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カテゴリ:読書
「脱藩大名の戊辰戦争・上総請西藩主・林忠崇の生涯」を読んで (上の画像の説明・中村彰彦著「脱藩大名の戊辰戦争」中公新書、2000年の表紙の画像です。同表紙をスキャンしました。) 朝日新聞夕刊に、平成21年9月15日から平成21年10月2日まで、「ニッポン、人・脈・記 お殿様はいま」という記事が9回シリーズで掲載されました。 その6回目の記事が、「お慕いします脱藩の将」として、歴史に埋もれていた一人の「殿様」として千葉県木更津市にあった旧請西藩1万石の藩主林忠崇と、そして彼に関わる人々を紹介していました。 林忠崇を主人公に小説を書いた直木賞作家の中村彰彦の記事がありました。中村彰彦は、戊辰戦争関係の資料を読んでいる中で、1868年(明治元年)4月3日、自ら脱藩し、藩士59名を引き連れ、木更津から箱根、福島、仙台を転戦、新政府軍を相手に孤軍奮闘した20歳の譜代大名がいたことを知りました。 以下、新聞記事です。 ーーー「それが、忠崇公。徳川恩顧の大名が新政府側に雪崩を打つ中、脱藩してまで徳川家への忠義を貫いた殿様がいたとは。その反時代的な精神に心ひかれた。私も、勝ち馬に乗るのが嫌な、へそ曲がりなもので」 戊辰戦争後、請西藩は全国の藩の中で唯一取りつぶしとなった。忠崇は開拓民となったり、函館に渡って番頭になったり、流転と困窮の生活を送る。 見かねた旧重臣が私財をなげうって、林家の家格再興に奔走。華族に列せられたのは、明治も半ばのことだった。 剣道や絵、和歌に親しみ、太平洋戦争の直前まで生きた。享年92歳。ーーー (上の画像の説明・朝日新聞、2009年9月29日夕刊「ニッポン、人・脈・記 お殿様はいま6」の記事をスキャンしました。画像左上が旧請西藩主の林忠崇公です。画像右は、作家の中村彰彦氏です。) こうして、中村彰彦は忠崇が主人公の書き下ろし小説「遊撃隊始末」を出版、新書でも、上記の「脱藩大名の戊辰戦争」を出し、忠崇の存在を広く世に知らしめたのです。 私も、戊辰戦争については、少しは知識を持っていると思っていたのが、この請西藩のことは気がつきませんでした。そこで、以前読んだ保谷徹著「戦争の日本史18・戊辰戦争」を再度読み返しました。結果、168頁~169頁に、9行ですが確かにありました。すっかり忘れていたのです。 中村彰彦の著書については、中公文庫「落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎」上・下などは読んでいたのですが、残念ながら、林忠崇が主人公の上記2冊は未読でした。今回、彼の生き方にすっかり興味を持ち、「脱藩大名の戊辰戦争」購入しました。 以下、私の感想です。 「藩士が脱藩するというなら普通ですが、藩主自ら脱藩された気持は」との問いを受けて、最晩年の忠崇がこう答えています。 「脱藩しないと、慶喜公と申し合わせてやったようになる。脱藩すれば、浮浪人だから、誰に命令されようもない」 水戸藩士や薩摩藩士が脱藩してから桜田門外の変を起こしたように、あるいは坂本龍馬が土佐藩の藩籍を捨ててから国事に奔走したように、忠崇は徳川最後の将軍に迷惑にならないよう大名という身分を捨ててから新政府の奸賊たちと雌雄を決しようと考えたのでした。 続けて忠崇は、こうも述懐しています。 「慶喜公は、財産を捨て、政権を捨てて、総理を辞した。それをなお朝敵として討伐するのは当たらない。それが分からないから、自分はやった。しかし自分が世間知らずのお坊ちゃんだったのは、自分のような小藩のものですら義挙を考えたのだから、大藩はすべて徳川の為に尽すと思っていた」 この時代、小藩とはいえ大名自らが、遊撃隊隊長として、戦場の真っ只中にあったということが凄いです。世間知らずであったと述懐していますが、忠崇の脱藩理由は、一言で言えば身を捨てて徳川家を守りぬくことでした。若き青年藩主のこの純粋な思いと行動は、私の心に深く印象づけられました。 (上の画像の説明・出陣直前の忠崇公の画像です。中村彰彦著「脱藩大名の戊辰戦争」中公新書、2000年、51頁の画像をスキャンしました。) そして、忠崇は遊撃隊の隊長として奥羽越列藩同盟に加わり、奥州各地を転戦し抵抗を続けますが、会津藩の開城降伏から2日後の1868年(明治元年)9月24日、降伏を決意し仙台藩の指定した八塚(仙台市内)の林香院に入り謹慎処分となります。 新政府は、4月29日に徳川家の存続を決定、5月24日にはその所領を駿河70万石にすることを明らかにしていました。 そして、忠崇は6月29日、徳川家の駿河移封を榎本武揚の密使から伝えられていました。一旦、滅びの道をたどるかに見えた徳川家は新政府の決定により絶家処分にならずにすみ、忠崇は抗戦目的をすでに達成していたことになります。 これ以上の戦いは私戦であると降伏を決意して、蝦夷での再戦を期す元の遊撃隊士らの前でこれを告げた彼は、一部の元の遊撃隊士から命惜しさかと、罵倒されます。激しいやりとのが交わされ、ついに元の遊撃隊と請西藩士隊とは喧嘩別れとなってしまいました。しかし、彼は決して命が惜しくて降伏したのではないと思います。 この時、「戊辰侍罪 国事の為め腹切らんと決心せし時」と詞書きして詠じられた忠崇の一首が今日に伝わっています。 ーー真心のあるかなきかはほふりだす腹の血潮の色にこそ知れーー これは、辞世にほかありません。忠崇は詞書きからも明らかなように、抗敵の罪を問われて切腹を命じられることを覚悟の上で降伏を決意したのでした。 1868年(明治元年)4月3日、忠崇とともに脱藩した請西藩士は59名、うち16名が戦死ないし病没し、林香院に入った忠崇一行は20名でした。 (上の画像の説明・戊辰戦争の経過図です。「地図で尋ねる歴史の舞台ー日本ー」帝国書院発行、1999年、86頁の画像をスキャンしました。) 戦乱に死すべき命を長らえた忠崇は、昭和16年、92歳の生涯を閉じます。臨終の前に集まった近親者たちから辞世を求められた時、忠崇は笑ってこう答えたと言います。 「明治元年にやった。今は無い」 明治元年に忠崇の詠んだ辞世と言えば、9月、仙台で降伏を決意した頃に作られた上の一首にほかなりません。それにしても各地に転戦していた21歳の時に詠んだ辞世が、その後71年にわたる浮沈ただならぬ年月を経てなおその生涯を象徴する一首であったとは、彼の思いとその誇りに驚きの念を禁じ得ません。 幕末維新史の流れ全体と比較した場合、忠崇のなしたところは蟷螂の斧に過ぎなかったかも知れません。しかし、「徳川家再興の為決起した、たた゛一人の脱藩大名」として、忠崇はその行動力に感銘受けた歴史愛好家の心に今も深く留まっているのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.10.28 06:47:55
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