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しょうちゃんのブログ 折々の記

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2009.08.17
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カテゴリ:シルクロード
  カルチャースクール「シルクロードのロマンと仏陀の道」を受講して(21年8月5日・項羽と劉邦、楚と漢の戦い)

 8月5日、A新聞社主催のカルチャースクールの今期講座(21年7月~9月期)の第3回を受講しました。今回のテーマは、「項羽(こうう)劉邦(りゅうほう)、楚と漢の戦い」でした。

(上の画像の説明・劉邦の画像です。カルチャースクールの今回の資料、6頁の画像をスキャンしました。)

◎漢中に封じ込められ劉邦、機会を窺い項羽討伐にのりだす

 紀元前206年、鴻門の会で、項羽と劉邦のあいだに一応の和解が成立しました。

 このあと、項羽は諸侯群雄の第一人者の地位を占め、秦国滅亡後の新たな覇者として西楚(せいそ)の覇王と称し、(ほう)(じょう)(江蘇(こうそ)省銅山県)を都に定めるとともに、秦討滅に功のあった諸侯を各地に分封しました。

 この時、劉邦が封じられたのは、当初の約束とは違い、関中(かんちゅう)ではなくその西方(地図上では左側)の地の漢中(かんちゅう)でした。関中は四方を険阻な山河に囲まれた要害の地であり、土地も肥えていました。それに対し、漢中は交通不便で山岳地帯の多い一種の僻地でした。項羽は、「漢中もまた関中の一部である」と強弁しましたが、劉邦にしてみれば島流しにされたような気分でした。

 この故事がもとになり、「左遷」という言葉が、生まれたとも言われています。

 しかし、当時の劉邦は項羽の意向に逆らうことはできませんでした。やむなく、劉邦は一族、諸侯をひきつれて漢中に赴任しました。それによって、劉邦は漢王と呼ばれることになります。のちに劉邦が建国する漢王朝の国名も、これによります。

 もちろん、劉邦は漢中にずっと止まっているつもりはありませんでした。劉邦の眼は、つねに中原の動向に注がれていました。

 項羽討伐の機会を窺っていた劉邦は、主筋の義帝殺しで高まった項羽の不人気を利用し、ついに軍事行動に出ました。

カルチャースクール「シルクロードのロマンと仏陀の道」を受講して(21年8月5日・項羽と劉邦、楚と漢の戦い)

(上の画像の説明・楚と漢の位置図です。カルチャースクールの今回の資料、1頁の資料の一部をスキャンしました。)

(ほう)(じょう)奪取成功の気の緩みから敗戦を喫し、窮地に陥った劉邦

 劉邦の最初の攻撃目標となったのは、関中でした。

 劉邦は、反乱軍討伐のため斉に出陣した項羽の留守をつき、西楚に攻め入ると、項羽の居城の(ほう)(じょう)を奪取しました。ただ、ことがあまりうまく運びすぎたために、劉邦は心に油断を生じました。麾下(きか)の将兵が城内の財宝、美女をわがもののとし、毎日のように宴会を開いて大騒ぎするのを黙認しました。

 こうして軍規が弛緩したところへ、斉の攻撃を部下に任せた項羽が急襲し、劉邦の軍は見るも無残な大敗を喫し、劉邦は数十騎の兵に守られ、辛うじて戦場を離脱しました。しかし、この敗戦のツケは高くつき、劉邦は以降しばらく積極的な作戦行動をつつしまなくてはなりませんでした。

 劉邦が逼塞(ひっそく)している間、項羽の側背をついて巧妙な戦いぶりを展開し、劉邦の再起を助けたのは(かん)(しん)でした。

 韓信の戦さ巧者ぶりは劉邦も高く評価するところで、百万の軍をたばねて戦えば必ず勝つ韓信の才略には自分も及ばない、とのちに述懐しています。

 韓信もまた、劉邦とよく似た貧しい庶民の出身で、若いころは無頼の徒と交わって定職を持っていませんでした。

 あるとき、ならず者に脅かされると、相手にならないほうがいいと判断し、言われるがままに、腹ばいになってその股の下をくぐったとされています。これが、後世、負けるが勝ちという意味で広く用いられる「韓信の股くぐり」です。

カルチャースクール「シルクロードのロマンと仏陀の道」を受講して(21年8月5日・項羽と劉邦、楚と漢の戦い)

(上の画像の説明・韓信の画像です。カルチャースクールの今回の資料、1頁の画像をスキャンしました。)

◎劉邦に才能を見込まれた韓信、井ケイ(せいけい)(こう)の戦いで発揮したその手腕

 はじめ、韓信の能力を認め、彼を登用したのは項羽陣営でした。しかし、項羽は自らを(たの)むところが強かった人物だけに、韓信の才は利用したものの、韓信の献策は一切採りあげようとしませんでした。そこで、項羽に失望した韓信は劉邦のもとに身を託したのでした。

 劉邦の陪臣は、この韓信を「国士(こくし)無双(むそう)(国に二人といない逸材)」だと絶賛し、劉邦はこれを受けいれて大将に起用したのです。

 劉邦の賭けは成功しました。以降、韓信は紀元前204年、わずか1万の軍勢を率い河をうしろに「背水の陣」をしいて、趙の20万の大軍を井ケイ(せいけい)(こう)の戦いで撃破したのをはじめ、向かうところ敵なしの大活躍をつづけ、劉邦の天下統一の立役者になったのです。

 この韓信の故事がもとになり、以降、決死の覚悟で事にあたることを、「背水の陣」というようになります。

 韓信らの活躍によって、劉邦の支配領域はしだいに拡大し、紀元前202年、ついに項羽は追いつめられ、垓下(がいか)の砦に籠城する羽目になります。

 次回のスクールは、この垓下の戦いをテーマにした、項羽・虞美人との別れと四面楚歌(しめんそか)です。







Last updated  2009.08.17 06:07:17
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2009.07.19
カテゴリ:映画・テレビ
  映画・ロードショー「愛を読むひと」を観て その2

 7月18日、映画・「愛を読むひと」を観てを書き込みましたが、今回はその2です。

(上の画像の説明・マイケルとハンナの朗読のシーンです。映画「愛を読むひと」の公式サイトの画像をスキャンしました。)

(●映画「愛を読むひと」の公式サイトは、こちらから。)

◎ハンナの決意

 テープを送り続けるマイケル。彼の想いを受け取り、彼女もある決意を実行したのです。

 彼女は、字を読むことも書くことも出来ませんでした。そして、それをあれほどまでに隠し続けたのでした。しかし、彼女の決意は、その字を学ぶことでした。

 映画では、このシーンはほんのわずかでしたが、原作にも刑務所を訪れたマイケルに、女性所長がこれについて語るシーンがあります。

 「彼女はあなたと一緒に字を学んだんですよ。あなたがカセットに吹き込んで下さった本を図書室から借りてきて、一語一語、一文一文、自分の聞いたところをたどっていったんです。.........」

 このようにして、マイケルが初めてテープを送ってから、4年目にハンナは文字が書けるようになったのです。マイケルは彼女の手紙を読み、「彼女は書ける、書けるようになったんだ」歓喜に満たされます。

映画・ロードショー「愛を読むひと」を観て その2

(上の画像の説明・マイケルがハンナの手紙を読むシーンです。映画「愛を読むひと」の公式サイトの画像をスキャンしました。)

 しかし、彼女を誇らしく思うと同時に、その努力が遅すぎたことや、彼女の人生が失われてしまったことを思って悲しくもあるのでした。

 私は思います。確かに遅かったかも知れません。しかし、遅くてもやらないよりは、ずっと立派です。ハンナの勇気ある行動に胸を打たれました。

 最初の挨拶のあと、次の手紙が一定の間隔で届くようになりました。マイケルからはハンナには何も書きませんでした。しかし、朗読テープはどんどん送り続けたのでした。彼が1年間アメリカに滞在したときも、そこからテープを送ったのでした。

 字を読めるようになったハンナにはカセットはもう必要ないのではないか、と頭を悩ませることはなかったし、彼女が自分で読むことは構わないし、朗読こそがマイケルの流儀だったのです。こうすることが、彼女に対して話しかけ、ともに話をする方法だったのです。

 挨拶とカセットを交換するのがマイケルにとって通常の、親しみ深い状態でした。これはマイケルにも、気楽でエゴイスティックな関係だと分かっていたのですが、ハンナがそうした緩やかな形で関わっている限り近くて遠い存在で、その状態をずっと続けていいとマイケルは思っていたのでした。

 しかし、マイケルは何故一度もハンナに手紙を書かなかったし、刑務所を訪れなかったのでしょうか。原作を読んでも、映画を見ても、私はまだよく理解出来ません。きっと、それほどまで、ハンナが犯した罪への怒り、彼女を助けられなかった悔恨、ハンナが、マイケルの心と体に残していった傷跡は深かったのでしょう。

映画・ロードショー「愛を読むひと」を観て その2

(上の画像の説明・マイケルとハンナの夏の自転車旅行で、ハンナが自転車に乗っているシーンです。映画「愛を読むひと」の公式サイトの画像をスキャンしました。)

◎ハンナの死

 ハンナは服役後18年目に、恩赦が認められました。その知らせが、ハンナと唯一人、コンタクトをとっていたマイケルに届きます。マイケルは、出所後の安らかな生活の準備をして面会に行きます。

 「本はたくさん読むの?」「まあまあね。朗読してもらう方がいいわ」

 ハンナはマイケルを見つめて言います。「それももう終わりになっちゃうのね」「どうして終りにする必要がある」

 そして、マイケルの結婚のことなどを話しした後、「来週迎えにくるよ、いいね?」「ええ」「静かに来こようか、それとも少し賑やかに、愉快にしょうか?」「静かな方がいいわ」「分かった。静かに。音楽もシャンペンもなしで迎えにくるよ」

 二人は立ち上がり、お互いを見つめあいました。「元気でね、坊や」「君も」

 そうやって二人は、別れの挨拶をしたのでした。しかし、出所日の朝ハンナは死んでしまいます。夜が明けるころに首を吊ったのでした。

 刑務所に着いたマイケルは、女所長のところへ案内されます。そして残された遺書を知らされます。それは、教会堂の火災を生き延びた娘さんにお金を届けてほしいとの、マイケルへの依頼文でした。

 ハンナが自殺したこと、それはマイケルの意識がずっとハンナから離れなかったように、獄中のハンナを生かしていたのは、実は彼の「朗読」そのものだったのです。それが終ってしまうことを知ったとき、もはや彼女は生きる意味がなくなってしまったと思ったに違いありません。

◎罪は誰のものか

 忘れ難い場面がありました。二人の夏の自転車旅行の時、小さな村の教会に入ったハンナはそこで子供たちが歌う聖歌を聴いて涙を流しました。裁判の過程で、教会は彼女にとって罪を犯した重要な場所であったことが分ってきます。

 看守をしていたとき、西へ向かって囚人たちを移動させていました。そして、何百人もの女性からなる囚人をある村の教会堂の中に閉じ込めていたとき、その夜の空襲で教会堂が火災になり、教会堂に閉じ込められた女性たちは焼け死んでしまったのです。被告人たちは、教会堂の扉を開けてやることが出来たはずだのに、それをしなかった。というのが起訴理由だったのです。

 だからこそ教会で涙を流し、彼女は平和な時代になっても、自分が犯した罪を忘れなかったのです。そして、その秘密は自分を慕うマイケルにも言えなかったのです。

 もう一つの場面です。教会堂の死を唯一人生き延びた女性が、ニューヨークまで訪ねてきたマイケルに、ハンナのお金を受け取ってそれをナチ被害者のために使えば、彼女を許したことになるから受け取れないと拒否するシーンです。ユダヤ人がナチに抱く「あなたたちのしたことは決して許さない」という姿勢がはっきりと出ていました。服役中に学んで成長したハンナは、精一杯罪の償いをしようとしたのですが許されなかったのです。

 しかし、救われる場面がありました。彼女は、ハンナのお金を、ハンナの名前でユダヤ人識字連盟に振り込むことを許してくれたのでした。そして、お金の入っていたお茶の缶を、私は子供のころ、こんな宝物を入れる缶を持っていました。その思い出につながるものとして、「私は、この缶だけいただいておきます」と言ってくれたのです。

 ハンナの精一杯の罪の償いは、許されなくても、認めてもらえたことに救われた気持ちになりました。

 ナチの負の遺産を、どう伝えるのか、戦争犯罪と、どう向き合えばいいのか、ハンナは戦犯として裁かれましたが、ユダヤ人虐待の実態を知りつつ何もしなかった一般人も多かったと思います。「あなたなら、どうしましたか?」裁判の中でハンナがつぶやくこの問いを、映画は改めて、私たちに問いかけているのです。

 映画のエンディングは、原作とは違った終り方でした。映画ではマイケルが自分の娘と共にハンナの墓を訪れ、ハンナの物語をする場面で終ります。ハンナの物語はのちの世代に語り継がれるのです。自国の歴史をどのようにのちの世代につなげていくのか。この映画のポイントの一つは、恐らくこのエンディングにあると思いました。

 ハンナ役を演じた、ケイト・ウィンスレットは記録的大ヒット作「タイタニック」のヒロインであることは有名ですが、あれから10年、戦争という極限状態において人間性とは、人間の尊厳とは何かを問いかけるこの映画において、全編を通じて毅然たる美しさを秘めた見事な演技を見せてくれました。本年度アカデミー賞主演女優賞の受賞納得です。

 尚、原作の「朗読者」は、日本の文庫本のステータスシンボルと言っても過言でない、"新潮文庫の100冊"にラインアップされています。258頁の小編ですが、小説の持つ素晴らしい力を実感できる感動作です。定価540円。未読の方は、是非お勧めです。

映画・ロードショー「愛を読むひと」を観て その2

(上の画像の説明・新潮社、本作の原作「朗読者」(ベルンハルト・シュリンク、松永美穂 訳)の表紙カバーをスキャンしました。)

映画・ロードショー「愛を読むひと」を観て その2

(上の画像の説明・フリー百科事典「ウィキペディア」の「愛を読むひと」のハンナ役を演じたケイト・ウィンスレットの画像をコピーしました。)







Last updated  2009.07.19 15:43:09
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2009.07.18
カテゴリ:映画・テレビ
  映画・ロードショー「愛を読むひと」を観て その1

 7月15日、TOHOシネマズ梅田で「愛を読むひと」を観ました。

 この映画は、世界的ベストセラー小説で、世界が涙した名作・「朗読者」待望の映画化であり、この映画の主人公・ハンナを演じたケイト・ウィンスレットが、本作で第81回本年度アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞した話題の映画です。6月19日(金)、<朗読の日>にロードショーでしたが、なかなか観る機会がなく、終映間近ということで、急ぎ鑑賞となりました。

 「愛を読むひと」は原作にほぼ忠実に映像化され、その行間にあるものを見事に映像として表現していました。観た後も、深く心に残る映画でした。私達は戦争犯罪という忌まわしい歴史にいかに向き合うのか考えさせられる映画でした。本当の映画らしい良作でした。

(上の画像の説明・映画「愛を読むひと」のチラシをスキャンしました。)

(映画「愛を読むひと」の公式サイトは、こちらから。)

◎ストーリー

 物語の舞台は1958年、ドイツ。15歳のマイケル(デヴィド・クロス)は21歳年上のハンナ(ケイト・ウィンスレット)との恋に落ちます。やがてハンナは彼に本の朗読を求めるようになり、それが二人の愛し合う前の儀式となりました。二人の夏の日の4日間の自転車旅行の思い出が物語の伏線のように使われ、このあとハンナは忽然と姿を消してしまいます。

映画・ロードショー「愛を読むひと」を観て その1

(上の画像の説明・マイケルとハンナの夏の自転車旅行の光景です。映画「愛を読むひと」の公式サイトの画像をスキャンしました。)

 8年後、法学専攻の大学生になったマイケルは、法廷でハンナと衝撃の再開を果たすのでした。彼女は被告の一人として戦時中の罪を裁かれ、ある秘密を守るため不利な証言を認めて無期懲役の判決を受けます。

 それから時は流れ、結婚と離婚を経験したマイケル(レイフ・ファインズ)は再び彼女の朗読者となり、刑務所に朗読を吹き込んだテープを送り続けます。

 彼の想いを受け取り続けるハンナ。そして彼女もまた、ある決意を実行しょうとしていたのです。

◎衝撃の再会~ハンナの秘密

 1966年、ナチの犯罪者を裁く裁判で被告席にいるハンナと、その傍聴席から彼女を発見する法科の学生マイケル、二人は運命の再開を果たします。

 この裁判の進行によってはじめて知る真実にマイケルは苦しみます。ハンナはユダヤ人強制収容所の看守としてナチに関わっていたのでした。その罪で裁かれる彼女は、自分のしたことを認め、それどころか他人の罪まで押しつけられ、被告となった5人の女性たちで一番罪の重い、無期懲役の判決を受けたのでした。

 この時になってマイケルはハンナの秘密に気がついたのです。沢山の本を読ませたことの意味、レストランで料理の選択はあなたに任せる、と言った真の意味、教会のベンチに腰を下ろして涙を拭っていた出来事。あの夏の日、彼女はただ幸せに酔っていたわけではなかったのです。

 ハンナは、読むことも書くことも出来ないのでした。

 だから市電の会社での出世のチャンスも棒に振ったのです。車掌でいるあいだには隠せたかもしれない弱点は、事務職になれば明るみに出てしまうでしょう。同じ理由で、彼女はジーメンスでの昇進をも断り、看守になったのでした。そして、専門家と対峙させられることを避けるために、報告書を書いたと言ってしまったのです。

 裁判の進行につれて、マイケルには真実を語ることで彼女を救おうという思いが沸き上がります。彼が真実を述べれば彼女の刑は軽くなるかも知れない。しかし、そうなれば隠し続けることで彼女を支えてきたものの総てが失われるかも知れない。真実をとるか。彼女の誇りを尊重するか。

 マイケルは彼女に面会を申し込みますが、直前で勇気をなくしてしまいます。結局マイケルは、無期懲役の判決を言い渡されるハンナを、涙で曇った瞳で見つめることしか出来なかったのでした。

 教育を受けず、文字も読めないまま成人して、生きていくために与えられた仕事をして、いま、裁判で自分のしたことが悪だと指摘されているハンナ。教育を受けられなかったことの罪を、受けられなかった本人が背負わなければならないのか?そして、ナチの<加害者>として罪深いのはハンナ一人なのか?ハンナが裁判長に問う「あなたならどうしましたか?」という言葉の重みが胸に染み込みました。

◎最後の朗読者~マイケル・ある愛のかたち

 その後、弁護士になったマイケルは、結婚と離婚を経験し、まだ幼い娘とも別れ、再び独りで生きていました。

 ハンナが犯した罪への怒り、彼女を助けられなかった悔恨、消えない愛の記憶......様々な想いに引き裂かれていました。彼女の服役後8年、初めて彼女と会ってから、20年近くの歳月が過ぎようとしていました。マイケルは、ハンナが心と体に残していった傷跡に向き合うために、そしてハンナ自身の無数の傷を癒すため、ある決意をしました。

映画・ロードショー「愛を読むひと」を観て その1

(上の画像の説明・マイケルの朗読の光景です。映画「愛を読むひと」の公式サイトの画像をスキャンしました。)

 マイケルは、思い出の「オデュッセイア」「ドクトル・ジバゴ」「犬を連れた奥さん」......テープレコーダーのマイクに向かって、初めは淡々と、やがて生き生きと、何冊も何冊も朗読を吹き込み、ハンナが服役する刑務所にテープを送り続けます。ハンナの最後の朗読者になる。それがマイケルのたどり着いた答えでした。

 以下、次のブログでは、テープを送り続けるマイケルに対し、ハンナも彼の想いを受け取り、服役している刑務所である決意を実行しょうとしていました。そのこととは、そしてハンナの最期などについて書き込みたいと思っています。

映画・ロードショー「愛を読むひと」を観て その1

(上の画像の説明・新潮社、本作の原作「朗読者」(ベルンハルト・シュリンク、松永美穂 訳)の表紙カバーをスキャンしました。)







Last updated  2009.07.18 21:54:19
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2009.07.17
カテゴリ:シルクロード

カルチャースクール「シルクロードのロマンと仏陀の道」を受講して(21年7月15日・項羽と劉邦、2人の命運を分けた鴻門(こうもん)の会)

 7月15日、A新聞社主催のカルチャースクールの今期講座(21年7月~9月期)の第2回を受講しました。今回のテーマは、「項羽(こうう)劉邦(りゅうほう)、2人の命運を分けた鴻門(こうもん)の会」でした。

(上の画像の説明・項羽(左)と劉邦の画像です。小学館ウイークリーブック、中国悠遊紀行12号、2004.12.16発行・西安、30頁の画像をスキャンしました。)

◎劉邦、首都咸陽に入る

 紀元前206年、ついに劉邦軍は諸侯に先んじて霸上(はじょう)(西安の南、()(すい)のほとり)に至りました。もはやさえぎる難関はありません。秦の三世(二世()(がい)の甥)子嬰(しえい)は死者の支度をととのえ、自殺の覚悟を示して降伏しました。

 

 死刑に処すべきだと主張する将軍もいましたが、劉邦はそれに対して、降伏している人を殺すのは不肖であると言って秦王を役人に預けました。

 劉邦はそのまま軍を率いて首都咸陽に入りました。宮殿には金銀財宝があり、美女が集められていました。しかし、ここに留まらず宮殿の倉に封印し、霸上に戻りました。

◎"(ほう)三章(さんしょう)"をもって民衆を掌握

 咸陽を制圧した劉邦は、秦王朝の細かく厳格な法律を撤廃し、法律は3項目だけという措置をとりました。人を殺した者は死刑、人を傷つけた者と盗みをした者は処罰する、という簡単明確なものです。これを指して「(ほう)三章(さんしょう)」と言います。

 民衆は大変喜び、われさきにと牛・羊・酒などを持参して兵士に献じようとしました。

 劉邦はそれも辞退し、「倉庫に食糧は十分にある。迷惑はかけたくない」と受け取りません。民衆はますます喜び、沛公(はいこう)(劉邦)が秦王となるようにとひたすら祈るのでした。

カルチャースクール「シルクロードのロマンと仏陀の道」を受講して(21年7月15日・項羽と劉邦、2人の命運を分けた鴻門(こうもん)の会)

(上の画像の説明。鴻門の会の地と図です。「シルクロードのロマンと仏陀の道」21年7月15日の講座資料No.7をスキャンしました。)

 

◎鴻門の会

 項羽の軍がようやく(かん)谷関(こくかん)にたどりついたとき、劉邦はすでに関中の地を押さえてしまっていました。しかも、劉邦は関中で王となって自立するつもりでいると聞かされた項羽は憤り激しく、それなら明日は一気に劉邦を攻め滅ぼしてやろうと、鴻門に陣をとりました。

 関中に入った劉邦軍は10万、そして項羽軍は40万でした。項羽を怒らせると、劉邦軍はたちまち踏みつぶされてしまいます。そこで、劉邦は項羽が陣した鴻門へ行って釈明しました。

 この場面が、有名な「鴻門の会」です。項羽の軍師の范増(はんぞう)は、「劉邦は殺さねばならぬ」と進言しました。項羽は劉邦の態度が恭順なので、殺すこともないだろうと思っていました。無頼好色の劉邦が、後宮の美女に一人も手をつけていないのですから、これ以上の恭順はないと思ったのです。范増はそれは劉邦が大志を抱いたからで、なおのこと殺さねばならないと考えました。劉邦も、反乱を起こした頃に、素晴らしい軍師を得ていました。韓の宰相の家系に生まれた(ちょう)(りょう)です。怪力の士を雇って、始皇帝の暗殺を図った男です。この張良は、項羽の叔父の(こう)(はく)の命を助けたことがありました。項羽陣営に劉邦を殺せという動きのあることは、この項伯が張良に急報したのでした。

 名門出身の項羽は、農民出身の劉邦を見くびっていたのでした。范増がいくら勧めても、殺そうとしません。項羽には、こんな男がおれの競争相手になるかと自負があったのです。

 一方范増には人を見る目があったのでしょう。項羽がやらないので、項羽の従兄の(こう)(そう)に、剣舞をしながら、剣で劉邦を刺せと命じました。剣舞がはじまると、それと察した項伯も、剣を抜いてともに舞いながら劉邦をかばったのです。続いてハンカイが登場して、劉邦の功績を述べ立てます。

 そうこうしているうちに、劉邦はトイレに行き、後は弁の立つ張良にまかせて、間道伝いに霸上の陣地に逃げ戻りました。

 このあと、項羽は関中に入ると降伏した秦の子嬰を殺し、封印された宝庫の財貨を略奪し、宮殿に火を放ちました。咸陽は3カ月の間燃え続けたと言われています。

 范増はライバル劉邦を排除する千載一遇の機会を、おめおめ逃がした項羽の優柔不断に失望し、「ああ、豎子(じゆし)ともに(はか)るに足らず。項王の天下を奪う者は必ず沛公ならん(小僧っ子とはとてもいっしょにやれない。項羽の天下を奪う者は劉邦に違いない)」と罵りました。

 「史記」のうち、この鴻門の会の一段は最も精彩に富むものとして古来より定評があります。

 この鴻門の会から4年後の、紀元前202年、劉邦は項羽を滅ぼし前漢王朝(前202~後8年)の初代皇帝・高祖となったのです。

 前漢王朝は、その後、王莽(おうもう)による新(後8~23年)の時代を経て、前漢の命脈を受けつぐ後漢王朝(25~220年)に引きつがれます。

 歴史を語るのに、もしはつきものですが、鴻門の会でもし劉邦が殺されていたなら、この400年にわたる漢王朝はなく、中国の歴史は大きく変わっていたかも知れません。

  次回の講座内容は、楚と漢との戦い、その戦略と外交です。また受講してブログを書きたいと思っています。

カルチャースクール「シルクロードのロマンと仏陀の道」を受講して(21年7月15日・項羽と劉邦、2人の命運を分けた鴻門(こうもん)の会)

(上の画像の説明。強い項羽と強くない劉邦です。「シルクロードのロマンと仏陀の道」21年7月15日の講座資料No.2をスキャンしました。)







Last updated  2009.07.17 08:56:29
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2009.07.09
カテゴリ:映画・テレビ
  映画・ロードショー「劔岳 点の記」を観て その2

 7月1日、梅田ブルク7で「劔岳点の記」を観ました。7月7日、この映画の鑑賞記をブルグに書き込みましたが、1回の記載量の関係で今回はその2です。

(上の画像の説明・映画「劔岳 点の記」公式サイト、剱岳に登るの画像をコピーしました。)

(○映画「劔岳 点の記」の公式サイトは、こちらから。)

◎圧倒的な映像美

 この映画の中には、劔・立山連峰の四季折々の雄大で、ひれ伏すほど美しく、しかし厳しい大自然の姿があり、その素晴らしい映像に圧倒されました。

 他、雄大な山々に向かう豆粒のような測量隊の映像シーンがありました。このシーンには、厳しく雄大な自然や、悠久の歴史の中ではちっぽけな存在ですが、ひたむきに生きる人間の高貴な姿が描かれていました。

 立山連峰から見える、富士山のシルエットがくっきりと撮影されていました。見事な撮影でした。

 3年前に訪れた、室堂、みくりが池、一ノ越、雄山神社の映像もありました。懐かしさで画面を食い入るように観ました。

 CGを使わず、100年前に実際に測量隊が登り、三角点を設置した山々を忠実に登っての撮影という徹底したリアリズムを追及しただけの、さすがに素晴らしい映像でした。

映画・ロードショー「劔岳 点の記」を観て その2

(上の画像の説明・映画「劔岳 点の記」公式サイト、剱岳に登る・ダウンロードの画像をコピーしました。)

◎山の自然にはクラシックが似合う

 池辺晋一郎を音楽監督に迎え、木村監督自ら選曲したクラシックの名曲の数々が、自然と人間の織りなす壮大なドラマを盛り上げていました。

 音楽は、既成の演奏の二次使用ではなく、池辺晋一郎がタクトを振り、仙台フィルハーモニー管弦楽団の演奏による生演奏でした。しかも演奏会場ではフイルムを流しながらの演奏だったそうです。

 それだけにオーケストラの音の厚みも増しており、この映画の魅力となっています。

 全編に流れたクラシックの名曲、その中には私の知っているヴィヴァルディの「四季」、バッハの「G線上のマリア」「幻想曲とフーガト短調」などがあり、それぞれが映像に合った絶好のタイミングで使われていました。

 ヴィヴァルディの「四季」は、座席で上映開始を待つ間にも流れており、上映前からこの映画への期待感を盛り上げてくれました。劇場の粋な計らいに感謝です。

 それにしても、雄大でしかし厳しい山の自然には、クラシックは良く似合います。

映画・ロードショー「劔岳 点の記」を観て その2

(上の画像の説明・国土地理院、地図閲覧サービスの劔岳をスキャンしました。劔岳三角点、長次郎谷です。測量隊は、行者の言葉にヒントを得てこの長次郎谷の雪渓を登り、登頂に成功しました。)

◎三角点のこと

 点の記とは、三角点設定の記録のことを言いますが、画面の中に出ていたあの分厚い本の数々のことです。

 一等三角点の記、二等三角点の記、三等三角点の記の三種類があり、それぞれの三角点設定に関わる必要事項が記されて、明治21年以降の記録は、永久保存資料として国土地理院に保管されています。

 山登りのとき、山頂や見晴らしのよいピークでよく見かける三角点ですが、三角点については、一等18cm角、二等と三等は15cm角、四等は12cm角の岩石の標石で、原則「○等三角点」と書かれた文字が南を向くように設置されているといった程度の知識しかなかったのですが、この映画を観て、三角点に対する関心度が大きく変わりました。

ブログ劔岳4.JPG

(上の画像の説明・映画「劔岳 点の記」公式サイト、剱岳に登るの画像をコピーしました。測量隊の測量の光景です。)

 この映画の中で行われていた測量について、興味を持ちましたので調べてみました。幸い、映画「劔岳 点の記」公式サイト、剱岳に登るの中にわかりやすい説明がありましたので、紹介します。以下原文のままです。

---測量とは?

 測量の手順

 この映画で扱う測量は三角測量という。それは、各三角点の位置(緯度、経度、標高)を求めていく測量のこと。

 数学で、<三角形の一辺の距離とその両端の角度がわかれば、残りの距離は計算できる:正弦定理>という公式を利用して地図上の点の平面位置を決定する測量である。

 精度を上げるためには、三角点を結んでできる三角点を小さくしていく。日本中を一辺が40~50Km程度の大きな三角形に分けて測量するのを一等三角測量といい、8km程度に分けるのを二等三角測量、さらに細かく4Km程度にするのが三等三角測量である。

 「劔岳 点の記」は、三等三角点の物語である。

 以上です。

 この正弦定理の計算は、電卓のトップメーカー・カシオ計算機がウェブ上で公開している高精度計算サイトを使うと簡単にできます。

 このサイトを使い、不等辺三角形の2角とその間の辺の長さから各辺の長さ、面積、高さを計算します。

映画・ロードショー「劔岳 点の記」を観て その2

(上の画像の説明・上記カシオの公開サイト、計算ライブラリー実行>数学公式集>三角形(24)の画像をスキャンしました。)

 例として、角B52度、角C70度、辺a1,000としたとき、辺b929.2052623、辺c1,108.065244、面積S436,583.6641、高さH873.1673282の計算結果を得ることができました。

 このサイトは、統計関数など専門的な計算式から、日常生活で役立つお金や暦、健康に関する計算まで、幅広い用途に対応しており、私も大変重宝しています。

(○上記、カシオ高精度計算サイトは、こちらから。)

 この物語は、ただ地図を作るためだけに登頂困難な劔岳に挑んだ名も無き男たちの物語です。幾多の困難を乗り越えて、ようやく頂上が目の前になったときの、案内人・宇治と測量手・柴崎のやりとりなど、感動的なシーンは多くありますが、地味なテーマだけに、ストーリー性を楽しみに観る人には少し?であるかも知れません。

 それでも、観終わったあとに迫りくる、あの感動はいったい何であったのでしょうか。

 本物の映画作りを目指し、妥協せずに過酷な自然に生命の危険をさらしながら撮影に参加したすべての人々の、執念のすさまじさが感じられたのです。かくして、あの美しき映像は生まれ、私はその映像美に酔いしれたのです。

映画・ロードショー「劔岳 点の記」を観て その2

(上の画像の説明・映画「劔岳 点の記」公式サイト、剱岳に登る・ダウンロードの画像をコピーしました。スタッフたちの、撮影の光景です。)

 7月29日から、2泊3日の予定で北アルプス・(つばくろ)(だけ)登山に行きます。(えん)山荘(ざんそう)のパンンフレット・周囲の山々には、雲海の先に劔岳の名前があります。天候にも恵まれて、劔岳が望めることを期待です。







Last updated  2009.07.09 07:41:04
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2009.07.07
カテゴリ:映画・テレビ
  映画・ロードショー「劔岳 点の記」を観て

 7月1日、この日は中之島でカルチャースクール受講の日でしたが、午前中に映画鑑賞ということで、梅田ブルク7で「劔岳点の記」を観ました。第1回の上映時間は、午前9時50分からでしたが、この日は毎月1日に実施されている映画サービスデー(誰でも、一律1000円)に重なり、人気映画でもあり混雑が予想されましたので、早く劇場に到着しました。お陰でほぼ希望通りの座席で映画を観ることができました。

(上の画像の説明・映画「劔岳 点の記」公式サイト、剱岳に登るのダウンロードにあった画像をコピーしました。)

(○映画「劔岳 点の記」の公式サイトは、こちらから。)

◎物語

 誰かが行かねば、道はできない。この映画は、日本地図完成のために命を賭けた男たちの記録です。

 日露戦争後の明治39年(1908)、陸軍は国防のため日本地図の完成を急いでいました。そして最後に残された山は、弘法大師がワラジ3000足を使っても登れなかったという「劔岳」でした。陸軍参謀本部陸地測量部の測量手・柴崎芳太郎は「陸軍の威信にかけて、剱岳の初登頂と測量を果たせ」という命令を受けます。

 そして、その最後の山に、創設間もない日本山岳会も登頂するということで、「山岳会に負けてはならぬ」という厳命も受けるのです。

映画・ロードショー「劔岳 点の記」を観て

(上の画像の説明・映画「劔岳 点の記」公式サイトの画像をコピーしました。画像右が、陸軍参謀本部陸地測量部測量手・柴崎芳太郎役を演じる浅野忠信です。左が、測量隊案内人・宇治長次郎役を演じる香川照之です。)

 前任の測量手・古田盛作を訪れた柴崎は、あらためて劔岳の恐ろしさを知りますが、アドバイスと共に案内人として宇治長次郎を紹介されます。新妻・葉津よの励ましを受けて富山に向かった柴崎は、宇治と合流、調査のために山に入りますが、謎めいた行者の言葉「雪を背負って登り、雪を背負って降りよ」以外、登頂への手懸りすら掴めずに帰京するのでした。

 そして翌明治40年(1907)、柴崎・宇治に、測夫の生田信らを加えた総勢7人で、雄山・別山・劔御前など周辺の山々の頂に三角点を設置し、いよいよ劔岳の初登頂に挑むのでした。

映画・ロードショー「劔岳 点の記」を観て

(上の画像の説明・映画「劔岳 点の記」公式サイト、剱岳に登るのダウンロードにあった画像をコピーしました。)

 

 しかし、劔岳山頂までの道のりは、想像を絶していました。いくどもの挫折を乗り越え、最後行者の言葉にヒントを見出し、東側の長次郎谷から決死の覚悟で劔岳の初登頂に成功するのです。

 そこで彼らの見たもの、そこにはすでに1000年前の奈良時代に、修験者が納めた(しゃく)(じょう)の頭と剣があったのです。日本の宗教登山のすごい歴史を垣間見た遺物でした。(尚、この品は国の重要文化財に指定されているそうです。)

 このことから、陸軍の首脳部は初登頂ではないとして柴崎らに評価を与えませんでした。名誉や評価のためではない。ただ日本地図完成のために、相当の重さであろう三角点用の石柱と測量器具を担ぎ、今から100年前に粗末な装備でその険しさから「針の山」と言われ、立山連峰に屹立する劔岳に、不屈の闘志と仲間の絆を信じて挑んだ男たちがいたのです。柴崎、宇治らのこうした仕事に誇りをもって挑む姿は、今私たちの心に深い感動を与え、その偉業はいつまでも讃えられています。そして、名案内人・宇治長次郎の名は、今も劔岳に長次郎谷としてその名を残しています。

◎仲間たち

 この物語のキーワードの一つは「仲間たち」でした。

 頂上までの登頂路すら、見つけられない日々が続き、宇治の卓越した山に対する勘をも疑うなど、柴崎は焦り始めます。はやる生田は南壁を登ろうとしますが、足を滑らせ転落します。軽い怪我ですんだものの打ちひしがれる7人でした。自分たちは本当に劔岳を登り切ることができるのか、命を危険にさらしてまで劔岳を測量する意味はあるのか、という迷いが柴崎の胸中をよぎります。

 そんなとき、古田から柴崎に手紙が届きます。「人がどう評価しようとも、何をしたかでなく、何のためにそれをしたかが大事です。悔いなくやり遂げることが大切だと思います」

 これを見て、柴崎は、今一度、皆に仲間としての結束を訴えます。そして何度目かの挑戦ののち、柴崎と宇治は行者の言葉にヒントを見出し、無事に頂上に到着するのです。

映画・ロードショー「劔岳 点の記」を観て

(上の画像の説明・映画「劔岳 点の記」公式サイト、剱岳に登るにあった画像をコピーしました。)

 頂上寸前のシーンにも、仲間についてのこんなシーンがありました。ようやく、頂上が目の前になったとき、宇治は今まで案内人として先頭に立ち、皆を誘導してきた綱を柴崎に渡そうとします。劔岳頂上登頂の栄誉を、陸地測量部が先導しての登頂であったように、柴崎らに譲ろうとしたのです。柴崎は宇治に言います。「今まで、長次郎さん(宇治)の案内でここまで来ることができた。あとわずかになった頂上登頂も、私は最後まで長次郎さんの案内で登りたい」

 この、柴崎と宇治の最後のやりとりのシーンは感動的でした。

 一方、日本山岳会・小島烏水(うすい)らも劔岳に挑んでいましたが、測量隊同様、容易には進めない状況でした。最初はライバルとして競いあっていましたが、ただ山の尾根でひたすら三角点作りに邁進する柴崎たちを見て、小島は自分たちとは違う仕事に対する考え方を思い知るのです。

 「我々は登るのが目的だが、あなたがたは登ってからが仕事だ」

 そして、日本山岳会も、測量隊に遅れたものの、見事に劔岳登頂に成功します。

 お互いに、困難に続く困難を克服しての登頂でした。それは、山の仲間だけしか知りえない山頂までの厳しい道のりでした。お互いの健闘をたたえ山岳隊と測量隊は、手旗信号でエールを交換します。ライバルではありましたが、今はお互いを称賛しあう山を愛する仲間たちの光景でした。

 エンドクレジットが、肩書きなどが一切ない「仲間たち」という表現でした。この映画は、立山連峰での過酷なロケを乗り切ったキャスト、スタッフたちの言葉にならない絆が感じられました。木村監督は言っています。

 「キャストやスタッフたちに過酷なことを強いる部分はあったと思います。でもこの作品に参加してくれた人たちは、志を持った人たちの集まりです。その皆への感謝の気持ちをも込めて、エンドクレジットは序列や職種を分けることなく、<仲間たち>としたんです」

 この映画に参加した人たちみんなの映画への熱い思いが、感じられる映画でした。

 他、この映画に映しだされた立山連峰の美しく、しかし厳しい映像のこと、自然と人間の織りなす壮大なドラマを盛り上げた音楽のこと、そして三角点のことなどを、次のブログに書きたいと思っています。

映画・ロードショー「劔岳 点の記」を観て

(上の画像の説明・映画「劔岳 点の記」公式サイト、剱岳に登るのキャストにあった画像をコピーしました。)







Last updated  2009.07.07 07:16:14
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2009.07.02
カテゴリ:シルクロード
  カルチャースクール「シルクロードのロマンと仏陀の道」を受講して(21年7月1日・項羽と劉邦、歴史の舞台に登場)

 7月1日、A新聞社主催のカルチャースクールの今期講座(21年7月~9月期)の第1回を受講しました。今回のテーマは、「項羽(こうう)劉邦(りゅうほう)、歴史の舞台に登場」でした。

(上の画像の説明・劉邦、漢の高祖の画像です。講談社刊、世界の戦争4、「中国の戦争・項羽と劉邦と万里の長城」の204頁の画像をスキャンしました。)

(ちん)(しょう)()(こう)--秦帝国を瓦解させた「鴻鵠(こうこく)」の志

 

)

  中国では、とにかく歴代王朝の変わり目には必ずといってよいほど農民蜂起が起きています。というより農民蜂起が引き金になって権力の交代が行われるのが恒例となっています。

 秦の始皇帝が死んだ翌年、大規模な農民蜂起が発生しました。いわゆる「陳勝・呉広の乱」です。それは秦帝国瓦解の端緒となったのでした。

 陳勝は若い頃貧乏で、雇われ労働者として他人の田畑を耕していました。そんなある日、ふとこんなことをもらしました。「いつの日か金持ちになろうとも地位が高くなろうとも、昔の仲間のことは忘れないでいたいものだ」これを聞きつけた雇い主が笑いました。「人に雇われている身だというのに、なにを夢のようなことを言っているんだ」

 陳勝は大きな溜め息をついて言いました。それが「史記」に記された次の有名な言葉です。

 --(えん)(じゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや。「ツバメやスズメのような小鳥にどうして大鳥の気持ちがわかろうか」というわけです。

 これは、若き陳勝がいかに野望にあふれた自信家だったかを示す言葉にほかなりません。

 秦の二世皇帝の元年(前209)7月、千人近い一団の人々が北をめざして急いでいました。北方の国境警備のため徴用された農民たちでした。始皇帝は土木工事や国境警備のため、農民や囚人をしきりに徴用しましたが、その政策は二世皇帝にも引き継がれたのです。

 陳勝と呉広もその中に入っており、彼らは班長に任命されていました。大沢郷(安徽省宿県)というところにさしかかったとき、大雨のため道が水浸しとなり、先へ進めなくなりました。行程を計算してみると、指定された期日までに到着することはとうてい不可能でした。期日に遅れた者は斬罪に処せられる決まりでした。陳勝と呉広は相談しました。

カルチャースクール「シルクロードのロマンと仏陀の道」を受講して(21年7月1日・項羽と劉邦、歴史の舞台に登場)

(上の画像の説明・陳勝と呉広の決起の画像です。講談社刊、世界の戦争4、「中国の戦争・項羽と劉邦と万里の長城」の141頁の画像をスキャンしました。)

 「逃げたところで捕まったら殺される。反逆しても殺される。どうせ殺されるなら、ひと騒ぎやって殺されようではないか」二人の意見は一致し、部隊の引率責任者を殺害したあと、全員を集め、「王候も将軍・大臣も生まれついての区別なぞあるものか」と煽りたてて、ついに秦帝国に叛旗をひるがえしたのでした。これは、たちまちのうちに勢力を拡大しますが、秦軍の反撃と内部の離反のため崩壊して二人は死に、中国史上、最初の大規模な農民蜂起は挫折しました。

 しかし、これを機に、各地で次々に反乱がおこり、たちまち群雄割拠の騒乱状態になりました。この激しいせめぎ合いを経て、やがて項羽(前232~前202)と劉邦(前256あるいは前247~前195)の二人の英雄が頭角を現すのです。

カルチャースクール「シルクロードのロマンと仏陀の道」を受講して(21年7月1日・項羽と劉邦、歴史の舞台に登場)

(上の画像の説明。項羽の画像です。集英社刊、人物 中国の歴史4、「長城とシルクロードと」の98頁の画像をスキャンしました。)

◎項羽と劉邦

 項羽と劉邦は何から何まで対称的でした。項羽は、もともと楚の国の名門に生まれ、項羽の祖父は戦国の時代、侵略をくり返す秦軍と戦い、ついに力尽きて敗死した(こう)(えん)将軍です。身長180cm以上の緯丈夫で野心家でした。劉邦は沛の貧しい農家に生まれ、若い頃は遊侠の徒で諸国を転々とし、その後亭長(下級官吏)となりました。

 彼ら二人の差異を示すエビソードがあります。二人ともまだ無名の若者だった頃、それぞれ別の場所で秦の始皇帝の盛大な巡行を見物したことがありました。

 このとき、項羽は「彼、取って代わるべきなり」と叫び、隣にいた叔父の項梁があわてて項羽の口を覆いました。劉邦のほうは、「嗚呼(ああ)大丈夫(だいじょうぶ)まさに()くの如くなるべきなり(ああ、男たる者はこういうふうになるべきだ)」と感嘆したとされます。

 これは、力まかせで強引な項羽と、どこかのほほんと余裕のある劉邦の差を歴然と示すエビソードだと言えます。

 しかし、旧楚国の一族、わけても秦との戦いで横死した項燕将軍の血をうけついだ項羽としては、こう叫ばねばならぬだけの久しい恨みが、いつも心にうずまいていたと思われます。

 項羽と劉邦の軍は合流し、秦軍と各地で激戦を展開します。しかし、両者の共同戦線は長くはもちませんでした。紀元前206年、劉邦が一足さきに秦の首都(かん)(よう)を制圧したのを境に、両者の関係は悪化の一途をたどるのです。

 次回の講座内容は、二人の命運を分けた鴻門(こうもん)の会です。また受講してブログを書きたいと思っています。

カルチャースクール「シルクロードのロマンと仏陀の道」を受講して(21年7月1日・項羽と劉邦、歴史の舞台に登場)

(上の画像の説明。カルチャースクール「シルクロードのロマンと仏陀の道」21年7月~9月期の講座日程・内容をコピーしました。)







Last updated  2009.07.02 18:39:25
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2009.07.01
カテゴリ:旅行
 

近江、(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その4

 6月28日、29日、30日のブログ「近江、兵たちの夢跡・城をめぐる」その1、その2、およびその3の続きです。

(上の画像の説明・6月24日、八幡堀を撮りました。)

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その4

(上の画像の説明・八幡山ロープウェー乗車券をコピーしました。乗車券には、近江八幡に城下町を開いた豊臣秀次の像がありました。)

 再び、ロープウェーで麓に下りると、八幡堀がしっかりと残っていました。

 近江八幡の町の発展に、八幡堀の役割は欠かすことはできません。堀は城を防御するためにあるのですが、豊臣秀次はこの八幡堀を運河として利用することを考え、琵琶湖を往来する船をすべて八幡の町へ寄港させました。

 また、八幡山城下はかっての安土と同じく、楽市楽座を取り入れたことから、商人の町として大いに活気を呈しました。

 多くの商人が八幡の町から全国へと旅立ち、近江商人として活躍した原動力となった八幡堀も、昭和30年ごろになると、人々の生活が変化する中で、次第に市民の関心も薄らいでいき、やがて八幡堀はドブ川のようになり、埋め立てられようとしました。

 しかし、「八幡堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」の合言葉により、市民が立ち上がり、清掃活動に取り組みました。その結果、次第にかっての姿を取り戻すようになり、今日でも各種団体による清掃活動が続けられています。

 八幡堀は、写真や絵画の愛好家などが数多く訪れ、時代劇のロケ地としてもしばしば使用されるなど、市民や観光のシンボルとして位置づけられているのです。

 私の訪れたときも、八幡堀はこうした歴史を伝えるかのように水をたたえ、堀端の白壁土蔵の影を水面に映し出していました。

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その4

(上の画像の説明・6月24日、白雲館を撮りました。)

 このあと、白雲館や新町通りを見学して次の目的地、五個荘(ごかしょう)に向かいました。

 白雲館は、明治10年(1877)八幡東学校として建てられた貴重な西洋風建造物です。平成6年(1994)解体修理され往時の姿に復元され、現在は観光案内所やギャラリーとして利用されています。八幡山を背景にした新町通りは、昔ながらの商家が大切に保存されており、近代化の波にのみ込まれることなく、静かに、穏やかに時が流れていました。

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その4

(上の画像の説明・6月24日、五個荘(ごかしょう)の昼食場所・楽ごろうえもん入口を撮りました。)

 五個荘(ごかしょう)には、午後0時30分頃到着しました。まず、昼食ということで、おばんざいの店・炭火料理「楽ごろうえもん」という店でランチを食べました。この店は、近江商人、小杉五郎衛門旧宅の蔵を改築した店でしたが、蔵の特徴をうまく残し、店に改築していました。料金1000円のランチは、この日は天丼と多くの総菜がセットされており、何か得をしたような気分になりました。

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その4

(上の画像の説明・五個荘近江商人屋敷入館券とマップをスキャンしました。)

 このあと、近江商人屋敷に向かいました。「近江商人屋敷」として町が手を入れて保存しているのが、外村(とのむら)本家とその分家、そして中江準五郎邸です。この3館共通入館券(500円)を買い、3館を回りました。

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その4

(上の画像の説明・6月24日、外村本家の庭にある近江商人の像を撮りました。)

 外村本家は京呉服の販売などで財をなした外村宇(とのむらう)兵衛(へえ)家で、立派な庭にはてんびん棒を担いだ近江商人の像がありました。

 外村分家は「(くさ)(いかだ)」や「花筏」など近江商人を描いた作品で知られる、作家外村(とのむら)(しげる)の生家で、蔵が外村繁文学館になっていました。また外村繁生家の玄関を入ると「川戸(かわと)」と云われる、屋敷内に用水路を引き込み、屋根をかけて洗い場と、防火用水にもなり、そして魚も飼える大きな水溜りがありました。

 中江準五郎邸は、昭和初期に朝鮮半島や中国で()中井(なかい)百貨店を築いた中江家4兄弟の末の準五郎の本宅です。蔵の中には五個荘が生んだ郷土玩具・小幡人形と全国の土人形が多数展示してありました。

 近江商人は、てんびん棒を担いだ一介の行商人から豪商へと成長しました。たくましい商魂を持ち、商才を縦横に発揮した近江商人の家訓・店訓には、永い商売の実践を通じて会得した信念が織り込まれています。

 中江準五郎邸に、「三方よし」と書かれた額が掲げてありました。近江商人の行商は、他国で商売をし、やがて開店するのが本務でした。このためにも、旅先の人々からも信頼を得ることが何より大切でした。

 そのための心得として説かれたのが、売り手よし、買い手よし、世間よしの「三方よし」です。

 近江商人は遠く他国へ旅をして商売をしましたが、取引は当事者だけでなく、世間の為にもなるものでなければならないことを常に考えて商売をしました。結果、その土地で排斥されずに受け入れられ、むしろ歓迎されて大成功を収めたのです。

 近江商人の家訓・店訓は、営利と道徳、企業活動と倫理を考える上で、今日もなお多くの示唆に富む味わい深い言葉なのです。

 近江商人発祥の地、てんびんの里五個荘は、白壁・舟板張りの続く、風情豊かな町でした。

 こうして、一泊二日の近江路の旅を終え、午後7時過ぎ無事池田へ戻ってきました。このあと、I君宅で旅の思い出を語りながら夕食を御馳走になりました。N奥様、今回もお世話になり有難うございました。

 そして、往復の走行距離350Km余りを運転してくれたI君お疲れ様でした。感謝です。

 







Last updated  2009.07.01 19:58:20
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2009.06.30
カテゴリ:旅行
 

近江、(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その3

 6月28日~29日のブログ「近江、兵たちの夢跡・城をめぐる」その1およびその2の続きです。

(上の画像の説明・6月24日、宿泊地の「休暇村近江八幡」前の弓ヶ浜で撮ったパノラマ写真です。写真右側は、堀切港から伊崎不動に至る岬、左側は弓ヶ浜の沖合2Kmに浮かぶ沖島です。雨上がりの曇り空で、もう一つ島影がはっきりしませんでした。)

 6月23日の夜は、「休暇村近江八幡」に泊まりました。日本の水泳場55選の一つ琵琶湖・弓ヶ浜に面し、緑豊かな敷地内にありました。当館のキャッチフレーズ---目の前は琵琶湖です---のまさにその通りでした。夕食後、弓ヶ浜の沖合に浮かぶ沖島を眺めながら、暮れなずむ湖畔を散策しましたが、なかなか風情のある贅沢な時間を過ごすことができました。

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その3

(上の画像の説明・6月24日、日牟禮(ひむれ)八幡宮(はちまんぐう)を撮りました。)

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その3

(上の画像の説明・6月24日、八幡山ロープウェーから眼下の近江八幡の町並みを撮りました。山麓から山頂へ約4分でした。)

八幡山(はちまんやま)城跡

 八幡山には、午前9時40分頃到着しました。まず、八幡山の南麓に建つ日牟禮(ひむれ)八幡宮(はちまんぐう)にお参りをして、ロープウェーに乗り、眼下に広がる町並みを楽しみながら八幡山へ登りました。なお、日牟禮八幡宮は千有余年の歴史を誇る近江八幡の総社で、近江八幡の人々の厚い信仰と加護により繁栄してきた神社です。

 天正13年(1585)、羽柴秀次は叔父・秀吉から近江国内に20万石の領地を与えられ、本拠としてここ八幡山に八幡山城を築きました。新たに城下町が建設されるのに際し、安土の商人が移住を命じられ、近江八幡の城下町は、安土の伝統を受け継ぐ城下町として誕生したのです。

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その3

(上の画像の説明・6月24日、ロープウェー乗り場出口にあった八幡山山頂案内図を撮りました。)

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その3

(上の画像の説明・6月24日、八幡山城跡内に残された石垣を撮りました。安土城とほぼ同時期に完成した遺構です。)

 標高271.9mの八幡山最部に本丸をもうけ、二の丸、西の丸、北の丸、出丸が配置された一大要塞であったと推測されます。

 秀次が、文禄4年(1595)「関白」の座を追われ切腹命じられると、八幡山城は廃城となり、城としての歴史は10年に過ぎないのです。

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その3

(上の画像の説明・6月24日、本丸跡に建つ村雲(むらくも)御所(ごしょ)(ずい)龍寺(りゅうじ)の山門を撮りました。)

 本丸跡には村雲(むらくも)御所(ごしょ)(ずい)龍寺(りゅうじ)が建っていました。文禄5年(1596)、

秀次の生母・とも(秀吉の姉・(にち)(しゅう)()公)が、秀次の菩提を弔うため、後陽成天皇から瑞龍寺の寺号を賜り京都の村雲の地に建てたことに始まり、昭和36年(1961)にこの八幡山へ主要建物が移築されたのです。日蓮宗唯一の門跡寺院です。山門の周辺は、桝形の虎口(こぐち)となっており、周囲には秀次時代の石垣が残っていました。

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その3

(上の画像の説明・6月24日、北の丸展望台から西(にし)()越しに望む安土城跡、観音寺城跡を撮りました。まだ曇り空のため、遠望はもう一つでした。)

 城内北の丸の展望台からは、西(にし)()越しに安土城跡や観音寺城跡が遠望され、安土城の立地条件も確かめることができました。

 八幡山城跡にはわずかに石垣が残っているのみでしたが、市街地から西の湖、琵琶湖まで見渡す眺望は素晴らしく、旧市街地が昔のままに碁盤目状になっているのが手にとるようにわかり、満足のできる城跡めぐりとなりました。

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その3

(上の画像の説明・講談社刊、平成13年10月16・23日発行、週刊再現日本史、第24号の16~17頁の画像をスキャンしました。)

 ◎豊臣秀次

 永禄13年(1568)、秀吉の姉・とも(日秀尼公)の子として生まれました。秀吉の養子になり一度は関白となりますが、淀殿の子(後の秀頼)が誕生したため、文禄4年(1595)秀吉の後継者を巡り自害させられました。年28歳でした。

 秀次事件にかかわる最近の研究では、昔ながらの"殺生関白"といった秀次暴君論・謀反説が影をひそめ、秀吉が実子・秀頼に関白を譲る上において秀次が邪魔になってきたからとする解釈が主流のようです。

 秀次は、自領の近江八幡の町並みを碁盤の目のように整備し、堀を開削し、「楽市楽座」の制度を取り入れました。それで町は活気にあふれ、後に近江商人を中心とする商業都市へ発展することになります。当時としては画期的な町造りでした。そして京都五山を援助し、連歌や茶の湯の知識も身につけた当代一の文化人でした。

 しかし、天正19年(1591)秀次が秀吉より関白職を譲られた2年後の文禄2年(1593)淀殿が、大坂城で男の子・拾(後の秀頼)を出産します。

 秀次はこの頃から、急激に心神を衰弱させます。秀頼が誕生し、「関白の座を逐われるのではないか」という不安感・圧迫感が恐怖心となり、心神不安定の状態に陥り、"気の病""心の病"を患ったと思えます。

 その場合、秀次が、「どうせ関白職は叔父の秀吉から譲られたもので、自分にはその力量がないから、喜んでお返しする」と態度表明をしていれば、秀次事件は起きなかったと思えます。しかし、権力への執着心が強かったため、かえってみずから心神衰弱へと追い込んでしまったのです。

 関白職への固執が秀頼の将来を気遣う秀吉の不安をかきたて、関白の地位保全につとめる秀次に、もはや将来の秀頼への平和的な政権委譲などありえないと秀吉は見てとったのです。

 そして秀次は秀吉への謀反の疑いをかけられ、高野山に幽閉されて、文禄4年(1595)7月15日、切腹に追い込まれたのです。

 秀次は、よく云われるように残虐非道な暴君でもなかったし、謀反の事実もなかったと思います。豊臣家の思惑によって、その人物像が操作されたように思うのですが。

 一回の記載量の関係で八幡堀散策や五個荘訪問は、次のブログにします







Last updated  2009.06.30 19:01:02
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2009.06.29
カテゴリ:旅行
 

近江、(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その2

 前日、6月28日のブログ「近江、兵たちの夢跡・城をめぐる その1」の続きです。

 長浜、湖岸道路沿いの公園で琵琶湖を眺めながら、I君の奥様調理の弁当を頂き、彦根に向かいました。N奥様、美味しい弁当有難うございました。

 彦根城下の東方約2Kmの佐和山周辺には、井伊家ゆかりの寺や神社が点在しています。

(最上段の画像の説明・NHK大河ドラマ「天地人」に直江兼続と共にもう一人の主人公として出演中の小栗(おぐり)(じゅん)が扮する石田三成です。NHK大河ドラマ「天地人」の公式ページの画像をコピーしました。)

<関連リンク・NHK大河ドラマ「天地人」の公式ページは、こちらから。>

 佐和山城跡へのハイキングコースの入口になっている龍潭寺(りょうたんじ)もその一つで、もともと井伊家発祥の地である遠江・()伊谷(いのや)から移築した寺で、4月に「た゜るままつり」が行われる禅の道場です。

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その2

(上の画像の説明・6月23日、龍潭寺前の駐車場から佐和山城跡を撮りました。)

 龍潭寺前の「佐和山城跡」と白く大きな字で書かれた看板のある駐車場に車をおき、午後1時40分頃から佐和山城跡へ向かいました。

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その2

(上の画像の説明・6月23日、龍潭寺の境内入口に立つ石田三成像を撮りました。)

 まず、龍潭寺の境内入口に立つ石田三成像に参り、龍潭寺山門をくぐり、山を登って行きました。そして塩硝櫓跡、西の丸跡を経て、約20分で佐和山城本丸跡に到着しました。

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その2

(上の画像の説明・6月23日、佐和山城本丸跡を撮りました。)

◎佐和山城

 鎌倉時代初期に佐々木一族の佐保(さほ)(とき)(つな)が館を設けて以降、六角氏、浅井氏が激しく入れ替わりながら支配してきました。元亀2年(1571)、織田信長が浅井長政の重臣磯野員(いそのがず)(まさ)を攻め、約8ヶ月の攻防で開城させました。この戦いが佐和山城難攻不落の声を一気に高めました。

 本能寺の変後、湖東は秀吉の影響下に置かれ、天正18年(1590)に石田三成が19万4000石で入城しました。三成は、入城すると従来の砦規模の城を、本格的な城郭として建てかえました。

 佐和山は、標高232mの地にあり、目の前の琵琶湖水面との標高差は136mという山城です。「高さ7.5mの石垣上に、(しゃち)をのせた五重の天守が築かれた」と伝えられます。

 「三成に、過ぎたるものが二つある。島の左近(三成の重臣)と佐和山の城」と落首されたのは、このときのことです。当時は、それほど名高い名城でした。

 しかし三成自身は、天下人の秀吉に近侍し、伏見・大坂にいることが多く、佐和山城で領内の統治にあたっていたのは、父の正継(まさつぐ)でした。

 慶長5年(1600)、石田三成と徳川家康の間で、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こります。三成は破れ、その後佐和山城にも徳川方の小早川秀秋、田中吉政、脇坂安治らの軍勢が押し寄せ、激戦ののちに落城し、石田一族は滅亡します。

 関ヶ原の功によりこの地に入封した井伊家は、佐和山を捨てて彦根山に新しい城を築きます。そのときに、佐和山の建物は取り払われ、彦根城の資材として運ばれました。石垣の石まで掘り起こし移されて、中世の城・佐和山城は跡形もなくなり、近世の城・彦根城が出来上がったのです。

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その2

(上の画像の説明・6月23日、同じく佐和山城本丸跡を撮りました。)

◎佐和山城の戦い

 慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の戦いは、松尾山に布陣していた小早川秀秋らの寝返りによって、東軍の勝利に終わりました。

 関ヶ原の戦いから2日後の17日、城主三成、島左近も佐和山城にはいません。戦いで左近は討死、三成は伊吹山へ落ちていた頃です。2800の篭城兵は、かわりに三成の父正継を本丸の総大将に立て、兄の正澄(まさずみ)は三の丸の守りにつきました。

 暁に、東軍1万5000による集中攻撃が開始されました。東軍の主力は、小早川秀秋、脇坂安治など、関ヶ原での寝返り組です。真の手柄をあげなければ、との思いで必死に攻めますが、篭城側も出丸に備えた大筒などで小早川隊らを撃退します。

 意外な抵抗に家康は焦り、その夕刻に使者を立てて「正継か正澄が腹を切れば、他の者は助ける」と伝えます。

 石田側は、正澄が切腹することでその議に応じることにし、噂はたちまち城内に伝わりました。「再び生きることを許された」と知りながら、士気を保つ者などいません。これは家康の思惑通りでした。

 翌18日の明け方、約束事などなかったかのごとく、東軍は突如攻撃を開始しました。武将たちの裏切りや逃亡もあり、攻撃が再開されてから半日と待たずに城は落ちました。

 燃え上がる天守の中で、石田一族はみな自刃して果てました。身分ある女たちは天守左手の断崖から身を投げたと云います。谷は、「女郎(じょろう)(だに)」と呼ばれるようになりました。

 今、佐和山城に登ると、わずかに残る石垣や堀跡がのどかな今を伝えるばかりです。

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その2

(上の画像の説明・6月23日デジカメ・ズームモードで、佐和山城跡から望む彦根城と琵琶湖を撮りました。)

 佐和山城はいつしか時の中へ-----佐和山の頂きからは、樹木に覆われた彦根城と雄大な琵琶湖、そして東に目を転じれば東海道を走る新幹線が望めました。

近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡) その2

(上の画像の説明・6月23日、佐和山城の大手門を移築した宗安寺の赤門を撮りました。馬に乗っても通れるほどの高さがあります。)

 下山後は、赤門の寺と呼ばれ、佐和山城の大手門を移築した宗安寺の他、夢京橋キャスルロードを歩きました。途中で買った冷えたビールが、登山で乾いた喉にぐっとしみわたりました。

 湖東地方には、ここ彦根城の他、信長の「天下布武」への道となった、観音寺城跡、姉川古戦場跡、小谷城跡、そして安土城跡など信長に関係した多くの史跡がありますが、既に訪れていますので、今回は立寄りませんでした。

 次回、ブログには「城をめぐる」その3として、八幡山城跡、五個荘(ごかしょう)(近江商人発祥の地・てんびんの里)の訪問記を書きたいと思っています。






Last updated  2009.06.29 20:51:40
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