藤田省三『精神史的考察』
最近、全身全霊を傾けて読んでいるのが藤田省三『精神史的考察』である。日常は速読の私だが、藤田省三ばかりは頁を行きつ戻りつ、同じ論考を繰り返し読み込んで、なんども頭の中で味わってしまうのである。この本に着手して2週間以上経過するのだが、まだ半分も読めていない。藤田省三は、戦後リベラル派知識人の代表であり、みずからを「快活なペシミスト」と称した、とよく言われる。私の実感では、勝者の傲慢を嫌い、大勢に迎合せず孤独に生きる敗者の態度に崇高さを見出す。安直な快楽を嫌い、批判精神を愛する、そんな思想家だ。こうした思考が、ときには歯切れよく、ときには意図された難解さで、交響楽のように重層的に伝わってくる。こういう知識人は今の日本人からは残念ながらもう出てこないだろうなと思う。そして、藤田省三の文章を読むとほんとうの「省察」や「思考」というのはこういうものだったのだな、としみじみと感心するばかりなのだ。たとえばこんな部分に私は傍線を引いている。「松陰の精神史的意味に関する考察」(『精神史的考察』所収)松陰の人生の悲劇性について論じたのち、晩年の松陰の精神的状況がある種の明るさを帯びていたことについて、藤田省三は、次のように考察している。そうして悲劇的精神がその自覚の究極にまで達する時、そこには却て喜劇的精神が生まれる。「運命」と「人間」との格闘と、その格闘における「人間」のドタバタ性を、一度び超越的眼でもって見直すことが出来るや否や、その戦いの様相は笑いをもって描かれるようになる。・・・嘲笑的態度もあれば、苦笑いもある。穏やかな微笑みもあれば愉快な哄笑もある。皮肉なウィットもあれば洒落たユーモアもある、自分を笑う笑いもあれば他人を笑う笑いもある。戦いの笑いもあれば追従の笑いもある。全体の構図を笑って見る笑いもあれば部分的極点に縮小される笑いもある。「泣く」のと違って「笑う」ことには精神の全ての様相が含まれうる。・・・喜劇的精神はそれほどの包括性を持っている。そうして松陰は、悲劇性の覚悟を徹底させた晩年の、その行き着く所において反省的笑いを以て何程かまで喜劇精神を獲得したのであった。「笑い」ということについて、このようにひとりの人間の「精神史」とからめて深く考察した文章をほかに知らない。「泣く」のと違って「笑う」ことには精神の全ての様相が含まれる何度読んでもこの部分にはしびれる。「笑い」をこのように見ることのできた藤田省三という思想家にはただただ敬意を表するしかない。藤田省三は昨年、5月28日に亡くなった。もうじき一周忌である。こんな時代ではあるが、私は自分なりの「精神史」を刻む努力は忘れたくはない。藤田の論考を読むたびにこの思いを確認する。