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カテゴリ:歴史探索
![]() 西教寺(明智光秀公顕彰会総会大津市)・安土城見学会に参加して その1 6月14日、「史耕会」主催の見学会に参加、安土城跡と大津市坂本にある西教寺を訪問しました。 (上の画像の説明・明智光秀画像(岸和田市・本徳寺蔵)です。小学館ウイークリブック週刊真説歴史の道、明智光秀敵は本能寺にあり、2010.4.13号、通巻7号、発行小学館、11頁の画像をキャンしました。) 「史耕会」は、以前より「戦国時代の史跡を訪ねる会」として活動していましたが、「歴史を愛し、歴史を耕し、歴史を語る」として、会のメンバーでもある能勢町在住の歴史作家・家村耕氏を中心に集う者同士の愛好会として、今年2月よりその愛称を決めたものです。 昨年より、家村耕氏の「光秀をたどる」が、毎週京都新聞に1年間にわたり掲載され好評のうちに完結しました。そして、執筆本「光秀奔る」が、今年2月に文芸社から出版されました。 なお、家村耕氏の「光秀奔る」の出版の件、内容等については、2010.3.4付の、私のこのブログ、能勢・地黄城築城400年記念事業、歴史講演会(2010.2.20開催)に参加してに掲載しています。 (201.3.4付ブログは、こちらから。) そして、大津市坂本にある天台真盛宗総本山・西京寺で6月14日、戦国武将・明智光秀の追善法要が営まれました。本能寺の変で織田信長を倒した光秀が、羽柴(豊臣)秀吉に山崎の合戦で敗れ、逃走中に命を落としたとされるのが、1582年のこの日です。同時に「明智光秀公顕彰会」の総会が開かれ、家村耕氏が記念講演をされますので、総会に出席して同氏の講演を聴くことにしたものです。 ◎安土城跡 能勢を午前7時40分に出発、総勢63名のバスツアーです。安土城駐車場に、午前10時20分頃に到着、早速2班に分かれ、地元観光ガイドの方に案内をしてもらい、安土城の天主跡に向って延びる大手道を登りました。
(上の画像の説明・当日頂いた安土城跡のパンフレットです。スキャンしました。) 安土城跡は、2度目の訪問ですが、約10年前の訪問時に較べて、すっかり整備が進んでいました。 大手道は、安土城の入口にあたる大手口から、山腹に向って一直線に延びています。道幅8m、両脇排水溝2m、全長180mの直線階段の大手道は、防御を無視した大胆な設計で、信長が「見せる天主」を演出したものといわれ、築城当時はこの大手道の正面高く、遮るものなく天主が望まれたのです。
(上の画像の説明・安土城大手道です。2010.6.14撮影) 大手道の石材には石仏や石塔なども集められ、石段にはかっては信仰の対象となっていた石仏がそのままの姿で復元されていました。
(上の画像の説明・大手道跡の石仏です。2010.6.14撮影) 更に石段を進むと、二の丸下の黒金門周辺は、高い石垣が累々と残り、安土城が石垣の城であったことがうかがわれました。
(上の画像の説明・二の丸下の黒金門周辺の石垣です。2010.6.14撮影) その先の本丸御前や天主台には、礎石が一定の間隔で点々と残されており、かっての壮麗な建物に思いが及びました。 山頂に出現したこの天主の威容は、高さ46m、表は5層、内部は7階建て(地上6階、地下1階)、6階は正方形で外壁に金箔が施され、5階は柱が朱塗りの正八角形の形でした。宣教師ルイス・フロイスも「ヨーロッパにもあるとは思えない壮大なもの」と絶賛しました。
(上の画像の説明・天主の礎石群です。2010.6.14撮影) 天主台からは、遠くに琵琶湖が望めました。現在は干拓が進み、田園風景が広がっていますが、信長の時代には湖面が眼下に見られました。「天下布武」を唱えた信長、天下人が立ちつくしたその同じ場所に立ち琵琶湖を眺めました。
(上の画像の説明・天主台跡から望む琵琶湖です。2010.6.14撮影) 1579年(天正7)、信長は安土山に天下人の居城にふさわしい巨大城郭を完成させました。しかし、1582年(天正10)、天下統一を目前としながら、本能寺の変により、非業の最期をとげました。山崎合戦ののち、安土城は何者かが放った火によって火災が発生し、天主や本丸の御殿は紅蓮の炎に包まれました。信長の夢の城は、完成から3年もたたずして地上から姿を消したのでした。 石垣が伝える権勢の面影、所要時間1時間30分、華々しくも覇者の残影がよみがえった時間でした。
(上の画像の説明・鉛筆画、安土城跡(山田啓治氏作)です。同氏は家村耕氏の作品に挿絵を書かれている能勢町在住の鉛筆画家で、当日の車中で頂いた鉛筆画をスキャンしました。) 続きの西教寺訪問記は、次のブログにその2として書き込みます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.07.24 23:41:32
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