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最近「日本の思想」(岩波新書、丸山真男著)を読みました。何でいまさら丸山真男?という感じもしますが、流行りに流されない読書も大事かなと思いました。
ウィキペディアによれば 攻は日本政治思想史。丸山の学問は「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれ、経済史学者・大塚久雄の「大塚史学」と並び称された。マックス・ヴェーバーの影響を強く受けた学者の一人であり、徹底した合理主義者と評することもできる。 大塚久雄トカマックス・ヴェーバーとか名前だけは知ってる。でも何を考えていた人かはほとんど知らない。というわけで前知識無いと言っていいです。 結果。 書いてあることはほぼ一点に絞られていると思うけど、はっきり言って読みづらい。まず文体。明治期の思想家や政治家の引用があるけど、旧仮名は訳すか現代仮名遣いにしてほしい。そのくらいの親切さはあってもいい。 せっかくいいこと言っていても、雰囲気で堅苦しいと思われるのはもったいないし、そもそもこういう人たちが新書出版する意義は、難しい内容を素人にも分かりやすく説明することだと思う。 文句ばかりでは何も前進がないから次へ行きます。たぶん示したかったのは以下のこと。 「あらゆる時代の観念や思想に否応なく相互連関性を与え、すべての思想的立場がそれとの関係で―否定を通じてでも―自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった」 著者はこのことをはっきりマイナス面として描いている。西洋でいえばこの座標軸は「キリスト教」が担ってきた。日本の場合、古くからある儒教も仏教も神道もそういう位置になることはなかった。それが日本の伝統。 そこで明治政府は、「国體」つまり天皇制を政治権力に置くとともに「座標軸」としようとした。著者は以下のように書く。 「日本の近代天皇制はまさに権力の核心を同時に精神的『基軸』としてこの事態(=精神的雑居性)に対処しようとしたが、国體が雑居性の『伝統』自体を自らの実体としたために、それは私達の思想を実質的に整理する原理ではなく、むしろ、否定的な同質化(異端の排除)作用の面だけ強力に働き、人格的主体―自由な認識的主体の意味でも、倫理的な責任主体の意味でも、また秩序形成の主体の意味でも―の確立にとって決定的な桎梏となる運命をはじめから内包していた」 これ「おわりに」の文章、つまり「まとめ」です。なのに決して分かりやすくない。 この人の文章、「。」が少ないんですよ。英語で言うと関係詞がいくつもあるような長文。接続詞でつなげばよっぽど読みやすい文章になるはずなのに。せっかくいいこと言っててもなかなか伝わらない。読み手の自分たちも読む努力は必要だと思う。でも、書き手の努力も必要だと思う。その点、新聞記者の文章の平易さは驚かされる。 やや内容とズレてしまいましたが、ここで気になったのは「雑居性」という表現です。日本にはそのような「伝統」があると著者は言います。 どういうことかというと、初めに引用した「座標軸」がないから、思想と思想の関係やそこから新たな思想が出てくるとか、そういう過程がなくて、ただいろんな思想なり観念が位置を占めてるだけ。ちょうど一つの部屋に思想が雑魚寝してる感じ。お互い話もしない。これは明治維新をはさんでも基本的に変わらなかった。 しかも「神道」自身が「雑居性」を内包する思想だった。それがもし国家神道として国家の中軸に居座ってしまったとしたら・・・ それが多分著者の「おわりに」の文章に表現される事態でしょう。 ではそうした失敗の後に続く「戦後の私たちはどうすればいいのか?」それが最後に著者の示したかったものなのだと思います。それは・・・ 「強靭な自己制御力を具した主体」 これがすべてです。簡単にいえば「しっかりした自分を持て」くらいの意味でしょう。結論はなんとも他愛のない物にも感じますが、これがまだ「戦前を引きずっていた戦後」という時代(第一刷発行が1961年)なのでしょう。 「他愛がない」と書きましたが、自分の中に「座標軸」を持つことは簡単なことではありません。著書より40年以上たった今、ますます膨大な情報に洗われているわたしたちが、「強靭な自己制御力を具した主体」を獲得することは並大抵なことではありません。 少なくともそのことを自覚できているかどうかは大事かな、と。流行りの、かっこいい、分かりやすい、だけの、ただそれだけの思想や主張に流されないこと。そのことがどれだけ簡単でないかは、ときどき自省してみれば気づきます。 そういう意味で、「日本の思想」は古くてなお新しい問題を提起しているのかもしれません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.11.12 14:29:32
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