発見!28年前の搭乗券 初めて乗った飛行機の記録
この週末、実家に帰り、本棚や押入れの中に眠っていた、写真やチケット、絵葉書などの旅の記録を久しぶりに広げ、眺めてみた。そんな中に、珍しいものを発見したので、ご紹介したい。それこそ上京して以来、24年間お蔵入りしていたものある。アルバムを広げると、20年以上圧着されていたページとページ、それがパリパリと音を立てて剥がれる。フエルアルバムに整理された写真、そのページをめくると、接着力が劣化し、台紙が脱落するものさえある。一部に色が褪せ、古写真の印象を感じさせるものさえある。そこに、知らず知らずに年月が経っている現実を思い知る。懐かしい写真やコレクションの中には、既に行ったことや、手に入れたことさえ記憶していないものもある。しかし、そこに新たな発見もあり、そんな所まで歩いたのかなあ、と思ったりもするなど、ページをめくる手が頻繁に止まる。そんな中で、特に感動を覚えたものが、28年前の搭乗券である(右上)。それは、私が初めて搭乗した飛行機の記録でもある。当時、大学1年で18歳。試験休みの秋、鹿児島から名古屋にいる従姉を母親と共に訪ねた時の搭乗券だ。それは、母親にとっても初めて乗る飛行機の記録だった。鹿児島空港を飛び立ち、名古屋小牧空港までの全日空のフライト。その搭乗券は実にカラフルでもある。名古屋行きの搭乗券には、名古屋城、金の鯱を背景に"名古屋まつり"。そして鹿児島行きのものには、桜島を背景に"おはら祭り"が描かれている。目的地の特色が描かれた搭乗券は、見ているだけでも楽しい。今に慣れ親しんでいる、文字だけの搭乗券と比べると、まさにコレクション意欲を掻き立てられるのである。さらには、懐かしい全日空のマーク。それは、レオナルド・ダ・ビンチのヘリコプターを図案にしたものという。そして、なぜヘリコプターなのだろうと疑問が湧いて、調べてみると、全日空の前身が日本ヘリコプター輸送株式会社という社名であり、それに由来していることを知り、驚くのである。全日空のコードがNHと表されていることの謎もここに解けるのである。初めての飛行機の記憶、それはやはり忘れられない。もともとは、高所恐怖症の私である(今でもそうだが)。地面から離れて、空中を移動するということ自体が信じられなかった私には、常に、落ちるのではないかという不安が付き纏った。飛行機に乗り込むこと、イコール、命を預けるという覚悟である(今でも実はそうだ)。閉じられた空間の機内、離陸のため滑走を始めると、緊張は最高潮に達する。祈りの心境、万事おまかせしますと心につぶやく。しかし、不思議なもので、上空に上がってみると、恐怖の何のと言っているレベルではないことに気付く。あっさりと諦めの境地に入ると、窓からの眺めを楽しみ、雲海の写真をカメラに何枚も収めていた私がいたのである。当時は、飛行機に乗ることもそうは無かろうと思っていたので、雲の写真を撮るは、機内誌を持ち帰ることも勿論のこと、何もかにもと、記念にとっていたものである。そして、当時の荷物タグまで、コレクションの中に見つける。今やバーコードのシール、そして海外などではアンテナが内蔵されたRFタグのラベルなども見るが、当時のものは、ホテルの荷物預かりのような紙のタグ。何の変哲も無いが、今となっては、昔を振り返る上で貴重だ。初めて飛行機に乗って以降、実際、学生時代に、飛行機に乗ることはなかった。その次に乗るのは、社会人になってからである。そして、その時、既に、上述の搭乗券のように、地方色豊かな絵の描かれた搭乗券も目にすることは無く、次第に、そういう搭乗券があったことさえ記憶の彼方に消えていくのである。社会人になって以来、飛行機への搭乗回数は、海外出張や駐在の経験などもあり、そして帰省を含めると、既に数えきれない。数100回は間違いなく搭乗している。しかし、『初心忘るべからず』ではないが、何度乗っても、離着陸の瞬間、そして飛行中の大きな揺れには緊張し、手に汗をかくこともある。その都度、安全飛行に着陸の無事を祈るのである。そんな私にとっての、飛行機搭乗の歴史。その記念碑的な第一歩の記録に思いがけずに再会した。そして、消えかけていた記憶を再書込みしたのである。