福岡県福岡市 『櫛田神社②』
福岡県福岡市 『櫛田神社①』の続き。夫婦恵比須神社。御祭神は事代主大神(コトシロヌシノオオカミ)、玉櫛姫大神(タマグシヒメノオオカミ)。男女2柱の恵比寿様を祭る。御神徳は大漁満足、商売繁昌、夫婦円満、良縁成就。白龍権現社、児安社。白龍権現社の御祭神は白龍権現で、財布の神とされている。児安社の御祭神は子安観音で、慈母、安産、養育、智恵の功徳がある。摂末社の石鳥居。右手にある社殿に置けないためか、この1ヶ所にいくつかの摂末社の鳥居を集めている。二十二社。御祭神は二十二柱の天神地祇。旅行、山海田、相撲、開拓、織物の神、道祖伸。境内社の合祀殿。石堂神社、松尾神社、諏訪神社、金刀比羅宮、竈門神社、淡島神社、白鳥神社、今熊野神社、手置帆負神社、少彦名神社、松木天満宮。注連懸稲荷神社。読みは「しめかけいなりじんじゃ」。御祭神は倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)。御神徳は五穀豊穣、商売繁昌、鍛治。大正天皇行幸殿。1916年(大正5年)に行われた陸軍特別大演習に大正天皇が行幸され、行在所が旧福岡県庁に設けられた。後にその用材を使って大正天皇行幸記念殿が造られ、1956年(昭和31年)に当社に移築された。手前の池には、博多大水道の石蓋が架けられている。茶室。大正天皇行幸殿の裏側にある。博多塀。豊臣秀吉の博多町割りによって、街には焼け瓦、焼け石が厚く塗り込められた土塀が連なり、それを博多塀と呼んだ。この博多塀は博多の豪商、嶋井宗室の屋敷にあった最後の博多塀を移築再建したもの。川上音二郎の寄進碑。博多出身の芸術家、興行師で新演劇の祖としても知られ、オッペケペー節で一世を風靡した川上音二郎が、上京後に博多の資産を寄進した記念碑。切木ぼたん。佐賀県指定天然記念物に指定されている。豊臣秀吉の怒りに触れ、流刑となった岸岳城主の波多氏が愛した花で家臣によって密かに育てられていたといい、その話に感銘を受けた博多の人々がいつしか山笠に牡丹の花を飾るようになったという。花本大神句碑。裏面に「蓬莱に聞ばや 伊勢の初便」とある。花本大神とは松尾芭蕉の神号である花本大明神のこと。博多では江戸中期から明治にかけて蕉風俳諧が広く好まれていたといい、松尾芭蕉芭蕉の二百回忌に有志によって1893年(明治26年)にこの句碑が建立された。句碑のすぐ隣には河津桜が咲いていた。櫛田会館。現在の会館は2023年(令和5年)に竣工したもの。社務所。北神門。前には銅製の鳥居が建っている。博多備荒米の碑。安永年間に行われた博多義倉と呼ばれる制度にまつわる記念碑で、天変地異、非常災害に備えて博多の有志が米を貯蔵し、用心米として庶民の救済に使ったという。最近話題となっている備蓄米と似たようなものだろうか。博多廉売の碑。大正時代に戦乱の影響で物価が高騰し、食料品を含む様々な商品が異常なまでに値上がりした。その原因は流通のシステムに欠陥があるとして1918年(大正7年)に博多の有志が博多廉売会を組織し当社に市場を開き、産地直送品を原価販売した。それ以来市内の市場にも廉売市場ができ、庶民の生活は安定したという。前述の博多義倉と共に櫛田神社が信仰の場だけでなく、庶民生活と密接な関わりを持っていたことを今に伝えている。楼門をくぐってすぐ右手にある河津桜。訪れた時はちょうど見ごろを迎えていて、枝いっぱいに沢山の花をつけていた。河津桜の他にもしだれ桜、オカメザクラ、梅、しだれ梅も見られる。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村