西教寺(明智光秀公顕彰会総会)・安土城見学会に参加して その2
西教寺(明智光秀公顕彰会総会)・安土城見学会に参加して その2 西教寺・安土城見学会に参加して その1の続きです。◎西教寺 安土城跡のあとは、琵琶湖畔の「鮎屋」で昼食をとり、大津市坂本にある西教寺に向いました。(上の画像の説明・当日頂いた西教寺のパンフレットです。スキャンしました。) 西教寺は聖徳太子の創建を伝える古刹で、念仏の道場としても知られています。 信長の比叡山焼き討ちの際、西教寺も全焼しましたが、光秀の尽力で再興しました。堂々とした山門は坂本城の城門を移築したもので、山門をくぐると深閑とした空気が身を包みました。(上の画像の説明・西教寺山門です。2010.6.14撮影)(上の画像の説明・鉛筆画、西教寺山門(山田啓治氏作)です。同氏は家村耕氏の作品に挿絵を書かれている能勢町在住の鉛筆画家で、当日の車中で頂いた鉛筆画をスキャンしました。) 西教寺では、1989年(平成元)6月14日光秀が亡くなった日を以って、光秀の功績を後世に語り継ごうと明智光秀公顕彰会を立ち上げました。 顕彰会は、菩提寺である西教寺での追善法要のあと、本能寺の変で主君信長を討った逆臣というイメージを改め、行政官・文化人として優れていた点にスポットをあてようと、1898年以降21年間、毎年多彩な行事を開催してこられました。毎回光秀ゆかりの地の関係者、光秀ファンの方々が約250~300人参加されています。 昨今では、特に光秀の行った善政や人柄にたいして、根強い人望が現れているとのことでした。当日も、最近の歴史ブームを反映してか、若い女性(歴女)の姿も多く見られました。(上の画像の説明・6月14日の「平成22年度 明智光秀公顕彰会総会」プログラムです。スキャンしました。)(上の画像の説明・研修道場での家村耕氏の記念講演風景です。2010.6.14撮影) 家村耕氏の「本能寺襲撃前後の光秀」の記念講演のあと、境内を散策しました。 本堂の傍らには、明智光秀とその一族がひっそりと肩を寄せ合うように眠っていました。光秀の妻・煕子(ひろこ)の墓も寄り添ってありました。そして、煕子の墓の隣に芭蕉の句碑が添えてありました。 「月さびよ 明智が妻の はなしせむ」 これは、光秀の流浪時代に妻が黒髪を売って、客を接待したという逸話を句にしたものです。(上の画像の説明・明智光秀とその一族の墓です。2010.6.14撮影)(上の画像の説明・光秀の妻・煕子(ひろこ)の墓です。2010.6.14撮影)(上の画像の説明・煕子の墓の隣にある芭蕉の句碑です。2010.6.14撮影) 光秀の謀反に対する世間の評価は、逆臣、裏切り者などと今も厳しいものがあります。しかし、光秀の領地であった京都府福知山市、亀岡市などは、善政を敷いた領主、有能な行政官と評価され、伝承されてきました。 徳川家康のブレーンとして宗教政策を進めた天海僧正が、光秀と同一人物だったとする説があります。坂本龍馬の先祖が明智家と血縁関係にあったという伝説も残っています。これらは、源義経に対するのと同じ、英知にあふれた武将を惜しむ民衆の「判官(ほうがん)びいき」なのでしょうか。 一般的な歴史は、勝者の歴史です。勝者の論理で語られがちです。光秀も、謀反人の汚名を着せられたがために、光秀に関する資料の多くは抹殺されました。光秀の菩提寺・西教寺を訪ねて、光秀のこうした知られざる歴史をもっと知るべきだと思いました。(上の画像の説明・西教寺の境内です。2010.6.14撮影) 本能寺の変はなぜ起きたのだろうか。光秀が信長から度重なる屈辱を受けたことによる怨恨説。反信長勢力が黒幕となって光秀を動かしたとする陰謀説などがあります。 「光秀公顕彰会総会」資料の一部として頂いた「西教寺と明智光秀」を読むと、「光秀は、将軍や信長を凌いで天下人になろうなどという野望は持っておらず、ただ足利将軍家と室町幕府の再興及び、戦乱の世の終結を願っていたに違いない。」とされています。家村氏も彼の執筆本「光秀奔(はし)る」の中でこの見解をとっておられます。 私は、光秀に天下取りの野望がなかったという意見には少し疑問を感じます。あの時代、実力のある武将なら誰でも考えことだと思います。信長の下にいたら不可能と思える事態ですが、様々な偶然が重なって、突如光秀の眼前にチャンスが広がったのではないかと思うのですが。 明智一族の墓に手を合わせ、最後に本堂近くから、光秀も見たであろう琵琶湖の眺望を見て、西教寺に分かれを告げました。(上の画像の説明・西教寺・本堂近くから眺める琵琶湖と坂本の町です。2010.6.14撮影)