近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡)その1
近江、兵(つわもの)たちの夢跡・城をめぐる(長浜城、佐和山城跡、八幡山城跡)その1 6月23日(火)から、高校も同級生、大学は違ったものの、勤務先もまた一緒であったI君と共に、琵琶湖・湖東方面へ車を利用して一泊二日の旅に出かけました。 池田を午前8時に出発、名神高速・湖西道路から琵琶湖大橋を渡り、湖岸道路(さざなみ街道)を通り、まず長浜に向かいました。 湖岸道路は、この道路を通るとき、いつも思うのですが、車窓左手すぐには琵琶湖の湖岸が、右手には湖東の豊かな水田と湖東三山の山並みなど美しい景観が楽しめ、そして車の通行量も比較的少ない快適なドライブコースです。(最上段の画像の説明・6月23日、長浜城天守を私が撮りました。)◎長浜城 長浜城には、午前11時過ぎに着きました。長浜の湖岸道路沿いに豊(ほう)公園があり、昭和57年(1982)に復興された三層の天守が立っていました。 長浜城の前身は、近江源氏の一族、佐々木高氏が琵琶湖畔の今浜に館を構えたのが始まりと云われています。 天正元年(1573)近江の浅井長政が織田信長に滅ぼされると、その居城の小谷城には秀吉が入りましたが、天正3年(1575)になって今浜の佐々木氏の旧城跡に新しく城を築きました。このとき今浜を長浜と改めました。 城は旧城地を利用し湖岸に盛り土をして本丸を構え、湖を利用したやや水城風のものであったと伝えられています。 このときから天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が起こるまで、長浜城は秀吉の本拠地となったのです。 本能寺の変ののち秀吉は山崎、大坂と移り、長浜城は柴田勝豊、山内一豊、内藤信成など3人の城主を経て元和元年(1615)廃城となりました。 一説には大坂落城前に廃され、石材、木材を彦根城構築のために運んだとも云われています。 わずか41年の短い歴史なのに印象が強い理由は、いうまでもなく、秀吉の築いた最初の城であり、秀吉の出世街道の出発点にあたるからです。 秀吉の長浜在城期間は7年。秀吉の天下取りは、ここから始まったのです。 秀吉が小谷城から今浜(長浜)に城を移した理由については、主君織田信長の意向という説も有力ですが、城と城下一体の町づくりの発想をもった秀吉が、水陸の要衝で軍事・経済上の発展が見込め、平野のため城下町の建設がしやすい長浜を選んだのだとも云われています。この選択はみごと成功し、長浜は近世城下町のモデルとして、その後の多くの城下町の見本となったのです。 天守は歴史博物館として資料などが展示されておりますが、訪問日は展示替え・定期メンテナンスであいにく臨時休館日となっており、目的の「石田三成特集」が見れず誠に残念でした。 なお、東に伊吹山が見えるこの城のすぐ近くに、のちに秀吉の重臣として活躍する石田三成が生まれた石田村があり、鉄砲の有力生産地である国友村があります。(上の画像の説明・6月23日、場所を変えて同じく長浜城天守を私が撮りました。)◎賤ヶ岳前哨戦の秀吉による長浜城攻略 天正10年(1582)6月13日、山崎の合戦で秀吉は明智光秀を破ります。そして、その14日後、すなわち天正10年(1582)6月27日、清州城内で織田家家臣による織田家後継者問題を主たる議題とする清州会議が開かれました。後継者には、秀吉が主張する信長の嫡孫三法師(さんぽうし)への家督継承が決まりました。このことは、その後の秀吉の台頭にとっては決定的な意味を持つわけです。 そして、清州会議は、織田家の後継者問題が話しあわれただけでなく、その遺領分配の相談もなされました。光秀を討った功労者である秀吉が山城国を新たに得ましたが、秀吉は柴田勝家に対する配慮も忘れていませんでした。そのあたりが秀吉のすごいところです。 秀吉は、それまでの自分の所領であった北近江と、本拠の城・長浜城を勝家に譲っています。勝家にしてみれば、加賀・越前に加え、地続きの近江を得て、信長の三男信孝の擁立には失敗したものの、所領の点で、ある程度満足できたわけです。 そして、勝家は、長浜城に甥の柴田勝豊を入れました。ところが、これは失敗だったのです。勝家と勝豊の間がうまくいっていないことを秀吉が察知してしまったのです。 秀吉は、越前・近江国境に雪が積もったことを確認するや、天正10年(1582)12月7日、5万の大軍で長浜城を攻めたてました。このように実は、賤ヶ岳の戦いは、その年のうちにすでに始まっているのです。 それまで自分の城だったために、長所も短所も知りつくしており、攻め方は完璧でした。勝豊が勝家に援軍を要請しても、勝家は大雪で動けません。秀吉は城攻めを続行するとともに、勝豊に勧降工作を進め、援軍がくる見込がないと判断した勝豊は、12月15日頃に降伏してしまったのでした。それにしても簡単に敵方の将を手なづけてしまうのですから、秀吉はすごい人物です。 こうして、わずか6ヶ月余りで、秀吉は再び長浜城を手に入れたのです。そして、秀吉は長浜城を本拠地として、雪解けを待ち越前から出てきた勝家を、天正11年(1583)4月21日賤ヶ岳の戦いで破り、天下取りの道を一段と進めたのです。(上の画像の説明・6月23日、JR長浜駅前にある「出逢い」の像を私が撮りました。少年三成が秀吉に茶を差し出しています。)◎JR長浜駅前にある「出逢い」の像 長浜から動き出した運命...秀吉が見出した石田三成の才 JR長浜駅前に秀吉と三成の像が立っていました。秀吉が石田三成の才能を見出したのは、長浜城主だった頃です。出会いのエピソードは三成の「三献(さんこん)の才」として有名です。三成は幼少のとき、家の近くの寺・大原観音寺に預けられていました。 当時、長浜城主だった秀吉は鷹狩りの帰りにこの寺に立ち寄り、茶を所望しました。このときの三成の配慮に感服し、近侍にしたと云われています。少しでも飲みやすくしようと考えた三成は、初めの1杯は大きい茶碗に7,8分のぬるいお茶を注ぎ、2杯目はもう少し温かくしたお茶を半分、そして最後は小さな茶碗に少量の熱いお茶を入れて差し出しました。その話に因んだ「出逢い」の像がJR長浜駅前に立っているのです。 その後、三成は関白となった秀吉の意向により、奉行の1人に任じられ、秀吉はこの先も三成の才覚を愛し、重用していくことになります。三成もまた、それに応え、忠誠に励むのです。 佐和山城跡、八幡山城跡訪問記は次のブログにします。(上の画像の説明・山海堂刊、「武将たちの足跡をたどる」の100頁、石田三成の画像をスキャンしました。)