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カテゴリ:歴史探索
能勢郷土史研究会・第93回定例会「町外史跡見学会」に参加して 3月29日(月)、強い寒気が流れ込み帰りには「なごり雪」が降るような天気となりましたが、恒例の町外史跡見学会が開催され、中型バス2台・総勢54名で神戸方面へ行きました。 今回の見学先は「源平合戦の地を訪ねる」ということで、(1)鵯越、(2)須磨寺、(3)清盛塚、(4)能福寺、(5)生田神社、そして能勢・三草山(標高564m)の神様と関係が深い(6)敏馬神社でした。 (上の画像の説明:一の谷大合戦 鷲尾三郎案内して鵯越の裏手を越る図(神戸市立博物館所蔵)です。著者 田辺眞人、須磨の歴史散歩、神戸市須磨区役所、平成19年3月改定版発行、表紙写真をスキャンしました。) 能勢を午前8時過ぎに出発、神戸三田ICから六甲北道路を利用、からと大橋、箕谷を経由して、午前10時37分鵯越墓地公園に着きました。途中、車窓からですが、バスを停め神戸市北区山田町で、義経が鷲尾三郎義久に鵯越の先導を依頼した鷲尾一族の祖先を祀る福田寺の説明がありました。 ◎一の谷合戦に至る義経の足跡 平氏軍との決戦は、元暦元年(1184)2月5日夜、迂回ルートを選んだ義経軍が三草山(兵庫県加東郡社町)に布陣する平資盛の部隊へ夜襲を仕掛けたことから始まりました。三草山に布陣して日数も少なく、防御も不十分であった平氏軍は、大混乱に陥り、平資盛らは播磨の高砂を経由して屋島に落ちて行きました。しかし平師盛は一の谷の平氏軍と合流していたので、山手側から義経軍が近づきつつあることを平氏軍は予測していたと思えます。 これに対し義経は、部隊を二手にわけ、主力は土肥実平に託して垂水方面へ南下させ、一の谷方面から西の手として、福原への突入をはからせ、自らは精鋭70騎を率いて、地の利にあかるい摂津源氏の多田行綱を案内者にたてて平氏軍の背後を突こうと、鵯越に向ったのでした。 こうしたなか大手主力軍の範頼(義経の兄)軍は、7日、生田の森で、東の手として平氏軍との戦闘に突入しました。両軍乱戦のなか、その流れを変えたのが義経軍による山手側からの攻撃でした。有名な鵯越の逆落としです。 (上の画像の説明:源義経、一の谷合戦(福原合戦)関係図です。)著者舘鼻誠、NHKカルチャーアワー・東西英傑伝 義経をめぐる群像、日本放送出版協会、2004.10.1発行、135頁をスキャンしました。) ◎鵯越はどこにある しかし、逆落としの場所は、はっきりしていないのです。一つの候補地は、鵯越の地名が残る神戸電鉄鵯越駅の北西一帯(神戸市北区)。いま一つは、「平家物語」では、鵯越は一の谷のすぐ後方であるように記されており、一の谷町(須磨区)の北側の山側(須磨浦公園周辺)とする説です。両者は直線距離にして7Kmも離れ、鵯越から一の谷に逆落としに攻めることはできないので、そのいずれかになるのです。 ただし鵯越は、摂津と播磨をつなぐ古道で、この山越え道の存在は平家軍も知っており、平教経・盛俊らが夢野・長田方面に布陣して山の手として山側の守りを固めと記録されています。その盛俊の陣地に義経軍の動きに驚いた鹿が逃げ込んできたともされています。 今回、実際に鵯越墓地公園に立ち、義経がここから一気に駆け下りたのか、また途中から一の谷に向ったのか考えてみました。ここを駆け下れば、一の谷よりもかなり東に出ます。丁度、平家陣地の中央当たりです。義経は、土肥実平に西側から攻めさせ、自らは中央を突破する奇襲をかけたと云うのが事実なのではないかと思いました。 (上の画像の説明:鵯越墓地公園からみた長田方面の展望・パノラマ写真です。右側の山は高取山(標高319.9m)。2010.3.29私撮影。) つまり、義経は、いまも地名が残る鵯越から夢野方面へ駆け下りて教経軍を蹴散らし、範頼軍と戦う平氏軍の背後を突いたと思います。さらに義経軍の土肥実平の率いる部隊が一の谷方面に突入したため、平家軍は総崩れとなって海上へと敗走したのです。 それでは、一の谷の逆落としとの関係はどうなるのでしょうか。これは、当日昼食をとった「シーパル須磨」で買った「須磨の歴史散歩」に記載がありました。 以下、「須磨の歴史散歩」22頁からです。『この源平の戦史を脚色した文学作品「平家物語」は、物語を誇張するため、義経の坂道攻撃を、鉢伏山の南山腹で起こったように舞台を須磨に移して描いたため、史跡としての鵯越えと文学遺跡としての鵯越えは別の場所になってしまったのである。』とありました。この通りだと思いました。 実際に、鵯越墓地公園から、長田方面に下りました。バスの車窓からですが、かなりの急坂でした。海岸線が近かった、源平の時代はもっと急坂だったと思います。義経があえて険しい山を選んだり、馬を落としたりしたというのは、義経の軍功を誇張するための「平家物語」の脚色であったのだと思いました。 ◎須磨寺 一の谷合戦でよく知られているのが、熊谷直実に首を打たれた平敦盛の悲劇です。この伝説的名場面を立体的に再現した像が、須磨寺の境内の「源平の庭」にありました。馬に乗り二人の像が対峙していますが、敦盛はいかにも若武者でそれだけ、敦盛の人気は高いのです。 (上の画像の説明:須磨寺・源平の庭の熊谷直実と平敦盛像です。2010.3.29私撮影。) 境内の宝仏館には、敦盛が愛用したという「青葉の笛」の実物の他、敦盛のものという甲冑、敦盛の木像などが展示されており、若武者・敦盛の存在が実感されました。 (上の画像の説明:須磨寺・宝仏館の左が「青葉の笛」、右が敦盛の甲冑です。2010.3.29私撮影。) また境内には、敦盛の首塚や、義経が自らその首を確かめたという敦盛首洗い池などがあり、戦いの厳しさ、空しさを伝えていました。 (上の画像の説明:須磨寺・境内の敦盛の首塚です。2010.3.29私撮影。) (上の画像の説明:須磨寺・境内の小学唱歌、「青葉の笛」の詞と五線符です。隣に立つ石像のスイッチを押せば、この唱歌が流れるようになっていました。2010.3.29私撮影。) この後訪れた清盛塚、能福寺、生田神社、敏馬神社、そして義経のことについては、字数の関係でその2として、次のブログに書きたいと思っています。 (上の画像の説明:源義経、晩年の肖像画です。頼朝に追われた義経は、藤原秀郷のいる平泉に逃げ込みました。(中尊寺蔵)著者 舘鼻誠、NHKカルチャーアワー・東西英傑伝 義経をめぐる群像、日本放送出版協会、2004.10.1発行、口絵4頁をスキャンしました。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.04.01 08:40:51
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