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2007.12.05
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カテゴリ:思い出の甲子園

山口県は昔でいうところの、長門と周防(すおう)だ。長門の国府が置かれていた地が長府であることは昨日述べた。一方の周防の国府が置かれていた場所、それが防府(ほうふ)である。

ここ防府には、最近のブログでも述べた毛利邸もあり、また周防国分寺も残る歴史溢れる町だ。1年の年忘れに笑い飛ばす神事"笑い講"でも有名な町だ。しかし私にとって、防府との最初の接点は、1974年夏の甲子園で、初出場で準優勝した防府商の思い出である。その中でも、準決勝のわが地元、鹿児島実との一戦は忘れられない試合である。

この年の春の選抜では、報徳学園(兵庫)が2投手の継投で優勝したのだが、徳島の池田が11人で戦い、決勝まで進出したのも同じ年である。”池田イレブン”と称されて、甲子園に爽やかな旋風を起こした。この時も、名将、蔦監督が指揮をとっていたが、当時は、まだ"やまびこ打線"として恐れられる以前のチームである。

さて、防府商はこの年、選抜には2回戦から登場するも、その池田に敗れた。そして、再び夏の大会にも出場する。この時、夏は初出場だった。井神-桧垣のバッテリーで勝ち上がった防府商。キャッチャーが1番打者だったことも、覚えている。延岡、福岡第一、郡山と撃破し、準決勝で鹿児島実と対戦した。

この時の鹿児島実は、のち巨人でも活躍した、好投手、定岡を擁した投手力のチームだった。打線は貧打で、1回戦、2回戦とも1対0の勝利だったが、準々決勝では、原辰徳(当時1年)もいた東海大相模と延長15回の死闘を演じて勝ち上がった。勢いからして、戦前の予想は、鹿児島実が優位と思われた。

この試合、動いたのは3回表だった。鹿児島実がランナーを2塁において、中前ヒットが出る。この時の2塁ランナーは、定岡だった。本塁に突入し、タッチアウトとなるのであるが、この時、定岡は右手を捻挫してしまい、降板を余儀なくされる。そして、急遽、3回裏から、控えで下手投げの堂園投手が登板することとなったのである。いきなりの甲子園初登板となったのである。

余談だが、堂園投手は、当時、県内で定岡のライバルでもあり、県大会決勝でも投げ合った、鹿児島商の堂園投手(のち広島)の弟である。奇しくも兄弟2人とも下手投げだ。

その堂園投手、めがねをかけ華奢な身体ながら、力投した。防府商に1点を先制されるも、鹿児島実も追いつき、1対1のまま運命の9回裏を迎えた。2死2塁のピンチではあるが、延長突入も濃厚と思われた矢先だった。突然の結末が訪れた。

堂園投手が、下手から2塁に牽制球を投げた。しかし、これが逸れて、バックアップしたセンターの前へ抜ける。しかし、そのセンターがこれを後逸。ボールは転々とバックスクリーンへと転がり、その間に、2塁ランナーが歓喜のサヨナラ勝ちのホームを踏んだのである。鹿児島実の、そして定岡の夏が終わった瞬間だった。

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鹿児島実0000001001
防府商0000010012

当時、鹿児島県勢は、初戦敗退が続いていたので、この大会の鹿児島実の活躍には、地元でも大歓迎して選手たちを迎えたものであった。しかし、準決勝の勝敗を決したプレーが、当事者の人生を苦しめたことを、何年か後でテレビで知った。誹謗中傷がたえず、その後の人生を大きな傷を背負って生きていくことになったらしい。実に気の毒な話である。

そのセンターの森元選手、彼は、鹿児島実の打線では中心となる4番打者であった。初戦の佼成学園(東東京)戦では、決勝のタイムリーヒットを放ち、勝利にも貢献した。それが快進撃の始まりだったのだが。。。

何年も前のテレビ番組で、森元さんは当時の辛かった日々の思い出を語っていた。実直な方である。野球を捨て、プロゴルファーを目指しているころの番組であった。当時も、苦労しているようであったが、報われる日を祈って、見ていたのを今でもよく覚えている。甲子園は時として、残酷な試練を与える。

さて防府商に話を戻すと、決勝で千葉の銚子商と激突する。中盤まで、互角に渡り合ったものの、銚子商の黒潮打線が爆発、0対7で敗れた。この時の銚子商は、本格派の土屋投手(のち中日)を擁し、打線の中心には当時2年の篠塚(のち巨人)もいて、相手を寄せ付けなかった。






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Last updated  2007.12.06 21:59:06
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