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違った北谷の楽しみ方

11.27
北谷へ行きました(1)
11月25日、旅の会は北谷へ行ってきました。

北谷に行くのをえらそうに報告するなと思われるかもしれませんが、「意外と知られていない北谷を見てみたい」というのが今回の旅の会のスタンスです。

集合時間よりやや遅れて全員集合、メンバーは車と原付に乗って58号線を北上しました。

ところで車の運転手。彼の偉大な方向感覚は、サークルではしばしば語り草になっています。今回もその片鱗を見せてくれています。

「新都心を抜けたら北谷」

彼の偉大な脳内地図には、浦添も宜野湾もなく(したがって普天間基地もないのですが)、ただ「北のほうに北谷がある」ということだけが真実です。

まぁ地理感覚がずば抜けて悪くても運転には無関係、かな?

とにかく北谷へ向かいました。

北谷といえば、やっぱりハンビーですかね?ところが、今回のメンバーのほとんどが誰一人として北谷のお世話になっていない。ふだんは家でゲームするか本読んでるかです。

そんなメンバーですから、「意外と知られていない北谷を見たい」といっても本当のところは「意外と知らない」ではなく「ほとんど知らない」というのが正しいかもしれません。

ところで、そうこうしているうちに、北谷町に入りました。左手には「ハンビー食堂」。分かりますか?「4の日」とか書いてるパチンコ屋。分かりますかね?もちろん、58号線の右側はずっと基地、「キャンプ瑞慶覧」です。

「謝刈交差点」を右折し、待ち合わせ場所である某コンビニに到着しました。約40分かかりました。
PB250066.JPG

待ち合わせ?そう、今回の「北谷行き」を企画した旅の会の〈北谷の鬼〉が指定した場所なのです。すでに〈鬼〉は腕を組んで、というか普通に立ち読みして待ち構えていました。

コンビニの横には、「キーストーン教会」。向かい側には「キャンプ桑江」。

基地ばっかりです。北谷町は今なお半分以上が基地です。

ちなみに基地沿いにYナンバーの車両が列をつくっていました(多分違法駐車)。「Yナンバーだから日米地位協定に守られてんじゃないの?」なんて話していましたが、昼頃にはすっかりなくなっていました。そして教会の駐車場も空っぽでした。

どうやら、日曜午前中に教会に集うクリスチャンたちの車だったみたいです。地位協定だけじゃなく、どうやら神様に守られた車両群だったというのが真相のようです。

日米地位協定にも神様にも守られていない、某軽車両を駐車させていたら切符切られていたかもしれません。運転手の安全策が正しかったようです。

全員そろい、車をジャスコへ置き、さっそく探索開始!



2007.11.27
北谷へ行ってきました(2)
コンビニから歩いて向かったのは「北谷グスク」。

「謝刈交差点」の一つ南側が「北谷交差点」ですが、そこにこんもりとした森があります。南部から北谷に向かう人は誰でも目に入っている森、ここが「北谷グスク」です。

「北谷グスク」。はっきり言って知られてないと思います。しかし、予想外にすごいグスクなのです。

城は4つの郭からなり、計1万平方キロメートルもあります。中部ではもちろんトップで、首里城、今帰仁城、糸数城、南山城に継いで大きい!けっこう驚きじゃないですか?

12世紀から15世紀(薩摩侵入の頃までか?)まで利用されていたらしく、地域一帯を治める按司の居城でした。按司は「おもろそうし」にも詠まれています。「きたたんのてだ」とか「きたたんの世のぬし」。一説では按司の間にも争いがあったらしく、金満按司、大川按司、谷茶按司の興亡があったとか。

北谷町教育委員会による発掘調査も行なわれています。1980年はじめだったかな?その頃に行なわれているみたいです。当時の報告集会がパンフレットになっていました(県立図書館所蔵)。

それによると、「一帯を公園にして保存しよう」と提言されているのですが、現在どうなっているかと言うと・・・

下調べの段階で、町役場に確認しました。「基地の中なので入ると捕まっちゃいます」とのこと。「じゃ、早く基地なくしましょう」と返したのですが、グスク全体が基地の中にあります。
PB250084.JPG
北側から見たグスク。手前は米軍施設。

とにかく近くまでは行ってみたいということで、旅の会はさっそく森に向かいました。

嘉手納基地周辺とかを囲っているあのおどろおどろしいフェンスはありませんが、道路沿いに柵があって森に入ってはいけないみたいになっています。

と、ところが

柵に切れ目があるじゃありませんか!しかも中に人がいる気配が。

「基地の中」という役場のお兄さんの言葉も忘れて、入ってしまいました。すると、そこには畑が広がっていました。広がっているというほどでもないのですが、たしかにニンジンとかその他いくつかの作物が植えられていました。PB250078.JPG 何の変哲もない畑。

コンクリートの道を進むと「塩川」と書かれた井戸(カー)らしきものがありました。隣には「按司墓のウトーシ」と書かれた碑が建っていました。PB250070.JPG なんでこの井戸は半分に切られているんだろ?

「やっぱりここって基地の中かな?」

さっそく畑を耕しているおじいさんに尋ねました。

やっぱり基地の中した。畑はいわゆる「黙認耕作地」。本ではよく見る言葉ですが、実物をまじまじと見るのは初めて。

おじいさんによれば、森にはハブがたくさん棲んでいるらしく、夏場は畑にもたくさん下りてくるとのこと。「注意しろ」と何度も言われました。

また一帯は昔は田んぼだったそうです。「塩川」というのは湧き水(泉)で、そこからとくとくと水が流れていたそうです。戦後は埋め立てられて畑になったとのこと。話を聞きながら、当時の状況を想像していました。

お礼を言った後、せっかくだからもうちょっと奥まで行ってみることにしました。初めは「基地の中」ということでちょっとヤバイ気分だったのですが、おじぃの許可もあったので、少しづつ大胆になってきました。

そこには「北谷御先龍宮神」の碑が建っていました。また、お墓と思われるコンクリート造りの横穴もありました(戦時中の防空壕かも)。看板が立っていて「字北谷郷友会」の字有地だと分かりました。
PB250076.JPG

目の前には岩がそそり立っていて、どうやらその上にグスクがあるみたいです。

たしかにグスクを見ることはできませんでしたが、予想外の収穫があった気がします。

今回はここまで。




2007.11.28
北谷に行ってきました(3)
つづいて、白比川沿いに歩きました。役場のお兄さんによると川沿いに「特攻艇秘匿壕跡」があるらしいのです。いくつかは基地内にあるのですが、見ることができるものもあるらしいのです。

「特攻隊」というと、空からのものをイメージしますが、海からの特攻もありました。マルレと呼ばれる舟艇で、長さ5.6メートル、重さ1トン。ベニヤ製で艇尾に約12キロの爆雷2個を搭載、1名が搭乗して20ノット(約時速40キロ)で敵艦を奇襲する。そんなものだったらしいです。

北谷の「特攻艇秘匿壕」は1944年12月に建設されました。壕掘りには住民も駆り出されました。主力は朝鮮人軍夫だったそうです。海上挺進第29戦隊の一部17名(第一中隊長・中川康敏中尉)が1945年2月17日に到着。

練習の目撃談はありますが、実際に出撃したかどうかは不明ということです。

白比川は、はっきりいって汚いです。基地のそばでもあり「いろいろ基地から垂れ流されてるんじゃないか」とメンバーは言っていました。そんなのもあるかもしれません。
PB250087.JPG

また他のメンバーより「白比川にまつわることは調べてないの?」

すみません、目が行き届いていませんでした。

そして、なんというか実は秘匿壕を見つけることはできませんでした。なぜだろう・・・再挑戦を考えてます。

ところで「この基地なんだろうね?」という率直な感想がありました。58号線沿いに口があいているゲートには警備員もいないし、そもそも人がいる気配が感じられません。変電所らしきものや白い建物は見えるのですが、なんだか重要な施設とは思えません。

後日調べたところによると、どうやらそこは「旧米軍刑務所跡」らしいです。

えっ、じゃ今は何に使われているの?早く返還したほうがいいんじゃないのでしょうか。
秘匿壕が見つけられなかったくせに、えらそうに書いておきます。メンバーの見つけたお墓には、「伝道」という文字がありました。「伝道」は地名です。「北谷」「玉代勢」とともに戦前まで栄えていた字名です。昔は「北谷三箇(ちゃたんさんか)」と呼ばれていて、「北谷グスク」の城下町でもあったようです。グスクの南部、すなわち現「キャンプ瑞慶覧」内に位置していたようです。

つまり、この墓は基地内にあったものを戦後この地へ移動したものと思われます。「基地の島」の一面を垣間見た思いがしました。

付け加えておくと、森で見た「北谷郷友会」も、現在では消滅してしまっている字の郷友会だと思われます。

なお昨年には北谷町教育委員会が、基地建設で消滅した地名や屋号を紹介する文化財調査報告書「北谷町の地名」を出版しているようです。

次回が最終回です。



2007.12.01
北谷へ行ってきました(4)
報告もいよいよ最後です。

つづいて今回のメインの活動である「人気のあるラーメン屋でラーメンを食らう」です。なんでも〈北谷の王〉によれば、「テレビでも紹介された」らしいです。

〈北谷仙人〉に連れられて、メンバー一行はラーメン屋へ。原付一台が迷ってたことはこの際どうでもいいでしょう。

ラーメン屋はズバリ「追手丸」。

もしかして知っている人も多いかもしれません。
PB250091.JPG
喰ったでー

ラーメンで腹いっぱいになったあと、行くあてもなくさまよっていたら、「ザ・ビーチタワー沖縄」にたどり着きました。

すると、どどこからか獣臭がするではありませんか。近づいてみると、ヤギ2匹とワンちゃん3匹。

幼い子どもに混じってワンちゃんと戯れていました。

カメラマンもワンちゃんの可愛い姿を撮ろうとレンズを向けます。ところが、ワンちゃんたちは、こともあろうに向きを変えてケツばっかりみせます。

カメラマンは愚痴ばっかり申していました。その後もメンバーに「今、今がチャンスだよ!」と催促されてましたが、果たして絶妙なシャッターが切れたかどうかは、写真を見てみて判断するとしましょう。
PB250094.JPG PB250099.JPGPB250096.JPGPB250092.JPG

「タワー」の入口には、リスもいました。先ほど「獣臭」と書いたのは、やや誇張なのですが、こちらの方は正真証明、獣臭がしました。くさかったです。木の実かなんかを噛んでて、頬がぷっくり膨れていました。

可愛いけど、獣臭が・・・。

と、まぁこんな感じです。2時半には解散と相成りました。あまり行き先を決めず、さまよい歩くのは旅の会のパターンです。慣れてないメンバーは「予定ぐらい立てておけよ」とムスッとしていましたが、これが旅の会です!

仙人の報告も聞きたいっすね!

そして、ドライバーありがとう!

以上です。



※以下は、より詳しく北谷を知りたい方にオススメ。

2007.12.01
北谷について(1)
旅の会が、ただ単に北谷にドライブに行っただけではない証拠を・・・

「北谷町史」より調べた件を載せておきます。メモ程度ですが、ここから知りたいことを掘り下げればいいかなぁと思います。

1、基地が覆っている町

町域の53.5%が現在も基地で、沖縄では嘉手納町、金武町に次いで3番目に基地の占有率が高いということです。

嘉手納基地、キャンプ瑞慶覧、キャンプ桑江、陸軍貯油施設・・・

2、昔はもっと広かった

だいぶ昔の話になりますが、近世初期は現在の宜野湾市字安仁屋、嘉手納町域、沖縄市字山内までを含む地域を北谷間切といいました。

島津侵入後に間切が新編成され、沖縄市字山内は越来間切へ、宜野湾市字安仁屋が宜野湾間切に組み込まれました。

ちなみに「間切」は、今でいう村みたいなものです。

琉球処分以降は、現在の嘉手納町域までも含めた地域が北谷村となります。戦後すぐの一時期に胡差市に編入されたこともあるみたいです。

全域が米軍に占領され、一部居住が認められた1946年以降も南北に二分されてしまい、基地恒久化が強まった1948年に嘉手納村が分村されました。

基地が占有していて居住空間が狭いため、戦後は台地や丘陵部が開発されたり、海上埋立て(字宮城)で、いくぶん広がりました。これを「広がりました」と書いていいものかどうか・・・。

3、宮古、八重山とのつながり

昔は麻苧(あさお、苧麻からとれる繊維)が栽培されていました。首里王府時代に貢納布とされていた宮古上布、八重山上布などの原料の一部は北谷間切から供給されていました。

4、本土とのつながり

嘉手納町砂辺にあるクマヤーガマには、約2500年前縄文晩期の人骨とともに、ヒスイ製管玉が発見されています。これは新潟県糸魚川産であることが判明しています。

また同じく砂辺サーフ原遺跡では、佐賀県腰岳産の黒曜石が発見されています。

これらの見返り品として、ゴホウラなどの貝が贈られていたようです。当時の貝が九州、本州はおろか北海道でも出土しているそうです。「貝の道」恐るべし!

5、古琉球期の北谷

北谷グスクのほかに、屋良グスクというのもありました。現代版組踊で有名な「肝高の阿麻和利」の出生地とも言われているそうです。現在は「屋良城跡公園」となっています。


時代はよく分かりませんが、読谷から宜野湾にかけて変な石板が10数点発見されています。「沖縄のロゼッタストーン」とも呼ばれています。詳細は不明とのことです。

6、島津侵入の頃。

1609年、薩摩侵入が起こりました。なぜ?という部分が書かれていたので、まとめておきます。

ひとつは、幕府の対明(ミン)政策の一環だったということです。秀吉の朝鮮出兵などで絶交状態となっていた明朝との通商関係を回復するため、琉球の仲介役に期待したというもの。

もうひとつは島津氏内部の権力編成問題。当時島津は、鹿児島・加治木・国分の3つに権力が分化していたそうです。それを琉球侵略軍の編成を期に権力の一元化を目指したのだそうです。

侵略は、あっという間でした。1609年3月4日、島津連合軍3000余が出発、8日には奄美大島を制圧、順次奄美諸島を制圧し、3月25日には古宇利島着(現今帰仁村)、27日には今帰仁城を占拠。29日には読谷村大湾着。4月1日那覇着、首里城占拠。5月15日には尚寧王を乗船させた船が那覇を出港しました。

北谷では雍肇豊(ようちょうほう)佐敷興道を主将とする守備部隊が配備され、北谷グスク付近で激戦が展開されたそうです。大湾に到着した部隊が、陸路で南下したかどうなのかはっきりしないようなのですが、いずれにせよ、島津侵入が北谷にも大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。

7、インディアン・オーク号の漂着

時代は一挙に飛びますが、1840年8月14日、イギリスの輸送船インディアン・オーク号(東インド会社所属)が北谷沖で座礁し、漂着しました。46日間滞在後、琉球側が建設した「琉球丸」に乗って去っていきました。

「町史」に通訳の沖縄人とイギリス人の船長のやり取りが紹介されていますが、これがまた面白い。

通訳の言葉には薩摩藩の侍(トゥカラ人)への嫌悪感がただよい、船長は乗組員のインド人に対する不信感を隠さない。なんとなく、当時の沖縄と世界の状況が凝縮されているようで興味深いです。船まで造ってもらって、当時イギリスでは「善きサマリア人」として沖縄人が紹介されたようです。

たしかに食料も燃料も無償で渡したのですが、どうやらそれは当時幕府の出していた外国船の扱いに従ったまでで、無償であったのは通商の口実を与えないためだったみたいです。つまり「善きサマリア人」は、沖縄人の「巧みな交渉術」の賜物だったのです。

のちにベッテルハイムというイギリス人宣教師がやってきて、9年間も住み着くことになりますが、彼は1人も信者を獲得できませんでした。「『善きサマリア人』なんてウソじゃないか!」と怒っていたそうです(笑)。

つづく。



2007.12.02
北谷について(2)
前回の続きです。

8、近代の北谷(1)

交通の要衝として、中部地域の経済の中心地でした。国頭街道(現在の58号線)が1915年に開通、県営鉄道嘉手納線が1922年に開通、1917年からは那覇ー名護間のバスが運行開始。

1912年には嘉手納製糖工場が設立されました。当時の沖縄は、自給食糧として甘藷(サツマイモ)を生産し、換金作物として甘蔗(さとうきび)生産をしていました。

北谷はとくにさとうきびの作付け比重が高かったようです。

9、近代の北谷(2)

北谷は移民の多い地域でもあります。急増したのは第一次世界大戦後です。大戦後の戦後恐慌にはじまる1920年代以降の慢性的不況下で、海外や本土への移民が急増しました。この時期、沖縄は「ソテツ地獄」といわれる厳しいと時でした。喰うものがなく、ソテツを食べて中毒になったことから、そう呼ばれています。

海外移民は、明治期は北アメリカ、ハワイ、フィリピンなど。合衆国などでの排日運動がさかんになると、今度は南米への移民が増えました。大正から昭和期にかけて、フィリピンや南洋諸島への移民が増えていきます。当時の日本の南洋政策にのったものでした。

やや詳しく書いておきます。「南洋興発株式会社」や「南洋水産株式会社」という国策会社の下で、移民が推進されました。日中戦争以降には県・社会課が「南洋開発勤務隊」を募集しています。

この頃、第一次近衛内閣のもとで北谷出身の衆議院議員であった伊礼肇が拓南参与官に就任したのも、移民を後押しすることになりました。

1941年には金武町に「県立沖縄拓南訓練所」が開設されています。北方は満蒙開拓、南方の南洋開発という位置付けです。

満蒙開拓団としても沖縄から1000人が海を越えて大陸に渡っています。詳しくは省きますが、「兵農移民」として戦争の一画を担うものでした。

一方の本土出稼ぎは、やはり大戦後から急増します。主に阪神、京浜、中京地域へ行きました。資本は不況期に高賃金の職工を解雇し、不況対策として沖縄、奄美、朝鮮の低賃金労働力を求めていったのです。

10、沖縄戦

北谷には中飛行場(現嘉手納基地)と北飛行場(現読谷飛行場)がありました。そのため上陸前には、激しい爆撃を受けています。基地自体は、3月31日(米軍の本島上陸の一日前)に破壊命令が出されています。米軍に使われないための処置でしたが、上陸した米軍はすぐさま修復して使えるようにしていたようです。

北谷にいたのは賀谷部隊。米軍上陸時に対しては、平安山海軍砲台(現嘉手納基地内の「ウカマジー」と称する岩山の上にあった)などから射撃を行なったそうです。賀谷部隊はほとんど戦死しているようです。

北谷は上陸後すぐに占領されました。現在のハンビータウンにあたるところに仮収容所である北谷収容所があり、住民はそこに収容されました。1週間ほどでさらに南部の宜野湾市野嵩(のたけ)の収容所へ。

一方、砂辺収容所に入れられた住民は、北中城村の島袋収容所へ。7月にはさらに宜野座へ移されたそうです。村に戻れたのは、翌1946年からだったみたいです。

11、ハンビー飛行場

現在のハンビータウンが基地だったことは知られています。1951年に建設され、小型飛行機用飛行場でした。当時は、海軍ヘリ基地の「ズケラン飛行場」という名前でしたが1960年より「ハンビー飛行場」に改称されています。1981年12月31日に全面返還。返還後、仮収容所時代の遺骨収集がされたそうです。

終わり。また会う日まで~


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