○デュラスから、・・・
■マルグリット・デュラスに触れる。keyword は、愛?・愛情欲 望・意識の流れ・捩れたアジアを意味する「デュラジア」・決着をつける・だ。18歳まで仏領インドシナに滞在「(不条理な)呪縛」。不条理という語自体、 後年代の実存主義の「産物」だ。かのじょは、1930年代にそうした情況(存在論でなく社会的な)にいた。小説にしろ評論にしろ、かのじょの動機は強烈な 体験から発している。なぜ だ?この問いかけが彼女の生の中枢を流れている。自己への問いが、外部へとむかう。意識の回路は循環を形成する。「・・・」しかし彼女は諦めず問いなおす のだ。強靭さ。排除される猥雑さ曖昧さ。徹底はただ<決着>をつけるためにある。■ジャンヌ・モローの流れが結びつくのは、この「(砂)州・ the sandbar」 におい てである。愛欲を奔放に求めたジャンヌの「最終章」がかさなるのだ。actors-studioで、この映画を語る女優には勝利者克服者の輝きがあった。 性愛による自我解放と制度差別被差別のあいだの葛藤逡巡からの「脱」の試行なのだ。体験がトラウマとして心躯体に刻まれている。それを「超」えるには、 「それ」自体のchaosを、通ることが不可欠なのだ。■ 科学技術が成果をもたらした。思想哲学的検証は、「近代」にむかった。歴史学は、重層的構造性を もつ「西欧」を捉え直す。再構成することで強度の再認識 確認を自らのものとする。わずかな文章に必要以上の内容を盛り込むこと自体がまちがいだ。それはサービスでなく混乱を招くだけだ。1900年-1945年 に膨張した西欧が自壊していくproccessを見ることができる。ひとつで、87,000人を殺傷するhiroshimaの光景以上の悲惨な風景が西欧 を覆っていたのだ。(HIROSHIMA, MON AMOUR 「二十四時間の情事」邦題)■他方でヨーロッパの「映画」は、生性を通して「襞」(差異性にある「弁証法的」な 存在)を描いている。 Paris.Roma.Berlin.の「映像表現」の追究はそこにあった。■ 砂州・sandbar.sandbank,と表されるtouchが気に入って いる。ふた筋の水脈が合流し、「砂州」がうまれる。barの止まり木のようでもあり、あらたな鉱脈となる、bankのようでもある。「都市」は砂州に生ま れる。天然の要塞、交通の利便、それらが都市成立の基本要件なのだ。またそのimageは、ドールス=ガタリの「リゾーム論(地下茎)」をも惹起させる。 深耕する領野を思えばよい。■かくして西欧の「復活」をみる。「・・・」しかし「壁」がたちはだかるのだが。(中)