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カテゴリ:政治
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本日より再開します。今後も宜しくお願いします。 *** *** *** *** *** ルール、規則というのは、不正や誤りを防止したり、 人々に同じ行動を求めるという点では効果的、効率的であるが、 時に「例外」「想定外」を排除し、“現実”を生きる人々に冷淡である。 事実、役所では規則が想定していない“現実”に直面した場合、 無理やり“現実”をねじ曲げ規則に合わせるということが行われている。 役所でそのようなことが行われているのは、 決して職員が悪人であるからではなく、むしろその逆で、 「変えることのできない規則」あるいは 「変えることができるとしても、変えるには極めて煩雑な手続きが必要な規則」 に直面した結果、現実をねじ曲げたほうが得であると判断するからなのである。 役所では、現実のねじ曲げが頻繁に行われている。 頻繁に行われる理由は、あまりにも規則が多く設けられすぎており、 かつその規則が解釈や融通を許さないためである。 そして、さらに悪いのが、 「想定外の現実」を少しでもなくすために、また規則が増やされ、 それでも当然“現実”のすべてを規則に盛り込めないことである。 規則は解釈や融通を許さない。 まだ職員に「規則を修正する」か 「現実をねじ曲げる」能力や批判的な思考が残されていればいいが、 最悪の場合は「想定外の現実」を認めず、 つまりは思考停止に陥り、 「それは規則にないのでできません」と機械的な発言をするのである。 日常の些細なできごとならば、まだ致命的ではないが、 今回の東日本大震災のような非常時には、 この硬直的な規則が致命傷となりかねない。 規則に慣れきっている役人は、「想定外の現実」が規則に規定されていないことで、 すぐに行動を起こすことができていない。 そして、「行動をするには、まずは規則を整備してから」と行動が遅れてしまう。 少し異なるが、義援金の配布が極端に遅いのも類似の問題である。 法治国家だから仕方がないと言えばそれまでであるが、 規則は時に「現実的に正しい」行いも排除してしまうことを忘れてはならない。 通常の人間関係であれば許される些細なことも、 規則で規定することで、「許すことのできないたいそうなこと」になってしまうのである。 福島原発の事故で、20kmが警戒区域となり、 住民は区域内への立ち入りが制限されている。 テレビで、畑を見に来た住民が 畑の目と鼻の先で警察に足止めされているところが放映されていた。 畑はすぐそこに見えているのに、 目には見えない20kmという線の向こう側へ立ち入ることは許されない。 警察は申し訳なさそうに「これより先の立ち入りは、自治体の許可が必要です。」と言う。今、住民が立つその場所と、そのすぐ先にある畑との間にどれだけの差があるのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年05月08日 23時54分36秒
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