2017/09/20(水)14:56
小田原城その1
H29.9.16 訪城
台風18号による雨の前に行こうと思い出発。
予習として小田原市のサイトよりマップを入手。
出典:http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/odawaracastle/info/route/
出典:http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/odawaracastle/info/pamphlet/
小田原城は町全体を総構えで囲むという西欧や中国の城のような構造をしていたことで有名。
その総延長は9キロにも及ぶという。
ちなみに江戸城総構えの延長が15キロ。
田舎の有力大名であるだけの北条氏なので実際には作っておらず、砦のネットワークで守っていたのでは、とあまり期待していなかった。
「三の丸小学校前」のタイムズに駐車し、小学校の前から御茶壺曲輪から二の丸へと入っていく。
曲輪内部の土塁
古地図によると昔はここに道はなく、東側の馬屋曲輪を通らなければならない。
訪問当時は馬屋曲輪と二の丸を結ぶ住吉橋が改修中のため立ち入れなかった。
住吉橋と枡形門
枡形の正面門は、門が城壁よりも高くなる形のものばかりだと思っていたが、この門は城壁よりも門の屋根が低い位置にある。
なかなか見たことのない形式。
直進し本丸大手の常盤木門より本丸に入る。
わずかに見える常盤木門
かつては枡形門だったがなぜか不完全な再建。
礎石も残っていた。
ここでようやく平山城であることがわかった。
かつての本丸前の水堀では稲や蓮を植えている
本丸は天守の資料館や、関東大震災で崩れた石垣が残る。猿を飼っているのは秀吉への当てつけかw
三重にしてはかなり大きい天守
豊臣秀吉の小田原征伐ののち、徳川家康が関八州に移封され、小田原には大久保忠世が入城した。
彼は三河一向一揆の際、一家で改宗して家康に仕えた忠義の士である。関東の入り口を抑える小田原を任せられるほどに信頼されていた。
彼の息子・忠隣は幕府の重鎮であったが大久保長安事件に連座して改易され、紆余曲折を経て彼の子孫が再入城し明治まで続いたという。
*大久保長安は石見銀山や佐渡金山で莫大な利益をあげただけでなく政治にも優れた能吏であるが、これまた莫大な額を横領していたとされ死後に息子7人処刑のほか、関係大名も連座して処分された。
ジオラマ
長くなりそうなので総構えと石垣山城は次の機会に。