MIHO MUSEUM「かざり 信仰とまつりのエネルギー」2
MIHO MUSEUM「かざり 信仰とまつりのエネルギー」<5月15日まで>2(2月29日) <かざり>というのは、辻惟雄さんが発見した日本美術の特質です。かつて<装飾性>といわれてきた特色に近いのですが、辻さんは何か表面だけを飾るという語感を嫌って、やまと言葉に置き換えたのです。ある対談で僕は、<装飾性>も悪くないじゃないですかなどと噛みついたこともあるのですが、今回やはり<かざり>は奥が深いなぁと脱帽したことでした。<かざり>とすれば、この特別展のライトモチーフである宗教美術も荘厳[しょうごん]の美術、つまり<かざり>の美術としてスッポリ収まってしまうからです。 そこで「僕の一点」はMIHO MUSEUM所蔵の「両界曼荼羅」です。曼荼羅なんて、ゴチャゴチャしてよく分からないし、仏さんがたくさん描いてあるだけだなんて言わないでください。こんなおもしろい仏画はめったにありません。確かに美術としてみると、みんな同じで個性がなく、美的感動が薄いかもしれませんが、この世界の成り立ちや、僕たちがいかに物事を認識するかを考える時に、とても役立つのです。それは美術を考える時にも、援軍となってくれることでしょう。 曼荼羅が生まれたのは古代インドです。まず『大日経』というお経をもとに「胎蔵界曼荼羅」が作られました。次に『金剛頂経』というお経によって「金剛界曼荼羅」が生まれました。はじめ「胎蔵界曼荼羅」は「胎蔵曼荼羅」といって、「界」の字がなかったのですが、のちに「金剛界曼荼羅」に合わせて、「胎蔵界曼荼羅」というようになりました。たった一字ですが、ここには重要な意味があります。 そもそも曼荼羅とは、大日如来を中心に多くの仏を配置し、密教の世界観を表したものです。はじめインドでは、いろいろな色の砂で描く砂曼荼羅でしたが、儀式が終われば消えてしまうので、これを残すために絵にするようになったのでしょう。絵にすれば何度でも使うことができます。これが現在僕たちの知っている「両界曼荼羅図」のオリジンです。つまり二つの曼荼羅は、本来別々に誕生したものであって、直接的関係は希薄でした。 それが中国にもたらされてペアとなるのですが、その原動力となったのは、中国の陰陽思想だったと思います。相反する性質の陰と陽という二種の気によって、万物は作られ変化するとする易学の考え方です。月・秋・北・夜・女などは陰、日・春・南・昼・男などは陽とされました。 両界曼荼羅で一つの密教的宇宙観を表すとはいえ、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅それぞれが、何を象徴しているかについては、さまざまな説があります。曼荼羅研究に一時期を画した石田尚豊さんは、「胎蔵界曼荼羅が拡散展開して現象界の『理』をあらわすのに対して、金剛界曼荼羅は凝集内観して精神界の『智』を示すものとして両界曼荼羅は、理智不二の密教的世界観を具現するものとされている」と述べています。この書き方からみても、石田さんの個人的考えというより、定説のように思われます。この定説によれば、現象界と精神界ですから現実と認識、あるいは客観と主観と言い換えてもよいでしょう。 しかし僕は、陰陽思想の影響を重視し、胎蔵界曼荼羅を陰、金剛界曼荼羅を陽と考えたいのです。つまり前者は女性的なもので、仏の慈悲を暗示し、後者は男性的なもので、仏の知恵を表わしていると。少なくとも、そう考えると分かりやすいと思いますが、もちろん理由もあります。 胎蔵界曼荼羅の基底をなす『大日経』の中心をなす住心品において、悟りとは悟りを求める心が大前提であり、そこに仏の大悲が作用することによって達せられますが、最終目的は衆生救済のため活動であるとされているからです。ここで重要なのは仏の慈悲であり、それは陰や女性と結びつきます。仏の慈悲を象徴する観音菩薩は本来男性ですが、やがて女性的イメージが強まったことを考えれば分かりやすいでしょう。そもそも「胎」とは身ごもることや子宮ですから、女性の表象なのです。母親の胎内に眠る胎児の仏性が開花するさまを描いたのが、胎蔵界曼荼羅であるという説さえあります。 一方、金剛界曼荼羅のもとである『金剛頂経』では、悟るための五相成身観が中心をなしています。それは仏と行者が一体化して、行者に本来そなわる仏の知恵を発見しようとする実践法です。ここでは知恵、つまり合理的思考が前面に押し出されています。それは陽と、つまり光明や男性と結びつきやすいでしょう。そもそも金剛とはダイアモンドのこと、強く硬いことのシンボルですから、これも男性的です。もちろん『大日経』においても、仏の知恵は重視されていますが、そのためのプロセスとして女性と結びつきやすい慈悲が必要十分条件とされているのです。 このような私見をさらに押し進めると、胎蔵界曼荼羅は主観、金剛界曼荼羅は客観となって、ちょっと定説と反対になってしまいます。少なくとも、胎蔵界曼荼羅は感情、金剛界曼荼羅は理性となって、定説と基軸がずれてしまいますが、僕はこの方が理解しやすいと信じて疑わないのです。こんな分かったようなことを言っても、『大日経』や『金剛頂経』を読んだわけではなく、『岩波 仏教辞典』に拠っただけですから、全身冷や汗、忸怩たるものが……。