福岡県うきは市 『筑後吉井伝統的建造物群保存地区』
豊後街道沿いに漆喰塗の重厚な町屋が連なる町並みと、災除川や南新川沿いに広がる屋敷群。かつて吉井町は水が少なく、田畑が潤わず農作物が採れない土地だった。これを見た5人の庄屋が筑後川から水を引き入れる工事を始め、1664年(寛文4年)に人工の川である南新川が完成。この事業が大成功を収め、吉井町は有馬藩有数の穀倉地帯となり、更に南新川に水車や唐臼が造られ精米、製粉、酒造、菜種油など商業・工業の町として栄えた。江戸時代以降は久留米城の城下町と天領日田を結ぶ豊後街道沿いの宿場町として発展した。莫大な富を得た町の商人たちは1869年(明治2年)の大火を契機に、防火性の高い白壁土蔵の住居を競うようにして建築するようになり、最盛期を迎えた大正時代に現在の町並みがほぼ完成している。太平洋戦争後の経済・社会の変動によってかつての町並みは失われていったが、1996年(平成8年)に重要伝統的建造物群保存地区の選定を受け、修理修復が行われ現在の町並みが保存されている。町中には豊後街道の白壁土蔵の町並みや、かつて町を支えた河川や水路、明治時代の趣を残す居蔵の館や鏡田屋敷など歴史的な建造物が建ち並び、歴史散歩を楽しめる。また、豊後街道には白壁造りの屋敷をリノベーションした旅館や喫茶店も数軒ある。豊後街道(国道210号線)。街道沿いには白壁土蔵の町並みが立ち並ぶ。古くは久留米城の城下町と天領日田を結ぶ街道だった。明治時代の後期になると筑後軌道が繋がり、1914年(大正3年)からは蒸気機関車が走っていた。町並み交流館商家。かつて乾物魚類問屋として知られた、1690年(元禄3年)から続く老舗の問屋である松原商店の建物。古くは冠婚葬祭にあたり、まず松原に行って諸材料を買うならわしになっていたそう。建物は1928年(昭和3年)に建てられたもので、元々は外壁が黒色の漆喰となっていた。現在は町並み交流館として活用されており、1階にはお食事処 白花綜がある。白壁通り。白壁土蔵の重厚な町並みが残る。春になると筑後吉井おひなさまめぐりが開かれ賑わいを見せる。南新川。水に恵まれず農作ができない場所だった吉井町を救うために、5人の庄屋が工事を進めて造った人工の川。1664年(寛文4年)に完成。この川が完成したおかげで、吉井町は有馬藩有数の穀倉地帯となっただけでなく、商業・工業の町として大いに栄えることとなった。現在も小さな用水路として流れており、町の人々の防火用水、生活用水として活用されている。菊竹六皷記念館。菊竹六皷は西日本新聞の前身である福岡日日新聞に所属していた福岡県出身のジャーナリスト。五・一五事件において陸海将校が犬養首相を襲撃した際に軍部の行動を厳しく批判、その後も当局の圧力に屈することなく日本の軍閥政治化に警鐘を鳴らし、議会政治の擁護を訴え続けた。この記念館はその菊竹六皷の偉業を後世に伝える為に建てられ、資料展示室や和室、ホールを備えている。素戔嗚神社。御祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)。かつては祇園社と呼ばれていた。現在の社殿と楼門は1894年(明治27年)に改築されたもの。東光寺跡碑。かつてこの地には上町にあった東光寺(祇園社)があり、久留米城内慈恩院祇園寺の末寺だった。明治時代の神仏分離令によって東光寺は廃寺となり、祇園社は素戔嗚神社と改称した。ちなみに東光寺は廣瀬淡窓の生母であるゆいの実家で、東京大学名誉教授で農学博士の後藤格次の生家でもあった。鏡田屋敷。筑後吉井伝統的建造物群保存地区で現存する唯一の屋敷型建造物。当初は郡役所の官舎だったと言われており、明治時代後期に郵便局長だった佐藤氏が居住、昭和初期に籠田氏が居住していた。建物の正面部分は1863年(文久3年)に郡役所として建てられ、背面の座敷と2階の増築が1893年(明治26年)に行われている。見学料は無料。部屋は一部の敷居が高くなっている。郡役所の官舎だった頃の名残だそうで、位の高い役人がいた部屋だと言われている。大広間。隣接した部屋を含めると約50畳の広さがある。金庫。この家に代々置かれていた金庫だと言われているが、何故か上下逆さまになっている。2階の中広間。かつては目の前に田んぼが広がっていたといい、水が張られていた時は大変美しい景色となっていたそう。奥の方には耳納連山が見える。主屋の小屋組。庭園。南新川から水を引き込んでおり、今も庭園の中に水が流れている。居蔵の館。筑後吉井伝統的建造物群保存地区の土蔵造りの中でも完成度の高い居蔵屋の一つ。明治時代の末期に建てられ、大正初期に改築がされている。精蝋業で財を成した大地主の分家として銀行経営に携わっていた当主一家が居住していた。戦後しばらくの間は空き家となっており荒れていたが、吉井町から譲渡を受け復元され、現在は内部が公開されている。見学料は無料。土間。建物に入って最初に見れる場所。2本の大黒柱がある。店でなく勝手口で、荷車が玄関や土蔵を往来していたと言われている。玄関。客を迎える際はこちらの玄関が用いられていた。角座敷。約21畳の広さをもつ。浴室。天井は蒸気を逃がす構造となっている。組子障子。女柱。大黒柱のうちの1本。面が丸く削られている。中庭。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村