌があること、などである。

 人の在り方を宮沢賢治は語る。

 雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けず、丈夫な体を持ち、欲は無く、決して怒らず、何時も静かに笑っている。一日玄米四合と、味噌汁と少しの野菜を食べ。あらゆることを自分を勘定に入れずに、よく見聞き分かり、そして忘れず。野原の松の林の陰の、小さな茅葺(かやぶ)きの小屋にいて。東に病気の子どもがあれば、行って看病をしてやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいいと言い、北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないから止めろと言い、一人のときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなに木偶の坊(でくのぼう)と呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、そういうものに、私はなりたい。

 上の言葉が当てはまればのその犬はのぞましい。夫婦が口論するとおろおろし「つまらないから止めろ」と部屋の隅でうずくまる。「丈夫な体を持ち」「自分を勘定に入れず」に「欲はなく」「決して怒らず」「よく見聞き分かり」「そして忘れず」「ほめられもせず」「苦にもされず」に生きている犬がいる。

 「欲はなく」「決して怒らず」「よく見聞きし分かり」「苦にもされ」ない犬を育った犬を何頭かみている。そのように育つ要素は、慈しみの情を持って飼い主が接すること。強く打(ぶ)つこと、あるいは打つをしない。シツケとして打つことをしない。孟子は「五倫」の徳として「長幼の序」と「朋友の信」を説く。「長幼の序」とは年少者は年長者を敬い従うこと、「朋友の信」とは友はたがいに信頼の情で結ばれることである。これを実行する。

 犬と人のあいだに保持される秩序がある。犬は人ではない。犬には犬の行動原理が貫通する。群れをなす狼の社会の序列はそのまま犬と人との間の秩序になる。母犬が子犬を育てるときにしていることは序列の教え込みである。狼の世界では群れにリーダーがあって群れに序列が形成される。このことがあって群れは狩りを実行できる。狼から分離したか狼そのものであるかする犬の性質は分離後の日数では行動原理に変化をもたらすことがない。狼の社会は序列によって形成されている。人と犬がつくる社会でもこの原理が貫かれる。飼い主は犬に対してリーダーの地位にいることが大事だ。

 上で述べたがオオカミ(狼)あるいはその類縁は、人に寄り添うようになり、人に飼われるようになった。犬の行動の様式には狼の行動様式が保存されている。人によってはこのことに異議あるかも知れないが、犬の行動様式は狼のそれと瓜二つであることは野犬の群れをみればわかる。

 次が躾(しつ)けられない犬のようすである。人が通ればワンワン・キャンキャン間違いなく吠える。どのように飼われてきた。家では勝手に駆け回っていて夜には飼い主の布団にくるまって寝る。飼い主には犬は動くおもちゃである。可愛ければそれでよい。ワンワン・キャンキャンは犬が生きている限るつづく。この犬にとって外を歩く人も玄関ドアを開ける来訪者も侵入者である。それは縄張りへの進入として理解される。犬は縄張りをもつ動物であるから縄張りへの侵入者を撃退する。

 どうすればよいか。まずは犬が穏やかでいられる状態をつくること。犬が穏やかに心情になるのは狼と同じで巣穴に籠(こ)もることである。昼には巣穴に籠もる。巣穴はぎりぎりの大きさである。侵入者を撃退しやすく進入を防ぎやすいからだ。広い庭に放しておかれること、家の中をうろうろさせられていることは、この防御壁が取り外されているのと同じであるから落ち着かない。

 広い庭は犬が守るべき縄張りとなる。歩き回る家のなかも同じである。広い縄張りを守るために何時もイライラしている。侵入者が近づけばワンワンやる。侵入者が縄張りに入れば噛みつく。これが郵便配達人がピンポンとベルを押すと庭にいた犬が飛んできて噛みつく。玄関を開けて入ってきた訪問者にガブリと噛みつく。多くの事例がある。

 対処する方法は何か。単純な方法は家のなかで犬を放し飼いにしないこと、庭でも犬を放し飼いにしないことである。人と遊技するとき以外には犬舎のなか、ケージのなかで過ごさせることだ。狭い犬舎、狭いケージは犬には苦痛ではない。なぜなら犬の生活と連動する狼の生活は極小の巣穴のなかであり、この巣穴のなかが最上の安心空間なのだ。犬の行動様式と人の行動様式は違う。感覚も違う。来客時も飼い主がリーダーとなって「控えよ」と諭す。

 犬は人ではない。犬には犬の行動原理がある。人の世界の平等感覚を犬との間に持ち込んではならない。そのうえで、友はたがいに信頼の情で結ばれる「朋友の信」を考慮すればいいではないか。

 人の感覚をそのまま犬との暮らしや躾けに持ち込んではならない。犬には犬の行動様式と感情・感覚があるから、これに見合う付き合い方としての躾(しつ)けを施す。犬を飼う、そして躾けするために誰でもが簡単に実行できる方法がある。犬の住まいは扉の付いて犬舎のなか、ケージにする。おやつや遊びのときには外にだす。終わったら住まいのなかに戻す。

 母犬が子育てるときにしていることは序列の教育である。強いものと弱いものとの関係をどのような形で伝えるか。子犬は育つにしたがって母犬に噛みつくなどして挑む。執拗に噛みつく。そうさせておいて母犬はガッと声をだして口吻を大きな口でおさえる。子犬を裏返しにして口でおさえる。子犬はそれ以上攻撃するともっと痛い眼にあわせる。傷つけない加減はされている。大人になった犬でもコロリと仰向けになって服従の姿勢をとる。服従の姿勢に対して攻撃はしない。これが犬と狼の世界の約束事である。狼の世界の掟は犬の世界の掟でもある。掟(おきて)は相互に守られる。

 狼や犬の掟、つまり犬の行動様式を利用して犬を躾ける。犬を扉の付いた犬舎にいれケージにいれて飼うことは、犬の心を穏やかにすることにつながる。飼い主と犬との間には折り目をつける。子犬と遊びながら何食わぬふりで子犬の口吻を包む。子犬を裏返してソケイ部をなでる。子犬を後から抱える。この三つを何気なく繰り返してやる。

 子犬同士で遊んでいるのをみると後に回って跨って腰を振る。マウントというのであるが子犬の間での強さの競い合いがマウントだ。飼い主が子犬にマウントと似たことをして強さを示す。そのようなことをしておくことによって飼い主に刃向かい飼い主に噛みつくことを抑制できる。子犬を後から抱えることの意味だ。

 犬は可愛い。可愛いから犬を飼う。飼っている犬が飼い主を咬み、よその人を咬むだら犬は飼っていられない。可愛さが転じて恨みの対象になる。

 孟子の「五倫」の徳があり、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の五つである。さきに長幼の序、朋友の信をがそれだ。人と犬のあいだに用いられてよい。「五倫」の徳をいきなり引っ張り出すと犬と人とは不平等であると言いたいのかと誤解されかねない。狼の世界のこと、犬の世界のこと、その行動様式と心情のことを説明した。犬と人の世界は孟子の「五倫」の徳によって形成される。

 「父子の親」とは、父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない。「君臣の義」とは、君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない。「夫婦の別」とは、夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる。「長幼の序」とは、年少者は年長者を敬い、したがわなければならない。「朋友の信」とは友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない。

 犬と人とは慈しみの心で結ばれ信頼しあう。基底にあるのは親愛の情であり、人は犬に対して年長者の位置にあり敬われるように行動する。犬と人にはそれぞれの役割があり、人は犬が社会で問題行動をおこさないように責任を持つ。

 偶然に大人しく、むだ吠えせず、人も咬まず、一緒にいることで人の心を和ませる犬が育つ。「丈夫な体を持ち」「自分を勘定に入れず」「欲はなく」「決して怒らず」「よく見聞きし分かり」「そして忘れず」「苦にもされず」に生きている犬がいる。これを偶然ではなく確実なものにしたい。

 犬が社会の決まりどおりに振る舞う犬に育てたい。普通に育つことは当たり前のようであるが普通に育たない犬もいる。持って生まれた性質や賢さに差があることもある。人に病気があるように犬にも病気がある。偶然がまぐれこむ。難しいことである。

 犬に対処するのに、とくに子犬に対処するのに自分の知識や思い込みといった観念を絶対のものにしないこと。子犬は可愛い、子犬を人の子と同じに扱いたい、子犬に人権と同じ感覚で接したい、という感情は自然である。自然な感情であるからといってその感情のままで子犬に接すると悪い結果を招くことが多い。理由は明確である。犬の行動様式は人とは違う。犬の世界に形成されている掟(おきて)を抜きにして犬のシツケはできない。犬のシツケは人の子のシツケとは違う。たがいに信頼の情で結ばれる「朋友の信」は貫かれるけれども、年長者の立場にある人と年少者の立場にある犬との間で、年少者は年長者を敬いしたがうという「長幼の序」があることが大事だ。

 「長幼の序」をいきなり述べるとあらぬ誤解を受けかねないので遠回しに述べ、また犬の行動様式にも言及した。

 「ほめられもせず」「苦にもされず」に生きている犬がいる。欲深く、勘定も高く、聞き分けなどなどなく、何時でも怒っている飼い主は多い。

 「丈夫な体を持ち」「自分を勘定に入れず」「欲はなく」「決して怒らず」「よく見聞きし分かり」「そして忘れず」「苦にもされず」といった良くできた犬に巡り合うか、そのように育てることができれば幸甚なことだ。残念なことに人はそのようにはなれない。

(誤字、脱字、変換ミスなどを含めて表現に不十分なことがある場合はご判読ください。)






最終更新日  2018年08月06日 18時20分21秒
コメント(0) | コメントを書く
カテゴリ:紀州犬物語


紀州犬のメス犬。欲は無く、怒らず、静かに笑っている。

紀州犬物語162 「丈夫な体を持ち」「決して怒らず」「よく見聞きよく分かり」て人の心を和ませる(横田俊英)
(タイトル)
「丈夫な体を持ち」「決して怒らず」「よく見聞きよく分かり」て人の心を和ませる
(サブタイトル)
「長幼の序」と犬の性質から学ぶ犬のシツケ方
第162章 「丈夫な体を持ち」「決して怒らず」「よく見聞きよく分かり」て人の心を和ませる 執筆 横田俊英



(本文)


 犬が人の生活に馴染んで人に好ましい行動をする。人に好ましい行動とは人によって変わる。普通の人が飼う犬では、部屋にいても、犬舎にいても粗相(そそう)などせず大人しくしていること、むだ吠えせずに人を咬まないこと、一緒にいることで人の心を和ませる、似たことだが愛嬌があること、などである。

 人の在り方を宮沢賢治は語る。

 雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けず、丈夫な体を持ち、欲は無く、決して怒らず、何時も静かに笑っている。一日玄米四合と、味噌汁と少しの野菜を食べ。あらゆることを自分を勘定に入れずに、よく見聞き分かり、そして忘れず。野原の松の林の陰の、小さな茅葺(かやぶ)きの小屋にいて。東に病気の子どもがあれば、行って看病をしてやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいいと言い、北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないから止めろと言い、一人のときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなに木偶の坊(でくのぼう)と呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、そういうものに、私はなりたい。

 上の言葉が当てはまればのその犬はのぞましい。夫婦が口論するとおろおろし「つまらないから止めろ」と部屋の隅でうずくまる。「丈夫な体を持ち」「自分を勘定に入れず」に「欲はなく」「決して怒らず」「よく見聞き分かり」「そして忘れず」「ほめられもせず」「苦にもされず」に生きている犬がいる。

 「欲はなく」「決して怒らず」「よく見聞きし分かり」「苦にもされ」ない犬を育った犬を何頭かみている。そのように育つ要素は、慈しみの情を持って飼い主が接すること。強く打(ぶ)つこと、あるいは打つをしない。シツケとして打つことをしない。孟子は「五倫」の徳として「長幼の序」と「朋友の信」を説く。「長幼の序」とは年少者は年長者を敬い従うこと、「朋友の信」とは友はたがいに信頼の情で結ばれることである。これを実行する。

 犬と人のあいだに保持される秩序がある。犬は人ではない。犬には犬の行動原理が貫通する。群れをなす狼の社会の序列はそのまま犬と人との間の秩序になる。母犬が子犬を育てるときにしていることは序列の教え込みである。狼の世界では群れにリーダーがあって群れに序列が形成される。このことがあって群れは狩りを実行できる。狼から分離したか狼そのものであるかする犬の性質は分離後の日数では行動原理に変化をもたらすことがない。狼の社会は序列によって形成されている。人と犬がつくる社会でもこの原理が貫かれる。飼い主は犬に対してリーダーの地位にいることが大事だ。

 上で述べたがオオカミ(狼)あるいはその類縁は、人に寄り添うようになり、人に飼われるようになった。犬の行動の様式には狼の行動様式が保存されている。人によってはこのことに異議あるかも知れないが、犬の行動様式は狼のそれと瓜二つであることは野犬の群れをみればわかる。

 次が躾(しつ)けられない犬のようすである。人が通ればワンワン・キャンキャン間違いなく吠える。どのように飼われてきた。家では勝手に駆け回っていて夜には飼い主の布団にくるまって寝る。飼い主には犬は動くおもちゃである。可愛ければそれでよい。ワンワン・キャンキャンは犬が生きている限るつづく。この犬にとって外を歩く人も玄関ドアを開ける来訪者も侵入者である。それは縄張りへの進入として理解される。犬は縄張りをもつ動物であるから縄張りへの侵入者を撃退する。

 どうすればよいか。まずは犬が穏やかでいられる状態をつくること。犬が穏やかに心情になるのは狼と同じで巣穴に籠(こ)もることである。昼には巣穴に籠もる。巣穴はぎりぎりの大きさである。侵入者を撃退しやすく進入を防ぎやすいからだ。広い庭に放しておかれること、家の中をうろうろさせられていることは、この防御壁が取り外されているのと同じであるから落ち着かない。

 広い庭は犬が守るべき縄張りとなる。歩き回る家のなかも同じである。広い縄張りを守るために何時もイライラしている。侵入者が近づけばワンワンやる。侵入者が縄張りに入れば噛みつく。これが郵便配達人がピンポンとベルを押すと庭にいた犬が飛んできて噛みつく。玄関を開けて入ってきた訪問者にガブリと噛みつく。多くの事例がある。

 対処する方法は何か。単純な方法は家のなかで犬を放し飼いにしないこと、庭でも犬を放し飼いにしないことである。人と遊技するとき以外には犬舎のなか、ケージのなかで過ごさせることだ。狭い犬舎、狭いケージは犬には苦痛ではない。なぜなら犬の生活と連動する狼の生活は極小の巣穴のなかであり、この巣穴のなかが最上の安心空間なのだ。犬の行動様式と人の行動様式は違う。感覚も違う。来客時も飼い主がリーダーとなって「控えよ」と諭す。

 犬は人ではない。犬には犬の行動原理がある。人の世界の平等感覚を犬との間に持ち込んではならない。そのうえで、友はたがいに信頼の情で結ばれる「朋友の信」を考慮すればいいではないか。

 人の感覚をそのまま犬との暮らしや躾けに持ち込んではならない。犬には犬の行動様式と感情・感覚があるから、これに見合う付き合い方としての躾(しつ)けを施す。犬を飼う、そして躾けするために誰でもが簡単に実行できる方法がある。犬の住まいは扉の付いて犬舎のなか、ケージにする。おやつや遊びのときには外にだす。終わったら住まいのなかに戻す。

 母犬が子育てるときにしていることは序列の教育である。強いものと弱いものとの関係をどのような形で伝えるか。子犬は育つにしたがって母犬に噛みつくなどして挑む。執拗に噛みつく。そうさせておいて母犬はガッと声をだして口吻を大きな口でおさえる。子犬を裏返しにして口でおさえる。子犬はそれ以上攻撃するともっと痛い眼にあわせる。傷つけない加減はされている。大人になった犬でもコロリと仰向けになって服従の姿勢をとる。服従の姿勢に対して攻撃はしない。これが犬と狼の世界の約束事である。狼の世界の掟は犬の世界の掟でもある。掟(おきて)は相互に守られる。

 狼や犬の掟、つまり犬の行動様式を利用して犬を躾ける。犬を扉の付いた犬舎にいれケージにいれて飼うことは、犬の心を穏やかにすることにつながる。飼い主と犬との間には折り目をつける。子犬と遊びながら何食わぬふりで子犬の口吻を包む。子犬を裏返してソケイ部をなでる。子犬を後から抱える。この三つを何気なく繰り返してやる。

 子犬同士で遊んでいるのをみると後に回って跨って腰を振る。マウントというのであるが子犬の間での強さの競い合いがマウントだ。飼い主が子犬にマウントと似たことをして強さを示す。そのようなことをしておくことによって飼い主に刃向かい飼い主に噛みつくことを抑制できる。子犬を後から抱えることの意味だ。

 犬は可愛い。可愛いから犬を飼う。飼っている犬が飼い主を咬み、よその人を咬むだら犬は飼っていられない。可愛さが転じて恨みの対象になる。

 孟子の「五倫」の徳があり、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の五つである。さきに長幼の序、朋友の信をがそれだ。人と犬のあいだに用いられてよい。「五倫」の徳をいきなり引っ張り出すと犬と人とは不平等であると言いたいのかと誤解されかねない。狼の世界のこと、犬の世界のこと、その行動様式と心情のことを説明した。犬と人の世界は孟子の「五倫」の徳によって形成される。

 「父子の親」とは、父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない。「君臣の義」とは、君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない。「夫婦の別」とは、夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる。「長幼の序」とは、年少者は年長者を敬い、したがわなければならない。「朋友の信」とは友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない。

 犬と人とは慈しみの心で結ばれ信頼しあう。基底にあるのは親愛の情であり、人は犬に対して年長者の位置にあり敬われるように行動する。犬と人にはそれぞれの役割があり、人は犬が社会で問題行動をおこさないように責任を持つ。

 偶然に大人しく、むだ吠えせず、人も咬まず、一緒にいることで人の心を和ませる犬が育つ。「丈夫な体を持ち」「自分を勘定に入れず」「欲はなく」「決して怒らず」「よく見聞きし分かり」「そして忘れず」「苦にもされず」に生きている犬がいる。これを偶然ではなく確実なものにしたい。

 犬が社会の決まりどおりに振る舞う犬に育てたい。普通に育つことは当たり前のようであるが普通に育たない犬もいる。持って生まれた性質や賢さに差があることもある。人に病気があるように犬にも病気がある。偶然がまぐれこむ。難しいことである。

 犬に対処するのに、とくに子犬に対処するのに自分の知識や思い込みといった観念を絶対のものにしないこと。子犬は可愛い、子犬を人の子と同じに扱いたい、子犬に人権と同じ感覚で接したい、という感情は自然である。自然な感情であるからといってその感情のままで子犬に接すると悪い結果を招くことが多い。理由は明確である。犬の行動様式は人とは違う。犬の世界に形成されている掟(おきて)を抜きにして犬のシツケはできない。犬のシツケは人の子のシツケとは違う。たがいに信頼の情で結ばれる「朋友の信」は貫かれるけれども、年長者の立場にある人と年少者の立場にある犬との間で、年少者は年長者を敬いしたがうという「長幼の序」があることが大事だ。

 「長幼の序」をいきなり述べるとあらぬ誤解を受けかねないので遠回しに述べ、また犬の行動様式にも言及した。

 「ほめられもせず」「苦にもされず」に生きている犬がいる。欲深く、勘定も高く、聞き分けなどなどなく、何時でも怒っている飼い主は多い。

 「丈夫な体を持ち」「自分を勘定に入れず」「欲はなく」「決して怒らず」「よく見聞きし分かり」「そして忘れず」「苦にもされず」といった良くできた犬に巡り合うか、そのように育てることができれば幸甚なことだ。残念なことに人はそのようにはなれない。

(誤字、脱字、変換ミスなどを含めて表現に不十分なことがある場合はご判読ください。)






最終更新日  2018年08月06日 18時19分18秒
コメント(0) | コメントを書く
カテゴリ:紀州犬物語


紀州犬のメス犬。欲は無く、怒らず、静かに笑っている。

紀州犬物語162 「丈夫な体を持ち」「決して怒らず」「よく見聞きよく分かり」て人の心を和ませる(横田俊英)
(タイトル)
「丈夫な体を持ち」「決して怒らず」「よく見聞きよく分かり」て人の心を和ませる
(サブタイトル)
「長幼の序」と犬の性質から学ぶ犬のシツケ方
第162章 「丈夫な体を持ち」「決して怒らず」「よく見聞きよく分かり」て人の心を和ませる 執筆 横田俊英



(本文)


 犬が人の生活に馴染んで人に好ましい行動をする。人に好ましい行動とは人によって変わる。普通の人が飼う犬では、部屋にいても、犬舎にいても粗相(そそう)などせず大人しくしていること、むだ吠えせずに人を咬まないこと、一緒にいることで人の心を和ませる、似たことだが愛嬌があること、などである。

 人の在り方を宮沢賢治は語る。

 雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けず、丈夫な体を持ち、欲は無く、決して怒らず、何時も静かに笑っている。一日玄米四合と、味噌汁と少しの野菜を食べ。あらゆることを自分を勘定に入れずに、よく見聞き分かり、そして忘れず。野原の松の林の陰の、小さな茅葺(かやぶ)きの小屋にいて。東に病気の子どもがあれば、行って看病をしてやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいいと言い、北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないから止めろと言い、一人のときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなに木偶の坊(でくのぼう)と呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、そういうものに、私はなりたい。

 上の言葉が当てはまればのその犬はのぞましい。夫婦が口論するとおろおろし「つまらないから止めろ」と部屋の隅でうずくまる。「丈夫な体を持ち」「自分を勘定に入れず」に「欲はなく」「決して怒らず」「よく見聞き分かり」「そして忘れず」「ほめられもせず」「苦にもされず」に生きている犬がいる。

 「欲はなく」「決して怒らず」「よく見聞きし分かり」「苦にもされ」ない犬を育った犬を何頭かみている。そのように育つ要素は、慈しみの情を持って飼い主が接すること。強く打(ぶ)つこと、あるいは打つをしない。シツケとして打つことをしない。孟子は「五倫」の徳として「長幼の序」と「朋友の信」を説く。「長幼の序」とは年少者は年長者を敬い従うこと、「朋友の信」とは友はたがいに信頼の情で結ばれることである。これを実行する。

 犬と人のあいだに保持される秩序がある。犬は人ではない。犬には犬の行動原理が貫通する。群れをなす狼の社会の序列はそのまま犬と人との間の秩序になる。母犬が子犬を育てるときにしていることは序列の教え込みである。狼の世界では群れにリーダーがあって群れに序列が形成される。このことがあって群れは狩りを実行できる。狼から分離したか狼そのものであるかする犬の性質は分離後の日数では行動原理に変化をもたらすことがない。狼の社会は序列によって形成されている。人と犬がつくる社会でもこの原理が貫かれる。飼い主は犬に対してリーダーの地位にいることが大事だ。

 上で述べたがオオカミ(狼)あるいはその類縁は、人に寄り添うようになり、人に飼われるようになった。犬の行動の様式には狼の行動様式が保存されている。人によってはこのことに異議あるかも知れないが、犬の行動様式は狼のそれと瓜二つであることは野犬の群れをみればわかる。

 次が躾(しつ)けられない犬のようすである。人が通ればワンワン・キャンキャン間違いなく吠える。どのように飼われてきた。家では勝手に駆け回っていて夜には飼い主の布団にくるまって寝る。飼い主には犬は動くおもちゃである。可愛ければそれでよい。ワンワン・キャンキャンは犬が生きている限るつづく。この犬にとって外を歩く人も玄関ドアを開ける来訪者も侵入者である。それは縄張りへの進入として理解される。犬は縄張りをもつ動物であるから縄張りへの侵入者を撃退する。

 どうすればよいか。まずは犬が穏やかでいられる状態をつくること。犬が穏やかに心情になるのは狼と同じで巣穴に籠(こ)もることである。昼には巣穴に籠もる。巣穴はぎりぎりの大きさである。侵入者を撃退しやすく進入を防ぎやすいからだ。広い庭に放しておかれること、家の中をうろうろさせられていることは、この防御壁が取り外されているのと同じであるから落ち着かない。

 広い庭は犬が守るべき縄張りとなる。歩き回る家のなかも同じである。広い縄張りを守るために何時もイライラしている。侵入者が近づけばワンワンやる。侵入者が縄張りに入れば噛みつく。これが郵便配達人がピンポンとベルを押すと庭にいた犬が飛んできて噛みつく。玄関を開けて入ってきた訪問者にガブリと噛みつく。多くの事例がある。

 対処する方法は何か。単純な方法は家のなかで犬を放し飼いにしないこと、庭でも犬を放し飼いにしないことである。人と遊技するとき以外には犬舎のなか、ケージのなかで過ごさせることだ。狭い犬舎、狭いケージは犬には苦痛ではない。なぜなら犬の生活と連動する狼の生活は極小の巣穴のなかであり、この巣穴のなかが最上の安心空間なのだ。犬の行動様式と人の行動様式は違う。感覚も違う。来客時も飼い主がリーダーとなって「控えよ」と諭す。

 犬は人ではない。犬には犬の行動原理がある。人の世界の平等感覚を犬との間に持ち込んではならない。そのうえで、友はたがいに信頼の情で結ばれる「朋友の信」を考慮すればいいではないか。

 人の感覚をそのまま犬との暮らしや躾けに持ち込んではならない。犬には犬の行動様式と感情・感覚があるから、これに見合う付き合い方としての躾(しつ)けを施す。犬を飼う、そして躾けするために誰でもが簡単に実行できる方法がある。犬の住まいは扉の付いて犬舎のなか、ケージにする。おやつや遊びのときには外にだす。終わったら住まいのなかに戻す。

 母犬が子育てるときにしていることは序列の教育である。強いものと弱いものとの関係をどのような形で伝えるか。子犬は育つにしたがって母犬に噛みつくなどして挑む。執拗に噛みつく。そうさせておいて母犬はガッと声をだして口吻を大きな口でおさえる。子犬を裏返しにして口でおさえる。子犬はそれ以上攻撃するともっと痛い眼にあわせる。傷つけない加減はされている。大人になった犬でもコロリと仰向けになって服従の姿勢をとる。服従の姿勢に対して攻撃はしない。これが犬と狼の世界の約束事である。狼の世界の掟は犬の世界の掟でもある。掟(おきて)は相互に守られる。

 狼や犬の掟、つまり犬の行動様式を利用して犬を躾ける。犬を扉の付いた犬舎にいれケージにいれて飼うことは、犬の心を穏やかにすることにつながる。飼い主と犬との間には折り目をつける。子犬と遊びながら何食わぬふりで子犬の口吻を包む。子犬を裏返してソケイ部をなでる。子犬を後から抱える。この三つを何気なく繰り返してやる。

 子犬同士で遊んでいるのをみると後に回って跨って腰を振る。マウントというのであるが子犬の間での強さの競い合いがマウントだ。飼い主が子犬にマウントと似たことをして強さを示す。そのようなことをしておくことによって飼い主に刃向かい飼い主に噛みつくことを抑制できる。子犬を後から抱えることの意味だ。

 犬は可愛い。可愛いから犬を飼う。飼っている犬が飼い主を咬み、よその人を咬むだら犬は飼っていられない。可愛さが転じて恨みの対象になる。

 孟子の「五倫」の徳があり、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の五つである。さきに長幼の序、朋友の信をがそれだ。人と犬のあいだに用いられてよい。「五倫」の徳をいきなり引っ張り出すと犬と人とは不平等であると言いたいのかと誤解されかねない。狼の世界のこと、犬の世界のこと、その行動様式と心情のことを説明した。犬と人の世界は孟子の「五倫」の徳によって形成される。

 「父子の親」とは、父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない。「君臣の義」とは、君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない。「夫婦の別」とは、夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる。「長幼の序」とは、年少者は年長者を敬い、したがわなければならない。「朋友の信」とは友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない。

 犬と人とは慈しみの心で結ばれ信頼しあう。基底にあるのは親愛の情であり、人は犬に対して年長者の位置にあり敬われるように行動する。犬と人にはそれぞれの役割があり、人は犬が社会で問題行動をおこさないように責任を持つ。

 偶然に大人しく、むだ吠えせず、人も咬まず、一緒にいることで人の心を和ませる犬が育つ。「丈夫な体を持ち」「自分を勘定に入れず」「欲はなく」「決して怒らず」「よく見聞きし分かり」「そして忘れず」「苦にもされず」に生きている犬がいる。これを偶然ではなく確実なものにしたい。

 犬が社会の決まりどおりに振る舞う犬に育てたい。普通に育つことは当たり前のようであるが普通に育たない犬もいる。持って生まれた性質や賢さに差があることもある。人に病気があるように犬にも病気がある。偶然がまぐれこむ。難しいことである。

 犬に対処するのに、とくに子犬に対処するのに自分の知識や思い込みといった観念を絶対のものにしないこと。子犬は可愛い、子犬を人の子と同じに扱いたい、子犬に人権と同じ感覚で接したい、という感情は自然である。自然な感情であるからといってその感情のままで子犬に接すると悪い結果を招くことが多い。理由は明確である。犬の行動様式は人とは違う。犬の世界に形成されている掟(おきて)を抜きにして犬のシツケはできない。犬のシツケは人の子のシツケとは違う。たがいに信頼の情で結ばれる「朋友の信」は貫かれるけれども、年長者の立場にある人と年少者の立場にある犬との間で、年少者は年長者を敬いしたがうという「長幼の序」があることが大事だ。

 「長幼の序」をいきなり述べるとあらぬ誤解を受けかねないので遠回しに述べ、また犬の行動様式にも言及した。

 「ほめられもせず」「苦にもされず」に生きている犬がいる。欲深く、勘定も高く、聞き分けなどなどなく、何時でも怒っている飼い主は多い。

 「丈夫な体を持ち」「自分を勘定に入れず」「欲はなく」「決して怒らず」「よく見聞きし分かり」「そして忘れず」「苦にもされず」といった良くできた犬に巡り合うか、そのように育てることができれば幸甚なことだ。残念なことに人はそのようにはなれない。

(誤字、脱字、変換ミスなどを含めて表現に不十分なことがある場合はご判読ください。)






最終更新日  2018年08月06日 18時18分09秒
コメント(0) | コメントを書く
カテゴリ:紀州犬物語

紀州犬は猟をすることを尊ばれて残存した。
(成熟した紀州犬のメス犬)

紀州犬物語163 犬は人に寄り添って生活する。人と調和できる犬に育てる。(横田俊英)
(タイトル)
犬は人に寄り添って生活する。人と調和できる犬に育てる。
(サブタイトル)
人がどのように思おうと犬は犬としての行動様式を貫く
第163章 犬は人に寄り添って生活する。人と調和できる犬に育てる。 執筆 横田俊英


(本文)

 紀州犬を飼う。普通の暮らしの人がありふれた状態で紀州犬を飼う。ありふれた状態とは紀州犬のその姿や伝えられる気性を求めてのことである。このような状態での犬の飼い方についてはこの物語が対象としている。前章の「紀州犬物語160章」で飼い方などに立ち入った。

 紀州犬を飼う場合にその猟性能を求めてということがある。主にイノシシそして鹿のスポーツ猟をするための伴(とも)として紀州犬を求める。私のところから連れて行った紀州犬で猟をさせるという人は多い。近隣の人はその目的で子犬を連れて行った。

 猟をさせるために子犬のころから仕留めたイノシシの毛皮を囓(かじ)らせているうちに猟をするようになった。子を摂るためにもう1頭連れて行った。

 紀州犬は猟犬としての能力が尊ばれたことで残存した。それだからといってどの犬でも猟をするとは限らない。訓練をしてそれが上手くいったときに猟をする犬になる。そのように考えなければならない。その上での紀州犬の猟性能である。紀州犬には確率高く猟をする犬が出現する。猟だけを求めて交配を進めたからといって猟性能が備わるものではない。先祖犬の総合的な素性にもよる。血筋をちらばさないように丁寧に繁殖する。このことによって紀州犬の猟性能は高い確率で保存される。

 犬の猟性能だけをも求めるのであれば犬種を問わず「猟をする」という一点だけで交配を繰り返す。そのなかには紀州犬の純血種もいることもある。紀州犬に半分以上他の犬種の血液が混じった犬がいる。他犬種に紀州犬の血液をいれることもある。猟だけを求めて繁殖された犬で紀州犬の姿に似たのがいる。この犬を紀州犬と呼ぶわけにはいかない。純粋種といえない血液の犬を紀州犬として登録した事例を知っている。それをやったら紀州犬と猟性能の関係に収集がつかなくなる。

 紀州犬は断固として先祖伝来の血液を保存する。すべてはその上でのことだ。紀州犬の猟性能は確かである。

 単純にイノシシ猟だけを求めれば西洋犬に紀州犬は劣ることがあるかも知れない。紀州犬が日本の風土で育ってきた犬である。紀州犬の素朴さはとくべつである。素朴さとは国語辞書は自然のままに近く、あまり手の加えられていないこと、素直で飾り気がないこととしている。犬の世界の解釈は少し違う。紀州犬にはが求められる。良性とは国語辞書は性質が良いこと、とする。犬の世界では子育てを含む総合した性質の良さと解釈される。

 イノシシを追う前に犬同士がいがみ合っていては役にたたない。仲間の犬といがみ合わないことも良性に含まれる。

 訓練を積んで猟の性能を育てていく。上手くいかない犬もいる。どのような世界にも確立ということが含まれ、標準偏差として描き出すと紀州犬は猟をする犬なのだ。特別に猟性能が優れたもの同士で繁殖しても血液の根底で標準偏差が働く。だから猟性能を求めても一朝一夕には結果を得ることができない。このことを別の言い方で表現すると紀州犬は猟性能に優れた犬であるけれども、それが特別な状態で発露する犬とそうでない犬もいるということになる。目的をもって勇んで犬を飼ってみたけれども当てが外れるということは頻繁におこる。猟ができなくても紀州犬は一緒に暮らせば素朴であり日本人の心に溶けこむ犬である。

 縄文時代には犬は人に飼われていて猟の伴(とも)をした。弥生時代も同じである。時代が進んで昭和の第二次大戦の前後まで猟をすることによって命をつないできた犬がいた。紀州犬はそのような犬である。

 犬を供にして縄文人は狩りをした。縄文人の食べモノは千種をこえる。千種の食材を縄文人は食べていた。草や木の実、貝や魚、獣(けもの)など千をこえる。現代人の食卓には30種がのぼればいいほうだ。食材は現代では商品になっていて特別なモノだけが商業生産され流通する。縄文人は食べるモノに詳しかった。自然のなかにあるもののすべてを食べたといってよいほどだ。自然と一体になっていて生きていた。千種以上の食材をより分けられる縄文人である。犬を養い訓練する知恵と能力は現代の普通の人よりはるかにすぐれてた。

 山梨県の釈迦堂遺跡からは人には聞こえない高周波数をだす犬笛が出土している。犬を操るのにその笛を使った。高い周波数の音は遠くまで届く。5キロメートルぐらいの範囲であれば犬は聞き分けができたであろう。もっと遠くまで届くという人がいる。100キロメートル先まで届くというがどうだろう。現代のように雑音が少ない縄文時代には届いたかも知れない。

 縄文の犬は暮らしがそのまま狩りと隣り合っていた。毎日が狩りの訓練であり実践の場である。狩りは人の生活でもあった。林のなかにつくった竪穴式住居には熊が出る。犬は熊を撃退した。熊を狩るのも縄文の犬の仕事である。犬の能力を侮(あなど)ってはならない。狩りは犬の生活そのものだった。狩りを犬が犬に教える。人もまた犬を訓練する。自然とともにあって森の中から動物性タンパク質を獲得するために縄文の人と犬は共同して作業した。

 犬の帰家能力はよく知られている。アメリカ大陸を横断して元の飼い主のところに帰った話は有名である。鳥や獣は方位感覚をもっている。私の経験ではお産の後の子どもを離したその日に新しい飼い主に渡された母犬はリードを咬みきって一夜放浪して朝になったらその新しい飼い主のところに戻った。一晩子犬を探していたのだろう。

 犬の使役犬としての能力は高い。訓練を受けて能力を備える。驚くほどの能力である。

 犬は犬である。犬は犬の生活をする。犬の生活は人に寄り添う。現代においては特別な使役目的をべつにすれば紀州犬の場合でも家庭で普通に生活する犬だ。その犬の行動様式や犬の楽しみを理解して人と調和して生活できる犬に育てる。

(誤字、脱字、変換ミスなどを含めて表現に不十分なことがある場合はご判読ください。)






最終更新日  2018年08月06日 16時55分42秒
コメント(0) | コメントを書く
カテゴリ:紀州犬物語




紀州犬物語163 犬は人に寄り添って生活する。人と調和できる犬に育てる。(横田俊英)
(タイトル)
犬は人に寄り添って生活する。人と調和できる犬に育てる。
(サブタイトル)
人がどのように思おうと犬は犬としての行動様式を貫く
第163章 犬は人に寄り添って生活する。人と調和できる犬に育てる。 執筆 横田俊英


(本文)


 紀州犬を飼う。普通の暮らしの人がありふれた状態で紀州犬を飼う。ありふれた状態とは紀州犬のその姿や伝えられる気性を求めてのことである。このような状態での犬の飼い方についてはこの物語が対象としている。前章の「紀州犬物語160章」で飼い方などに立ち入った。

 紀州犬を飼う場合にその猟性能を求めてということがある。主にイノシシそして鹿のスポーツ猟をするための伴(とも)として紀州犬を求める。私のところから連れて行った紀州犬で猟をさせるという人は多い。近隣の人はその目的で子犬を連れて行った。

 猟をさせるために子犬のころから仕留めたイノシシの毛皮を囓(かじ)らせているうちに猟をするようになった。子を摂るためにもう1頭連れて行った。

 紀州犬は猟犬としての能力が尊ばれたことで残存した。それだからといってどの犬でも猟をするとは限らない。訓練をしてそれが上手くいったときに猟をする犬になる。そのように考えなければならない。その上での紀州犬の猟性能である。紀州犬には確率高く猟をする犬が出現する。猟だけを求めて交配を進めたからといって猟性能が備わるものではない。先祖犬の総合的な素性にもよる。血筋をちらばさないように丁寧に繁殖する。このことによって紀州犬の猟性能は高い確率で保存される。

 犬の猟性能だけをも求めるのであれば犬種を問わず「猟をする」という一点だけで交配を繰り返す。そのなかには紀州犬の純血種もいることもある。紀州犬に半分以上他の犬種の血液が混じった犬がいる。他犬種に紀州犬の血液をいれることもある。猟だけを求めて繁殖された犬で紀州犬の姿に似たのがいる。この犬を紀州犬と呼ぶわけにはいかない。純粋種といえない血液の犬を紀州犬として登録した事例を知っている。それをやったら紀州犬と猟性能の関係に収集がつかなくなる。

 紀州犬は断固として先祖伝来の血液を保存する。すべてはその上でのことだ。紀州犬の猟性能は確かである。

 単純にイノシシ猟だけを求めれば西洋犬に紀州犬は劣ることがあるかも知れない。紀州犬が日本の風土で育ってきた犬である。紀州犬の素朴さはとくべつである。素朴さとは国語辞書は自然のままに近く、あまり手の加えられていないこと、素直で飾り気がないこととしている。犬の世界の解釈は少し違う。紀州犬にはが求められる。良性とは国語辞書は性質が良いこと、とする。犬の世界では子育てを含む総合した性質の良さと解釈される。

 イノシシを追う前に犬同士がいがみ合っていては役にたたない。仲間の犬といがみ合わないことも良性に含まれる。

 訓練を積んで猟の性能を育てていく。上手くいかない犬もいる。どのような世界にも確立ということが含まれ、標準偏差として描き出すと紀州犬は猟をする犬なのだ。特別に猟性能が優れたもの同士で繁殖しても血液の根底で標準偏差が働く。だから猟性能を求めても一朝一夕には結果を得ることができない。このことを別の言い方で表現すると紀州犬は猟性能に優れた犬であるけれども、それが特別な状態で発露する犬とそうでない犬もいるということになる。目的をもって勇んで犬を飼ってみたけれども当てが外れるということは頻繁におこる。猟ができなくても紀州犬は一緒に暮らせば素朴であり日本人の心に溶けこむ犬である。

 縄文時代には犬は人に飼われていて猟の伴(とも)をした。弥生時代も同じである。時代が進んで昭和の第二次大戦の前後まで猟をすることによって命をつないできた犬がいた。紀州犬はそのような犬である。

 犬を供にして縄文人は狩りをした。縄文人の食べモノは千種をこえる。千種の食材を縄文人は食べていた。草や木の実、貝や魚、獣(けもの)など千をこえる。現代人の食卓には30種がのぼればいいほうだ。食材は現代では商品になっていて特別なモノだけが商業生産され流通する。縄文人は食べるモノに詳しかった。自然のなかにあるもののすべてを食べたといってよいほどだ。自然と一体になっていて生きていた。千種以上の食材をより分けられる縄文人である。犬を養い訓練する知恵と能力は現代の普通の人よりはるかにすぐれてた。

 山梨県の釈迦堂遺跡からは人には聞こえない高周波数をだす犬笛が出土している。犬を操るのにその笛を使った。高い周波数の音は遠くまで届く。5キロメートルぐらいの範囲であれば犬は聞き分けができたであろう。もっと遠くまで届くという人がいる。100キロメートル先まで届くというがどうだろう。現代のように雑音が少ない縄文時代には届いたかも知れない。

 縄文の犬は暮らしがそのまま狩りと隣り合っていた。毎日が狩りの訓練であり実践の場である。狩りは人の生活でもあった。林のなかにつくった竪穴式住居には熊が出る。犬は熊を撃退した。熊を狩るのも縄文の犬の仕事である。犬の能力を侮(あなど)ってはならない。狩りは犬の生活そのものだった。狩りを犬が犬に教える。人もまた犬を訓練する。自然とともにあって森の中から動物性タンパク質を獲得するために縄文の人と犬は共同して作業した。

 犬の帰家能力はよく知られている。アメリカ大陸を横断して元の飼い主のところに帰った話は有名である。鳥や獣は方位感覚をもっている。私の経験ではお産の後の子どもを離したその日に新しい飼い主に渡された母犬はリードを咬みきって一夜放浪して朝になったらその新しい飼い主のところに戻った。一晩子犬を探していたのだろう。

 犬の使役犬としての能力は高い。訓練を受けて能力を備える。驚くほどの能力である。

 犬は犬である。犬は犬の生活をする。犬の生活は人に寄り添う。現代においては特別な使役目的をべつにすれば紀州犬の場合でも家庭で普通に生活する犬だ。その犬の行動様式や犬の楽しみを理解して人と調和して生活できる犬に育てる。

(誤字、脱字、変換ミスなどを含めて表現に不十分なことがある場合はご判読ください。)






最終更新日  2018年08月06日 16時48分49秒
コメント(0) | コメントを書く
2018年08月04日
2018年08月01日
カテゴリ:紀州犬物語
紀州犬物語160 犬の夏の過ごし方 冷房のある居間で暮らす犬の振る舞い(横田俊英)
(タイトル)
犬の夏の過ごし方 冷房のある居間で暮らす犬の振る舞い
(サブタイトル)
犬を家のなかにいれて飼う場合に家具を齧(かじ)るので困る。
第160章 犬の夏の過ごし方 冷房のある居間で暮らす犬の振る舞い 執筆 横田俊英



お産があるので何年か前に夏場を居間ですごした。
子犬は一頭だけ産まれ涼しくなるまで居間にいた。

 暑い夏があって屋根の下ではあっても暑いために子犬が熱射病になったことがあった。医者に何度もつれていって健康をとりもどした。熱い路面を歩いていて卒倒した犬もいた。

 ある夏はとても暑く、犬舎に扇風機をつけて外からも工場扇風機で風をおくっても体調も体調が整わない犬がいた。12歳を超えたメスの老犬なので冷房のある家のなかで過ごさせることにした。

 この犬はお産があるので何年か前に夏場を居間ですごした。子犬は一頭だけ産まれ涼しくなるまで居間にいた。セメントを練るための船という長方形の箱を巣箱にした。母犬は落ち着いて子育てをした。子犬は家にいて何時の間にか3歳を過ぎた。

 犬を家のなかにいれて飼う場合に家具を齧(かじ)るので困る。母犬はそれをしない。居間で寝そべり、巣箱に移動して寝そべりの生活をする。外へ連れ出すのに間が空くと粗相をする。暑さで体調をくずしていなければ、そしてこれまでは家のなかで粗相をすることはなかった。老いもあっての粗相と思われる。

 ケージのなかにリードをつけて入れておいてもリードを齧ることがない。おもちゃを入れていてもおなじである。この犬の別のメスから生まれた子も同じようである。

 父親はといえばケージの付近にある布だのヒモだのがあれば引っ張り込む。

 犬がどのように居間やケージのなかで行動するのかということになると犬それぞれであっれ一概には言えない。

 何でもガリガリ齧る犬がいる。檻のなかの床板を齧る犬がいる。入れる檻ごとに床板を齧って穴を空けてしまう。檻は太い鉄棒でできているから齧ると歯を壊すだけだから途中で分かってしまう。だから鉄棒を齧って壊すことはないが、針金の太いものだと犬歯を当ててゆがめることことはある。外にいる犬が気に食わないと鉄棒を激しく齧ったために犬歯が外れた犬がいた。また激しく齧って歯を何本もボロボロにしてしまったのもいた。

 居間で電気コードを齧って感電することがあるから要注意である。大事な家具を傷けられたら犬を恨む。余程の注意が必要であり、飼い犬を居間におくときの基本は扉の付いたケージのなかにするのが基本であり原則だ。遊ぶときとか目が行き届いているときにはケージからだしもよい。それ以外はケージのなか、というのが犬を躾けるための原理である。原理にはちゃんとした理屈と裏付けがある。このことについてはここでは触れない。

 人の健康に危険を及ぼすような暑さは犬に対しても同じである。庭の犬舎には屋根が付いている。それを覆うようにカーポートを付けている。扇風機を齧って壊さないことが確かめられている犬には扇風機を犬舎のなかに設置する。暑さがひどいときには2台を回す。扇風機を齧るかも知れない犬の場合には工場扇風機を外に設置して強い風邪を送る。

 扇風機の動作をさせるのにタイマーを用いる。午前8時から午後8時までの定刻を毎日動作させるタイマーがある。留守をするときなどには特に便利である。

 夏場を過ごす犬と暑さ対策のことを少し述べた。

 あちこち齧って物を壊す犬がいるから困る。私にはこのような犬を矯正した経験はない。矯正したいと思ってもその方法を知らない。だからそのような犬でないことを願うだけ、ということになる。齧る犬だったら目を目を離しているときはケージの中。檻に入れると檻の床を齧られるが床を定期的に取り換えて対応する。

 人は自分が飼った犬のことだけをもちだして犬の行動を定義する。人に都合の良い行動をすることをもって犬はそうだ、と定義されるのならよい。そうでない犬が多くいるから人が決めてしまった行動の定義を真に受けるわけにはいかない。

犬の少しぐらいの不具合な行動を許容して、飼い主に都合のよい行動をする犬がいれば有難いことだと大いに喜ぶのが良いのであろう。犬もいろいろだと思って付き合っていくことになる。

(誤字、脱字、変換ミスなどを含めて表現に不十分なことがある場合はご判読ください。)






最終更新日  2018年08月01日 16時11分04秒
コメント(0) | コメントを書く
カテゴリ:紀州犬物語
紀州犬物語160 犬の夏の過ごし方 冷房のある居間で暮らす犬の振る舞い(横田俊英)
(タイトル)
犬の夏の過ごし方 冷房のある居間で暮らす犬の振る舞い
(サブタイトル)
犬を家のなかにいれて飼う場合に家具を齧(かじ)るので困る。
第160章 犬の夏の過ごし方 冷房のある居間で暮らす犬の振る舞い 執筆 横田俊英



お産があるので何年か前に夏場を居間ですごした。
子犬は一頭だけ産まれ涼しくなるまで居間にいた。

 暑い夏があって屋根の下ではあっても暑いために子犬が熱射病になったことがあった。医者に何度もつれていって健康をとりもどした。熱い路面を歩いていて卒倒した犬もいた。

 ある夏はとても暑く、犬舎に扇風機をつけて外からも工場扇風機で風をおくっても体調も体調が整わない犬がいた。12歳を超えたメスの老犬なので冷房のある家のなかで過ごさせることにした。

 この犬はお産があるので何年か前に夏場を居間ですごした。子犬は一頭だけ産まれ涼しくなるまで居間にいた。セメントを練るための船という長方形の箱を巣箱にした。母犬は落ち着いて子育てをした。子犬は家にいて何時の間にか3歳を過ぎた。

 犬を家のなかにいれて飼う場合に家具を齧(かじ)るので困る。母犬はそれをしない。居間で寝そべり、巣箱に移動して寝そべりの生活をする。外へ連れ出すのに間が空くと粗相をする。暑さで体調をくずしていなければ、そしてこれまでは家のなかで粗相をすることはなかった。老いもあっての粗相と思われる。

 ケージのなかにリードをつけて入れておいてもリードを齧ることがない。おもちゃを入れていてもおなじである。この犬の別のメスから生まれた子も同じようである。

 父親はといえばケージの付近にある布だのヒモだのがあれば引っ張り込む。

 犬がどのように居間やケージのなかで行動するのかということになると犬それぞれであっれ一概には言えない。

 何でもガリガリ齧る犬がいる。檻のなかの床板を齧る犬がいる。入れる檻ごとに床板を齧って穴を空けてしまう。檻は太い鉄棒でできているから齧ると歯を壊すだけだから途中で分かってしまう。だから鉄棒を齧って壊すことはないが、針金の太いものだと犬歯を当ててゆがめることことはある。外にいる犬が気に食わないと鉄棒を激しく齧ったために犬歯が外れた犬がいた。また激しく齧って歯を何本もボロボロにしてしまったのもいた。

 居間で電気コードを齧って感電することがあるから要注意である。大事な家具を傷けられたら犬を恨む。余程の注意が必要であり、飼い犬を居間におくときの基本は扉の付いたケージのなかにするのが基本であり原則だ。遊ぶときとか目が行き届いているときにはケージからだしもよい。それ以外はケージのなか、というのが犬を躾けるための原理である。原理にはちゃんとした理屈と裏付けがある。このことについてはここでは触れない。

 人の健康に危険を及ぼすような暑さは犬に対しても同じである。庭の犬舎には屋根が付いている。それを覆うようにカーポートを付けている。扇風機を齧って壊さないことが確かめられている犬には扇風機を犬舎のなかに設置する。暑さがひどいときには2台を回す。扇風機を齧るかも知れない犬の場合には工場扇風機を外に設置して強い風邪を送る。

 扇風機の動作をさせるのにタイマーを用いる。午前8時から午後8時までの定刻を毎日動作させるタイマーがある。留守をするときなどには特に便利である。

 夏場を過ごす犬と暑さ対策のことを少し述べた。

 あちこち齧って物を壊す犬がいるから困る。私にはこのような犬を矯正した経験はない。矯正したいと思ってもその方法を知らない。だからそのような犬でないことを願うだけ、ということになる。齧る犬だったら目を目を離しているときはケージの中。檻に入れると檻の床を齧られるが床を定期的に取り換えて対応する。

 人は自分が飼った犬のことだけをもちだして犬の行動を定義する。人に都合の良い行動をすることをもって犬はそうだ、と定義されるのならよい。そうでない犬が多くいるから人が決めてしまった行動の定義を真に受けるわけにはいかない。

犬の少しぐらいの不具合な行動を許容して、飼い主に都合のよい行動をする犬がいれば有難いことだと大いに喜ぶのが良いのであろう。犬もいろいろだと思って付き合っていくことになる。

(誤字、脱字、変換ミスなどを含めて表現に不十分なことがある場合はご判読ください。)






最終更新日  2018年08月01日 13時57分29秒
コメント(0) | コメントを書く

全90件 (90件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 ... 9 >

カレンダー

お気に入りブログ

まだ登録されていません

コメント新着

コメントに書き込みはありません。

ニューストピックス


Copyright (c) 1997-2019 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.