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テーマ:ひとり言・・?(18171)
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思うに、ビートたけしと所ジョージは好みにとやかく左右されないのではないか。
某有名ラーメン店で注文した品を食べてみると、全くと言っていいほど期待を、勝手な期待ではあるが裏切られることがある。それはただ単にその人の好きこのみかもしれないが、絶対に人には進めない。人付き合いと逆にポーンとはねることができる手軽さを持っているのも実はホッとすることでもある。 表面化の良さ、ラーメンの場合のそれは広告や噂。人間の時は第一印象と噂。でも、実際はどちらも貫通とまでいかなくともある程度やりとりをしないとわからないことでもあるが、忙しい人はそういうことでの時間の無駄を省きにかかると思う。あの店だけはもう絶対にいかない。など。 所ジョージや、ビートたけしの場合であればどうだろう。番組作成者がどんな人物であろうと、世間のほとんどが彼らの全てを知り尽くしているかのように期待をこめて時間を過ごす。私が思うに裏も表も、光も影も、ほぼ同時に表現し、そしてまたそれを受け入れられている事実があるからだと思う。 普通の人間は自分の持つ隠したい部分を表すことがないし、それを表すとあまりいい事がないのを知っている。知っているが、事実、そこのところを変えずに抱き、ある部分の人には見せてあるところでは非公開。それで受け入れられてその後何があるだろう。背負ったものを隠し通していきていくという限りないストレスだけではないか。 彼ら二人は陰の部分に光と同じか、もしくはそれ以上の魅力をもってるのではないかと思った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年01月23日 00時14分10秒
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