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私の履歴書「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」鍋島綾雄

2018年01月04日
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私の履歴書「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 (29) 東北6県北海道計量協会の会長さん達その2- 目次 

●鈴木さんのこと

 秋田の鈴木はかり屋さんは江戸時代から何百年も続いた老舗中の老舗で、代々清太郎を襲名している。

 私は昭和20年代の頃から毎月のように営業マンとして伺った。茶町という秋田市の一等地に鈴木はかり屋という大きな看板を掲げた老舗らしい風格の店があり、裏にお住まいと小さな工場(棒はかりを作る)があった。

 鈴木さんは会長会議では余り発言しなかったが、場の雰囲気を盛り上げる才能は素晴らしく、懇親会は彼の独壇場であった。

 鈴木雲城という芸名を持ち、顎鬚を長く伸ばされて愛嬌のある顔で詩吟を朗々と吟じられた。同時に漢詩と和歌の名人でもあった。特技としては和歌に相手の名前を織り込んだ即興の詩を作ることであった。これは芸者さんやコンパニオンに喜ばれ、人気は絶大であった。

 はかり屋の方は時代の波に勝てず、一等地の屋敷をマンションのデベロッパーに売り渡して廃業された。面白いことに、はかり屋を廃業してからも秋田県計量協会の会長は辞めずに続けられた。大会では相変わらず絶大の人気を誇って居られた。秋田の検定所を退職してから長く専務理事として協会を支えて来られた相馬さんに私が「鈴木さんが会長を続けてくれていいですね」と話したら「それはいいことですが、秋田にそれだけ人材が居ないと言うことですよ」と嘆いておられた。

 

●長岡さんのこと

 長岡さんも昭和20年代からのお付き合いで、やはり営業マンとして東北衡器を訪問して以来のことだった。朴訥で質実剛健という典型的な東北人の見本のような方だった。近衛連隊に選ばれて入隊しただけあって体格も立派で心身共に壮健な方だった。会社の一角に弓の射場を設けて毎日昼休みに弓の稽古をして心身を鍛えるという異色な経営者でもあった。

 東北衡器という会社は岩手県内の販売免許を持った方々が出資して造った由緒ある会社だったが、後継者が育たなかったのか、育てなかったのか、長岡さんが亡くなられた後倒産してしまった。

 岩手県の協会も会員の会費の外、収入がなく200万円そこそこの予算では事務局にはパートの女性一人しか雇えなかった。他県の協会がやっている代検査事業も、早くから検査事業を立ち上げていた強力な団体があって協会の出る幕がなかった。長岡さんは何とか協会を存続させようと頑張られたが、亡くなられた後、協会は指定定期検査機関の指定を取れなかったことで継続を断念して解散してしまった。計量協会の解散という全国でも珍しいケースになり、東北・北海道ブロックにとっても大変残念なことだった。地下で長岡さんもさぞ無念の思いをして居られるのではないだろうか。

 

●竹田さんのこと

 先の5人の会長さん達と違って竹田さんとは会長になってからのお付き合いである。しかし宮城県と山形県は隣同士で協会の事務局同士も交流が深く、とても仲が良くて定期的に交流会を開いている仲だった。

 また私共の会社が社員旅行で羽黒山へ行った時、竹田さんの知り合いの宿坊を紹介して頂いて大変お世話になった。

 竹田さんはお兄さんが計量士であった関係で役所勤めから転進してはかり屋になられただけあって、はかり屋らしからぬ見識を持っておられ、会長会議でも積極的に発言された。

 ある会議で「日計協の常任理事は理事会に出席してその内容を持ち帰って周知すべきである。理事会に出席の難しい人は遠慮すべきではないか」と言う趣旨の発言をされた。これは私が竹田さんを焚きつけて発言して貰ったものだった。私の考えでは常任理事は宮城から出るのが順当ではないのか、しかし一番若い私から言い出すのは憚られるので竹田さんに発言してもらった。情けない姑息な手段だった。案の定、私の思惑は外れて常任理事に指名されたのは竹田さんだった。

 その後体調を崩され会長会議でも一時危険な状態になられたことがあり、その時私が一生懸命支えてお部屋へ運んだが、竹田さんにえらく感謝され次の会議のとき酒田の名産品をお土産に頂き恐縮した思い出がある。

 晩年には東北で一番に指定定期検査機関を立ち上げ、全国的に注目され我々始め他県の協会が指定定期検査機関の指定を受ける先鞭をつけられた。

 竹田さんは体調を崩されたこともあり、会長だけでなく事業の方も譲られて引退された。

 私も現役を退き協会の顧問を仰せつかっているが、お陰で体調は万全で未だに業界の会合には参加させて貰っている。しかし、これまで紹介した6人の会長さんは亡くなられたり引退されたりで私一人になってしまった。淋しいことだが自分の健康に感謝しなければならない。

(つづく)



(つづく)







最終更新日  2018年01月04日 15時20分00秒
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私の履歴書「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 (29) 東北6県北海道計量協会の会長さん達その1- 目次

●西谷さんのこと

 私が西谷さんに初めて会ったのは60年も前のことで、1948(昭和23)年に営業で北東衡機を訪れた時のことである。西谷さんは当時資材部長として購入窓口担当だったので訪問をする都度お目にかかり、彼の得意とする経済論・政治論をよく聞かされたものだった。

 話は一寸それるが福島県の船引という町に大森工業所という棒はかりを製造している工場があった。もともと大森工業所は東京の材木屋で木箱を作っていたが、戦後は材木の知識を活かして棒はかりの製造に転向していた。

 朝鮮動乱が始まると同時に木箱の特需が出てきたのではかり屋を廃業し、東京へ戻って本業の木箱を作ることに専念することになった。

 私は売掛代金の代わりに棒はかりの材料の樫の木を一貨車分引き取り、それを北東衡機に引き取って貰った。その間の処理が若造ながら大したものだと西谷さんに痛く気にいられ大変目をかけてくれるようになった。

 当時の台秤の生産は親方と弟子の徒弟制度で、親方の職人芸に頼る生産方式が殆どであった。北東衡機では台秤の生産には難しいとされた分業方式を早くから取り入れ、流れ作業体制が確立していた。

 台秤の生産台数は日本一を誇り、東北では唯一全国に販路を持つ大手メーカーであった。

 私は西谷さんのお墨付きで自由に工場内に出入りすることを許され、生産工程についていろいろ勉強して、それを参考にして鎌長の台秤生産ラインの根本的な改造に役立てたものだった。

 更に勝手に倉庫に入り錘の在庫を調べ、「今月はこのくらい送っておきます」と自分で注文量を決めて10トン貨車貸切で錘を送りつけたものだった。

 西谷さんは東大出だけあって頭の切れが鋭く、その経営論・業界論は誰も反論出来ず東北・北海道の業界では西谷天皇と呼ばれ、大ボス的な存在だった。会長会議でも60才を過ぎた私を捕まえて20代の若者のように「おい、鍋島」と呼び捨てである。呼び捨てに対して周りの人の中には眉をひそめる人もいたが、私は平気で別に違和感はなかった。

 惜しいことにワンマン経営が祟ってか晩年会社が廃業に追い込まれて、あの元気な声も聞けなくなった。

 

●安保さんのこと

 昭和20年代の中ごろ(正確には覚えていないが25年か6年だったと思う)、四国の徳島で計量協会の全国大会が開催された。勿論徳島の阿波踊りの時期に合わせて開催された。

 私は若造で大会には参加出来なかったが、大会の帰りに多くの方が日本秤錘へ来られた。安保さんも来社され、その時初めてお目にかかった。と言っても垣間見ただけで言葉を交わした訳ではなく、これが有名な北海道の所長さんかと思った。当時の評判は日本一の検定所長で「俺の仕事は道から検定所の予算をたっぷり取ることだ」というのが持論で、560人いる検定所の予算を確保した後は部下に任せて全国を歩いているという評判だった。

 その後北海道計量協会の会長を勤められ、会長会議でよくお目にかかった。

 北海道計量協会は4000軒近い会員数を擁し、ブロック内では会員数も予算規模も当時としては最大であった。会長時代の安保さんは飄々とされてとても風格があった。我々に対しても威張るところは全然なく、所長時代の近寄りがたい厳しさは感じられなかった。

 ある年の会長会議の議題で各道県の協会の実態を調査して、その比較をしてお互いの参考にしたことがあった。

 その時「宮城県の協会は会費収入40%事業収入60%で一番バランスが取れていて模範的である」と言われたことが思い出として残っている。

 安保さんは計量業界が未だ検定所主導で運営されていた時代に偉大な足跡を残した所長であったと思う。

 

●西さんのこと

 西さんは早稲田大学に学んだ秀才で頭の切れは素晴らしかった。会長会議でも活発に発言され、色々な企画や斬新なアイデアを提案された。

 別の項で北海道の帰りに困ってお金を借りた話をしたが、昭和20年代から営業マンとしてお宅にお伺いして、新婚の美人で優しい奥様の手料理をよくご馳走になった。

 青森県は青森市・八戸市・弘前市が特定市で協会も青森支部・八戸支部・弘前支部としっかりとした3支部にがっちりと支えられた組織であった。

 1952(昭和27)年に東北北海道計量協会連合会が発足しているが、その第1回の総会が青森で開催されている。恐らく青森県が提唱して開催されたものと思われるが、毎年持ち回りで山形・宮城・秋田・岩手・福島・北海道の順に開催している。何故、この順序になったのか不思議だが今となっては確かめようがない。昨年で8回りして今年青森大会で9回り目の57回目に入った。1975(昭和50)年頃の青森大会で業界の大同団結を提唱し、青森から全国に向けて発信するという快挙も西さんの提唱したものだった。

 また、西さんは青森の名士でもあり、ライオンズクラブでも私の先輩ライオンとして青森地区のガバナーという名誉ある最高の地位に就かれた。その他に赤い羽根募金の青森代表も勤められたということである。

 そんなことで早くに叙勲の栄に浴されたが、残念なことに数年前に亡くなられた。息子さんの秀記さんが立派に後を継いで素晴らしい活躍をされていることは頼もしい限りである。

(つづく)







最終更新日  2018年01月04日 15時17分41秒
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2017年07月01日
私の履歴書 「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 鍋島綾雄(14)未熟な経営者としての成功と失敗  目次

 1959(昭和34)年の暮れに仙台へ移った私は、1960(昭和35)年1月の総会で伊藤さんに最後の花道として社長に就任してもらうよう提案し、私は専務に就任した。そして日東で私が先ず手がけたことは、月に2回しか休みがなかったのを日曜・祭日は休みにしたこと、中卒の新入社員2名を日給150円(時給ではない)で採用したこと、中古の1トントラックを購入して運転手を採用したことであった。

 半年もたたない1960(昭和35)年4月、チリ地震で三陸沿岸は大津波に襲われ甚大な被害を蒙った。塩釜・石巻・気仙沼の魚市場や水産加工場の台秤は海水に浸かって使い物にならなくなった。丁度買ったばかりの中古の1トントラックで浜との間をピストン輸送して修理をするはかりを運んだ。思いがけないこの特需が、若い力で積極経営をやろうとスタートした私に大きなプラスとして作用した。

 そしてこのことがキッカケで修理ハカリの流通経路を変革し、業界でも珍しいスタイルを確立することにつながった。

 通常、ハカリの修理はユーザーが各地のハカリの販売店へ持ち込み、販売店から修理業者に送られ、修理が終わればその逆の経路で返されていった。しかし私は、三陸漁場というハカリの消耗の激しい(半年毎に修理が必要な)市場があるという利点を活かして、トラックで修理を集めて廻るというユーザーダイレクト営業を展開することにした。毎週検定し終わった修理品をトラックに満載して三陸漁場に配達して、帰りには修理をするハカリを満載して帰るという繰り返しであった。

 業界でも珍しいこの修理の営業はつい最近まで日東の収入のベースを構成する重要な部門として業績の向上に貢献してくれた。

 もう一つ取り組んだのは台秤の製造である。全国のメーカーを歩いたお陰で、何処にどういう材料があって何処のメーカーの製造工程が優れているか熟知しているつもりだったので、台秤の製造には自信があると自惚れていた。20数人の規模で相当の台数を造る体制を作り、事実相当な台数を造った。造った台秤の売り先は農協で、秋の米の収穫期になると飛ぶように売れるが、売り逃がすと翌年の秋までストックになる。

 見込み生産というのは材料を仕入れて倉庫で寝かし、製造してからも在庫で寝かし、売れてからも代金の回収まで又時間がかかる。


 修理は預かった時点で売れているのと同じだし、材料費もかからない。製造は材料を仕入れて金になるまで半年も1年もかかり、資金のないものがやるべき仕事ではない。若気の至りで自信満々で取り組んだが、台秤の製造は失敗だった。

 これに懲りて工場は受注した一品料理的な製品の製造に切り替え、見込み生産を止め、受注生産の原則を今日まで守ってきている。

 そしてイシダ・鎌長の東北地区代理店契約をして販売会社としての性格を強めて行くことになる。(つづく)






最終更新日  2017年07月01日 13時51分58秒
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私の履歴書 「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 鍋島綾雄(13) 新天地・仙台へ  目次

 毎月の出張先、仙台に日東度量衡という会社があった。この会社は1923(大正12)年に知事の肝いりで県内各地の販売免許事業者200人近くが出資して当時としては珍しく株式会社として発足し、初代社長に宮城県度量衡検定所長の鈴木重雄氏が就任している。

  しかし日東度量衡はその由緒ある生い立ちにもかかわらず業績は伸びず低迷の時代が長く続いた。その原因は社内に残っている古い資料から類推できるが、その一つは設立後基礎の固まらないうちに昭和初期の大不況に直面した不幸である。もう一つの原因は業績不振による役員間の意見の不一致で、良く言えば近代的な株式組織だが裏を返せばオーナー不在の寄り合い所帯の中で、役員間の勢力争いが激しく社長は目まぐるしく変わっている。

 
1945(昭和20)年7月の戦災で会社の建物は殆ど焼けてしまった。東京の永井さんというハカリの材料屋さんが戦前に日東度量衡の過半数の株を買い集めてオーナー社長になっていたが、その永井さんは東京の自宅も工場も戦災に遭い、全財産を失ってしまった。

 戦後、永井社長には日東度量衡を復興する気力も無く資力もなかった。月に一度仙台に小遣い程度の報酬を貰いに来る社長では話にならない。

 伊藤さんという
80才近い常務さんが留守を預かって56人の従業員で細々とハカリの修理をして食いつないでいたが、伊藤さんも脳溢血で倒れて半身不随の体で会社を立て直すのは体力的にも無理だった。1957(昭和32)年に永井さんが亡くなったが、勿論遺族の方は仙台に来る気はなかった。

 日東度量衡の将来を案じていた伊藤さんは、私が「東北の都である仙台で、はかりやとして他県に負けているのはおかしい」と熱心に積極経営を説くものだから「そんなに言うなら鍋島さん、あなたが来てやったら」というような話になっていった。

 瓢箪から駒の例えがあるが正直びっくりしたというか戸惑った。夢にも考えなかったことだが、誘われてみると私自身の気持ちの中にこの申し出に魅力を感ずる伏線があった。

 「鶏口となるとも牛後となるなかれ」と教えられて育ったこともあるが、私は「一将功成りて万骨枯る」というような経営ではなくもっと他に理想的な経営があるはずだという永年の思いが頭を離れず、それを実現してみたいという思いがあった。


 旅先で仙台行きを決心した私はすぐ手紙で家内に気持ちを伝えた。

 有難かったのは家内が未知の不安を乗り越えて仙台行きに積極的に賛成してくれたことだった。今考えてみると生まれ故郷を離れて見知らぬ異郷へ引っ越すことをよく決心してくれたと感謝している。私は父親に無理を言って田圃を担保に農協から金を借りて貰い、更にポン友からも借金し東京の永井さんの遺族から株を譲って貰う資金を用意した。マージャンの思い出のところでも書いたように、Mさんの尽力で永井さんの遺族の方から快く株を譲ってもらうことが出来た。

 1959(昭和34)年の10月、34才の私は小学校2年生の長男、幼稚園の次男を連れて親子4人で故郷高松を後にして1200キロの山川を越えて仙台に引越しをした。出発に際してはびっくりするほど大勢の人々が高松桟橋に見送りに来てくれた。電車や汽車と違って、連絡船での100人近い人とテープを交わしての別れは格別感動的なもので、その感激は生涯忘れられない。

 お陰で故郷とは縁が切れず80才を超えた今日でも年に12回は高松に帰って旧交を温めている。(つづく)






最終更新日  2017年07月01日 13時45分52秒
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私の履歴書 「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 鍋島綾雄(12) マージャンの思い出  目次

 マージャンの付き合いが縁で仙台へ来るに際してはMさんに大変助けられた。

 亡くなった日東度量衡の社長の弟さんとMさんが友達だったので、遺族の方から日東の株を譲ってもらうに際してMさんが仲介の労を取ってくれ、お陰で交渉が極めて円満且つスムーズに成立した。

 釧路の千葉征良さんもマージャンが好きだった。私が行くと釧路支所長のNさん、市の検査所長のYさんが集まって来て千葉さん宅でマージャンが始まる。千葉さんの奥さんがとても面倒見のよい方で周りから「母さん、母さん」と大変慕われていて、私も大変お世話になった。釧路へ行くたびに千葉さん宅に泊めて頂いたが、ある冬の朝起きてみると布団カバーの襟元に私の寝息が凍り付いて霜のようになっているのにはびっくりした。

 当時、釧路~函館間の急行列車は夜830分に出る『まりも』一本だけだった。それに乗り遅れると翌日の夜まで列車は無い。北海道の人はのんびりしたもので、もう一日泊まって行けという。

 あるとき時間ぎりぎりで釧路駅に行き、財布がないことに気がついた。切符は往復切符を買ってあるので汽車には乗れるがポケット中を探してやっと駅弁が一つ買えるくらいの小銭は出てきた。千葉さんのところへ引き返したのでは又一日延びてしまう、ままよと列車に飛び乗った。翌日の夕方青森に着くまで20時間、駅弁一つで我慢し、後は水ばかり飲んで飢えを凌いだ。青森の西衡器さんまで漸く辿り着いて訳を話して5000円をお借りし、夜中の11時半に目的地盛岡について旅館に泊まることが出来た。
(つづく)






最終更新日  2017年07月01日 13時33分35秒
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私の履歴書 「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 鍋島綾雄(11) トラックスケールとの出会い  目次

 1951(昭和26)年、度量衡法が改正され民主的な計量法が施行された。民間企業の末端にいた者にとってはその過程も分からないし、関心も低かった。ただ当時の計量課長高田忠氏が役所の代表、大和製衡(株)の専務小野竜造氏が民間代表で、この二人のコンビで骨格が出来たというもっぱらの噂だった。その中で私の印象に残っていることが一つある。

 戦前の物資の輸送は殆ど貨車輸送だった。戦後になって自動車産業の発達、そして道路整備が進むにつれてトラック輸送に変わりつつあった。新しい計量法の中でトラックスケールの検定を工場検定にするか、現地検定にすべきか問題になった。

 従来、貨車スケールは線路に埋め込んでの現地検定であったが、トラックスケールも現地に据え付けた状態で検定をすることになると、全国に販路を持つ大和製衡にとっては大変不利になるので小野竜造氏が強引に工場検定を主張して押し切ったという。大メーカーのエゴと言えなくもないが今日のトラックスケールの普及に役立った判断といえよう。

 貨車スケールは全国主要駅に数十台あれば間に合うが、トラックスケールは今日、年間数千台も造られている。

 私はふとした縁でトラックスケールと出会うことになった。東京にT社という社長以下56名の会社があって当時としては珍しくトラックスケールを造っていた。そこへ20キロ分銅500個、すなわち10トンの売り込みに成功した。価格は当時の価格で90万円だから27才の私にとってはかなり大型の商談であった。現金で払うのは大変だというので20トンのトラックスケールを2台バーター取引で引き取ることにした。そこまでは良かったのだがスケベー根性を出してお互いに30万円の手形を3枚づつ相手に払うことしたのが<RUBY CHAR="不味","まず">かった。1枚目・22目は何とか落ちたが最後の3枚目が不渡りになってしまった。

 催促に行くともう少し待ってくれとか、何日には都合できるからとか、終には私が行く日には逃げてしまって帰って来ない。そこでこちらも座り込み戦術で帰るまで待たせて貰う。工場の一隅に社長の自宅があり、奥さんが気立ての良い方で「どうぞお上がり下さい」といって夕食をご馳走してくれる。

 そこに永田さんという年配の設計屋さんが居候のような形で同居していた。永田さんは夜もトラックスケールの設計をしていた。私も手持ち無沙汰だから、社長の帰りを待つ間、永田さんと話をするようになった。そして永田さんは高松の出身でお互い同郷だと分かって益々親近感を持つようになったが、永田さんはそのころ画期的な桿元印字方式を考案して図面化の最中だったから私を捕まえて熱心に説明してくれた。

 この出会いが私にトラックスケールを深く勉強させることになり、これが後々役に立って生涯トラックスケールと関わり合うことになった。

 私が立て替えた不渡りの金は結局回収出来なかった。永田さんと親しくなったことから、永田さんを鎌長(この頃私は鎌長の営業も兼務していた)にスカウトすることに成功した。

 永田さんという優秀な(戦前は三菱の技術者)設計者を迎えたことがトラックスケールの製造に乗り出すきっかけとなり、その後鎌長はトラックスケールのトップメーカーに駆け上がることになる(つづく)







最終更新日  2017年07月01日 13時28分59秒
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私の履歴書 「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 鍋島綾雄(10) 東京の秤屋さん  目次
 東京には守谷・守隨・佐藤という戦前の業界を代表する大老舗があったが、どういうわけか戦後はあまり振るわなかった。多分農家を相手に量産する棒ハカリ・台秤は精密を得意とする職人芸的な老舗には合わなかったのだろうか。訪問しても老舗らしい落ち着きは感じられたが、余り覇気は感ぜられなかった。

 守谷といえば、守谷の職人から独立して栃木に帰り、百数十人の工場の主となった平田さんの所へよく通った。平田さんは若い時に裸一貫で栃木から草鞋を履いて一人で東京に出て飾り職人になったが、その後守谷に拾われてハカリの職人になったそうである。棒ハカリや天秤の技術は簪かんざしなどを作る飾り職人の技術から来ているというルーツを教えられて、なるほどと感心したものだった。

 不思議なことに台秤・棒ハカリの製造台数では東京は明らかに地方に負けていた。そんな中で伝統も資力もないが数人の職人を使って台秤その他を組み立てる新興勢力が何組かあった。

 この人たちは資力がないから問屋で前金を借りてハカリを造り、都庁に持ち込んで検定を受け、検定が終わると全台数をそっくり神田の問屋へ直接持ち込んで現金に換える。即ち問屋資本で回転しているわけだから、彼らは完全に問屋の支配下にあった。神田には野村さん・岩下さん・森貞さん・三友さん等錚々たる問屋が軒を連ねていた。これは東京だけの特異な形態で、大阪にも有力な問屋がたくさんあったがこういう機能は果たしていなかった。

 今も覚えているのは野村さんで貰った小切手を神田の富士銀行におろしに行くと一覧払いといって帳簿も見ずにすぐ現金に換えてくれる。当時は勿論電子化なんかされておらず、銀行と雖いえども手書き帳簿時代であった。小切手をおろしに行くと一々帳簿に残があるか確かめてからでないと現金に換えてくれない。確かめるのに時間が掛かるので待たされる。天下の富士銀行はそんなことをせずすぐ小切手を現金に換えてくれる。即ち富士銀行に口座を持つということは大変なステータスで、それだけ信用があるということであり並みのハカリ屋では考えられないことだった。当時としては富士銀行神田支店に当座を持つのは驚異的なことで野村さんの信用力に脱帽したものである。

 そうした中で全国の有名メーカーは東京に進出して支店を持っていたが、殆どのメーカーの東京支店は事務所のみで現物の在庫は持たなかった。ところが田中衡機さんだけは、東京のど真ん中に店舗形態の自前の支店を持ちハカリの現物を在庫として持っていた。これは大変な強みで東京の販売店の有力メンバーの殆どが結集して東京田中会を結成していた。(つづく)






最終更新日  2017年07月01日 13時25分20秒
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私の履歴書 「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 鍋島綾雄(9) 出張で11年間毎月東京へ  目次

 1948(昭和23)年3月九州のハカリメーカーを巡る出張を命ぜられた。若造だったが名刺は営業課長で旅費は2等車(今のグリーン車)で支給された。勿論2等車には乗らず、3等車に乗って旅費を浮かせた。福岡・長崎・熊本等を廻ったが、変わった所では宮崎の飫肥まで足を伸ばした。飫肥の町に戦後一時「棒ハカリ」を作る会社があった。

 宮崎からバスで南へ海岸線を2時間程かかるのだが、その景色の素晴らしかったことが印象に残っている。どういう名前の会社で、どういう商談をしたのか覚えていない。それ以来60年間飫肥という町に行く機会もないが、テレビ等でこの町の名前が出てくると23才の頃が思い出されて妙に懐かしい。

 1949(昭和24)年になるとドッジ旋風で世の中が一気に不況になり日本秤錘としてものんびりしておられず、注文を取りながら全国を集金して廻るようになった。私は東日本を担当した。これが私の今後の運命を決めることになった。

 テレビは勿論未だ放送されていないときのことなので、東京と地方では今では想像出来ないような格差があった。東京には新しい文化の最先端があり、貧しいけれども人々は活気に満ち溢れていた。映画は勿論、俳優座・文学座・歌舞伎・新派・新国劇と花盛りで、諏訪根自子のヴァイオリンを生で聴いたり、歌舞伎座で六代目菊五郎の演技に感激し新橋演舞場で石井寛と水谷八重子の新派の舞台を見たり、杉村春子と同じ電車に乗り合わせてみたりして、自分も時代の先端を歩いている様な錯覚を抱いたものであった。

 士官学校に入るとき保証人になって頂いた同郷の大先輩松田大佐が奥さんの実家の中原家に住んでおられた。お訪ねしたところ大変歓待してくれ、それから10年余りの間、毎月東京に出るとそこに泊めて貰うことになった。この中原家の次男が茂男さんといって私と同い年だった。中々の美男子で東京農大を卒業して芸能界に飛び込み、当時のテレビの人気番組『事件記者』のレギュラーとして活躍していた。生粋の東京育ちで同年輩でもあり、すぐ仲良くなった。ハンサムな芸能人で将来を嘱望されていたが、惜しいことに早死にをしてしまった。

 又、お得意先の神田の野村製作所にも私と同年輩の昭ちゃんというお嬢さんがいて、俳優座の劇団員として活躍をされていた。チャキチャキの江戸っ子・神田娘で私を捕まえては「鍋島さんとこの社長さんは東京へ来る度違う奥さんを連れてくるよ」と言ってからかわれたものだった。

 俳優座で思い出すのは、1949(昭和24)年~1950(昭和25)年頃、公演の初日直前に当事売り出し中の主演女優が倒れて大騒ぎになり、急遽代役に無名の女優を立てて初日の幕を開け話題になったことがあった。私もその公演を見たが、その代役の幸運を射止めた無名の女優が奈良岡朋子だった。押しも押されもせぬ大女優になった奈良岡朋子の初舞台を見たのも奇縁であったが、この初舞台を見た人の殆どは皆亡くなられて今では殆どいないのではなかろうか。

 一方、野村の昭ちゃんも渋い演技力と綺麗な東京言葉でのし上がり、『渡る世間は鬼ばかり』で大女優として貫禄十分の演技を披露してくれている。

 高松で半月、東京で半月、中原家を拠点に関東一円から東北・北海道まで歩くという生活が1959(昭和34)年まで約11年続いたわけだが、この時期は戦後の混乱から立ち直り、朝鮮動乱の特需景気を経て高度成長の入り口に差し掛かる時期であった。この時期に毎月高松から東京に出ることは極めて珍しいことであり、大変嬉しい役得であった。毎月東京の空気を吸うことで視野を広めることが出来たことと、ハカリ業界に人脈を築くことが出来たのが後に仙台で大変役に立つことになった。

 昭和20年代は戦後復興のため、鉄・石炭・食糧の三つに傾斜生産といって重点が置かれた。

 鉄・石炭の製造現場で必要とされる貨車スケール・コンベアスケール等は大和製衡・久保田鉄工の独壇場だった。大方のハカリメーカーは食糧増産に励む農家向けの棒ハカリ・台ハカリを主力に生産した。そのはかりメーカーの最大の納入先は全国各地の農協だった。

 戦前から昭和
20年代前半まで米俵は斗枡で4斗計って入れた。枡の生産地は岐阜大垣に多かった。1951(昭和26)年頃までは米の収穫時期になると注文の1斗マスを10トン貨車で各地のハカリ屋さんに送ったものだった。それが1俵は60キロと重量になり、だんだん80キロ20貫の棒ハカリや150キロ40貫の台ハカリに代わっていった。

 この他に棒ハカリでは
25キロ6貫・15キロ4貫・7キロ2貫の3種類が圧倒的に多かった。戦後の家庭燃料の主力は木炭だったので、炭焼きが全国各地で盛んに行われた。15キロ4貫の棒ハカリはその炭俵を計るのに飛ぶように売れた。7キロ2貫のはかりは小売用に持ち運びが便利なので、魚屋さんを始めいろいろな店で使われるため、造っても造っても間に合わないという状況だった。
(つづく)






最終更新日  2017年07月01日 13時17分26秒
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私の履歴書 「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 鍋島綾雄(8) 長尾虎太氏の思い出  目次

 日本秤錘時代に得たもう一つの財産は常務取締役だった長尾虎太氏の薫陶を受けたことであった。戦前の検定所長は中央人事であった。長尾虎太氏は確か群馬の検定所長等を勤められたが戦争中郷里の高松に疎開され日本秤錘に請われて常務として経営指導をされていたが、私は直接の上司として指導を受けた。東京帰りの紳士らしい品のいい人格者で中央の業界に明るく人脈も広かった。

 囲碁は確かアマ2段くらいの腕前とお聞きしたが、我々のザル碁の指導を時々して頂いた。初心者の我々がびっくりしたのは最初の一手目から最後の一手まで正確に再現してくれることだった。プロだったら当たり前のことだが当時の私は本当に感嘆し尊敬したものだった。

 この長尾常務は日本度量衡協会の専務理事だった重台安蔵氏や日本計量新報の創始者久保田誠氏と仲のいい友達で囲碁仲間でもあった。日本度量衡会館その他でこの3人が和やかに対局されているのを側でよく拝見したものだった。

 日本度量衡会館といえば東京の一等地虎ノ門に小なりといえども自前の鉄筋3階建てビルを構えていた。戦前の諸先輩の力と先見性には敬服させられる。私は長尾常務の使いでよく虎ノ門にあった度量衡会館へ行った。そこには戦前から戦後にかけて業界の大御所であった会長の徳永学氏・専務理事の重台安蔵氏・若手のバリバリの本宮大介氏等がいた。私の用事は当時昭和通にあった中央度量衡検定所へ紹介して貰うことであった。戦後しばらくの度量衡法時代は検定・検査用の20kg分銅を中央度量衡検定所が毎年何百個も購入して各県の検定所に何年かに分けて配布していた。

 245才の若造が分銅の売り込みに中検に行っても相手にしてもらえないので、重台さんと本宮さんに紹介して貰って中検へ行った。中検の担当は小泉袈裟勝さんだった。後年小泉さんとは計工連のハカリ部会等でよくご一緒して親しくして頂いたが、バリバリの現役時代の小泉さんは一寸気難しい近寄りがたい感じだった。(つづく)






最終更新日  2017年07月01日 13時08分04秒
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私の履歴書 「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 鍋島綾雄(7) 分銅とおもりの独占企業  目次

 ハカリの錘おもりは銑鉄をキュウポラで溶かして砂型に流し込んで造るのだが、日本秤錘では普通の鋳物屋では使えないチンコロ(白銑)という銑鉄の3分の1の値段の材料を使って、しかも肌のきれいな錘を製造するという特殊な技術を持っていた。大正年間に先代が開発した技術だが、何しろ3分の1の値段の材料で、仕上がりもきれいだから全国何処のハカリ屋さんでも適わない。定量おもり・定量増おもり・分銅とも全国の需要を独占していた。

  戦後は物資不足の時代、即ち売り手市場だから物は造りさえすれば飛ぶように売れた。全国のハカリメーカーさんは、ハカリを造っても錘がなければ売ることができないので現金をリュックに背負ってすし詰めの満員列車を乗り継いで「日本秤錘詣もうで」にやってくる。景気のいいことこの上なく、給料は同級生の倍くらい、賞与は年4回であった。

  私は営業を担当させられた。売り手市場で大切なのは製品を造るための材料を集める仕入れ担当、即ち資材課の方が花形でそちらの方にベテランの優秀な人材が居た。北九州から闇のコークスを買い込んで貨車で運んで来るのだが、我々若手は早朝動員されて警察に見つからないように夜の明けないうちに工場に運び込む。

  一方、営業の方は営業とは名ばかりで、毎日検定が終わって上がってくる分銅や錘を全国の秤メーカーへ発送の手配をするのが主な仕事だった。錘が間に合わないと大変だから、メーカーさんは100個欲しいところを200個と注文してくる。こちらは注文数には到底生産が間に合わないから、そのメーカーのおおよその生産本数・生産台数を見抜いてそれに近い数量を出荷して、できるだけ満足して貰うようにしなければならない。営業ではそれを各メーカーへの「割り当て」と称していた。今の時代には考えられない嘘のような話だが、独占企業なるが故の実態だった。今の時代で言えばロードセルを独占して全国のメーカーに販売しているようなものである。

  この「割り当て」という仕事は長尾常務がやっておられたが半年もしないうちにすっかり私に任された。そのお陰で私は全国のハカリ屋の住所・番地・電話番号まで完全に暗記してしまったし、それぞれのメーカーの棒ハカリ・台秤・上棹うわかんのおおよその生産状況まで頭の中で把握出来るようになった。特殊な会社の特殊な立場のお陰で21才や22才の若さで全国のハカリ業界の地図に精通できて、これが私のハカリ屋人生の大きな財産になった。(つづく)






最終更新日  2017年07月01日 13時01分01秒
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