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2019年12月24日
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全9件 (9件中 1-9件目) 1 盧溝橋事件の体験談
テーマ:戦争体験を語り継ぐ(18)
カテゴリ:盧溝橋事件の体験談
三発の銃撃のあと、日本軍は一発も撃たない。
(もちろんその前も撃っていない) 演習も中止になった。 支那軍もその後、一発も撃たない。 しんとした闇の中、どちらの軍もその後は一発も撃たない。 世界中で、この盧溝橋事件の事、三発の銃弾のことはいろいろ 論じられているようだ。 日本軍からの発砲だというものもあれば、 仮設敵が撃ったのだというものもあるようだ。 それは誤解であることを、伝えなければと思う。 我々仮設敵3人は、弾は一発も撃っていない。 しかし、その後、隊に戻った仮設敵3人は、近くに弾が落ちた事を隊の他の者に報告していない。 なぜ報告しなかったか。 今と違い、昔は軍の上からの命令に従うのみで、こちらから意見を言ったりするようなことはなかったのだ。 もちろん、聞かれれば答えたことなのだが、残念ながら何も聞かれなかった。 こちらから上官に余計な事を話しかける余地はなかった。 仮設敵は部隊編成から離れた兵である。 編成された隊員と違い、編隊から外れているので、 軍の中での会議などにも加わらないし、発言の場がない。 軽く見られていたように思う。 故に、この事は、現在まで、 日本軍も含めて誰も知らないことかもしれないのだ。 あの日、撃たれた3発は、一文字山にすべて落ちた。 この事を、皆さんに伝えたい。 今では、間違った証言などを元にそれがさも事実であるように語られている。 今まではそれを我慢してきたが、靖国神社問題をはじめ、先の戦争についてのみなさんの知識や気持ちを考えると、どうしても知っていることを話さなくては、と思うようになった。 (パソコン家庭教師の代筆)
テーマ:戦争体験を語り継ぐ(18)
カテゴリ:盧溝橋事件の体験談
![]() 昼間は図面に1番と書いたあたりで様々な演習をし、 弁当などを食べながら3番の道程をたどり夜間演習に向けて 移動をしたのだと思います。 (おじいちゃんは仮設敵なので隊とは別行動です 山から動きを見ていたのでだいたいのことは推察できますが 詳細はわかりません) おそらく4番の河原付近で休憩や弁当(夕飯)をとろうという計画では なかったかと思いますが、当日隊が行ってみると、 それまではなかった壕ができていたそうです。 この時の事は他の方の回想にあり、相手方の支那軍の 兵士に両手を広げ、ここから先に行くなというようなジェスチャーをされ、 野地少尉が支那の言葉で話しあい、河原へ行く事はあきらめ、 方向を転換したと思われます。 それで壕の前にそって移動し、そのあたりに陣取ったのでしょう。 この頃の支那軍は、なぜこのような時期に、このような何もないところに 急いで戦闘用の壕を掘ったのか。 しかも、日本軍が駐屯して演習を行っている土地に向けて作ったのか。 この日より前のこと、本来の演習場に行くには、 城門を開いてもらい、苑平県城の中の道を通り盧溝橋を渡らなければならないが、それを拒否され数時間待たされるという嫌がらせもあった。 そこを通って定められた演習場に行く事は、支那との間での取り決めになっているのに、おかしなことだった。 また、夜間演習の時の発砲は、なぜ、近くに居る八中隊に向けてではなく 遠くの一文字山(仮設敵の待機場所)を狙ったのか。 かなりの距離があるので、銃口を上に向けて放射線を描くように 計算して撃たねばならない。 多くの回想録などの証言では、弾がどこに向かって撃たれたものか書かれていないようだ。 私はこれは仮設敵(一文字山)に向けて撃たれたものだと確信している。 実際に弾が3発近くに落ちるのを見たり聞いたりしている。 その距離から正確に撃っているのだから、大した射撃の腕前だと思う。 おじいちゃんの推測では、演習開始の合図が中隊から仮設敵(一文字山)に 向けてあり、それに応える形で、仮設敵側から合図をした、その灯りを 目標に撃ってきたのではないか。 なにもない広原、あたりは真っ暗闇である。 (パソコン家庭教師が代筆)
最終更新日
2006年01月30日 11時13分01秒
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2006年01月27日
テーマ:戦争体験を語り継ぐ(18)
カテゴリ:盧溝橋事件の体験談
軍には三ヶ月間の一期の教育期間があります。
それは初年兵の入隊からの三ヶ月間で一期を終了するわけですが、 私たち三ヶ月目の夜間演習をするために盧溝橋に行きました。 苑平県城の東側、ここは永定河までの間は広原です。 盧溝橋事件の当夜、 そこで夜間演習が始まったのです。 一文字山は永定川より1000m近く離れております。 その山の稜線に仮設敵がそれぞれが自分の入る穴を作って待ちます。 永定河の方面から初年兵の夜間練習をする兵隊たちは 攻撃する一文字山を目指して進む予定であったのです。 支那軍は永定河の土手に新しい壕を掘り始めているのを私は見ました。 日本軍の演習を妨害しようとしていると感じました。 夜の攻撃(夜間演習)を昼間から準備し、 一文字山に待機している3人の仮設敵兵は、 開始されるときに、(夜間演習)攻撃側の隊からの合図によって 一文字山の仮設敵がそれに応えてまた合図をし、夜間演習が始まる。 演習では這っていったり、ほふく前進したりの練習をします。 しかし、この日は、合図があったと同時に支那軍より発砲されました。 そういう状態の時には、中隊長以下、八中隊のみの夜間演習ですから、 遠く北京の街におられる牟田口連隊長はその ようなことは知るよしもありません。 牟田口連隊長が「俺が第一発を撃たせて戦争を起こした」と軍内部で公言しています、とおっしゃる方もおりますが、 軍内部での計画があったというような表し方は、 とんでもない大間違いです。 ![]() ○写真は、盧溝橋事件の起こる以前の、 一文字山付近での昼間の演習風景と思われます。 剣を付けた銃を持って斜面を登る練習です。 このような時に、銃を撃ったりはしません。 這うようにして上って、敵に気づかれずに近づくとか、 撃たれないように近づく、上官の号令通りの動きができるかなどが 演習の目的です。 たとえ空砲でも、射撃の演習は、 決まったときに決まった場所で行います。 盧溝橋事件の当夜、行われた演習も、このようにして 斜面を登っていくことが主な目的です。
最終更新日
2006年01月27日 11時58分57秒
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2006年01月26日
テーマ:戦争体験を語り継ぐ(18)
カテゴリ:盧溝橋事件の体験談
。
![]() おそらく、入隊し、支那に渡って間もない頃の日曜日、 兵舎の部屋の前で、同じ班の仲間たちと撮った写真です
最終更新日
2006年01月26日 11時40分06秒
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テーマ:戦争体験を語り継ぐ(18)
カテゴリ:盧溝橋事件の体験談
支那駐屯軍の八中隊(清水隊)は、普段でも薬箱(やくご)というものを腰に右左一個ずつつける。
左には、実弾がその時の情勢により30発前後を入れ、 演習の場合は、右には30発の空砲を入れて、行動しておりました。 (夜間演習当日も実弾30発と空砲30発を持っていたということ。) 盧溝橋の夜間演習には全員空砲も含めて一発も撃たない。 なぜなら夜間演習には敵が見えない場合であるから、撃つことはない。
最終更新日
2006年01月26日 10時59分45秒
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テーマ:戦争体験を語り継ぐ(18)
カテゴリ:盧溝橋事件の体験談
戦をするときには、どこかの国と戦いますが、その国が、演習の場合は仮設敵と見ます。
小さな娯楽的な的、それに向かって弓を打つ、銃で撃つ、そんなことで目標があります。 盧溝橋の夜間演習の場合、永定河が流れており、その何メートルか土手に 支那軍は今まで無かった所に新しい防空壕を掘り、いくつか仕上げる作業をしておりました。 その東側は広い原野であります。 これを私達兵隊は砂利取り場と言っておりました。 そこでほふく前進をしたり、さそりの多い所を這いまくっておりました。 そこには、栄定川から1キロぐらいのところに一文字山がありました。 高さは30メートル前後の低い山です。この山に向かってたびたび演習をしました。 入隊して3ヶ月間一期の訓練をやるのですが、 それが7月の7日の夜間練習となりました。 中隊編成のために、私は銃器を扱う係の兵隊となりました。 実際に攻撃戦闘体系の班が中隊でいくつかできるわけですが、私はそれ以外の兵隊になったわけです。 一文字山の仮設敵、これは、攻撃してくる兵隊の的、ねらい、攻撃する一つの目標、これを 仮設敵と言います。 仮設敵とは、同じ隊の進行上、仮の兵隊を一文字山の稜線に作り、私達3人がその仮の敵になったわけです。 これを仮設敵と呼んでいます。
最終更新日
2006年01月26日 10時58分40秒
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2006年01月23日
テーマ:戦争体験を語り継ぐ(18)
カテゴリ:盧溝橋事件の体験談
![]() それは、私達の2期の夜間演習中に起きました。 今日はその日のことを詳しくお話します。 夜間演習の夜、昭和12年7月7日 朝、豊台を出発。 鉄道を行進する隊と、畑を行進する隊。 目標は砂利取り場。 八中隊、全員集合。訓示あり。 山崎(私)は仮設敵。 仮設敵は初年兵2名とニ年兵1名。 仮設敵3名は隊を離れ、一文字山に向かった。 中隊は各分隊に別れ、演習に入る。 西五里地点、大瓦窟地点において演習。 仮設敵である私達は、一文字山の稜線に着き、周辺を見渡した。 苑平県城、その脇を平漢線が見える。 鉄橋もはっきり。 シルクロードの大理石の橋は見えない。 竜王廟の赤く塗った建物が見える。 一文字山と盧溝橋、竜王廟、これらを三角の点にして 竜王廟までは多少長く、その付近を人の動きが激しく動いていた。 稜線にいる私達は、三平壕を二箇所掘った。 八中隊の動きもかすかながらもよく見えた。 永定河の土手にわりと多い人影が動いているのが不思議。 八中隊は演習をして竜王廟に向かっていくのが わが一文字山稜線から、かすかながら見ることが出来た。 どの地点で昼飯にしたのかはわからない。 大瓦窟の端に、道でもあるのかな。 日本兵らしくない人影が見える。 (演習で)一文字山をどんな方向から攻めてくるかと考えていたが 大体、苑平県城の方角が、赤く夕焼けに染まる頃、 中隊は竜王廟あたりを演習しながら何やら動いているのが観察できた。 夜間演習の本番を二年兵は9時と見ていた。 6時過ぎても明るく、暗くならないうちに、飯ごうの飯を食べた。 その頃になると八中隊の動く影も見えなくなっていた。 竜王廟あたりをうろついていた人影はなく、永定河の土手の人も消えた。 一文字山周辺 百八十度真っ暗闇である。 家屋の明かりもなく、しかし、苑平県城にほのかな明かりが灯り 太鼓、ちゃるめら、笛、鐘、胡弓、様々な楽器の全く夢の世界に来たメロディが暗い空に流れてきた。 今日は七夕さまだ。空を見るとなんと星が今にも降って来る様に 星星の空だ。 ニ年兵が「永定河の方を見てろよ、光の合図がくるからな、見逃すな」と言った。 「はい」私ははっきりと答えました。 (9時なんだな。一文字山は2回目だ、頑張るぞ。 一時間もすれば、山を登ってくる。仮設敵3名は、しっかり守るぞ) と誓う。 永定河の方面から、暗闇を通して明かりが動いた。 「灯りが動きました」「よし、わかった」 ニ年兵は光を、一、二、三、と送った。 5秒も経たないのに、発砲。 音がして一文字山の右、私が立っていた6メートル下の地面に ぶつーんと、弾の落ちた音。勘で竜王廟の方向からだと思った。 何秒も経たないで頭上、右、5メートルくらいのところを ひょひょーんと弱り切った音をたてて後方に行った。 正面からの様に続いてニ年兵の立っている所から左下4メートルの地面に かなり大き目の音を出し、ぼそっと落ちた。 苑平県城の先か、暫らくは何が何だかわからない。 八中隊が実弾を撃ってくるなんて。 ニ年兵と三人は、とにかく隊が攻撃してくるのを(山を登ってくるのを) 待つ事にした。 待てど待てども、八中隊の夜間演習隊の兵は姿を現さなかった。 苑平県城の7月7日の、七夕祭りの祝いのメロディーも静かに消えて 夜空には見た事もない明るく光る星の大群が今にも降るかに見えた。 ニ年兵は、呟いた。 「どうしたのかな、遅い、何かあったのかな」と考えていた。 12時は過ぎたのではないか。 一文字山、空に浮かんでいる無限の星の中に、 下のほうから足音がして、「おおい、いるか」と叫びながら登ってくる兵隊。 「支那兵が発砲して来た。山を降りて隊に集合」 私達は突然の夜間演習中止に驚いた。 やはり、そうであったか。 野地少尉の小隊に加わり、朝の来るのを待った。 ********* 1.砂利取り場付近(昼の演習) 2.仮設敵が待機する一文字山(夜間演習の目標) 3.1→3→4とたどるピンクの線は八中隊の進んだ経路 4.この当時急に中国の兵によって作られた壕
2006年01月18日
テーマ:戦争体験を語り継ぐ(18)
カテゴリ:盧溝橋事件の体験談
軍隊の生活の一日は、朝、起床ラッパで始まります。
兵隊達は、班ごとにベッドを並べて同じ部屋で寝起きします。 一斑には班長が1名。初年兵を教育するための助手が2名くらいおります。あとは、10名~20名で二年兵と初年兵が半々くらいです。 起きるとまず点呼があります。 「人員は異常なし!」 身体が悪いのも異常なし、などと回ってきた班長さんに報告をして、初年兵は掃除、二年兵は与えられた仕事の準備、そうして朝飯になります。 ほとんどの初年兵が炊事場に行って、準備されたご飯や味噌汁をバケツに入れたものを持ってきて分配してテーブルの上におきます。 片付け物も初年兵の仕事です。 てきぱきと片付けないでもたついているとびんたがきます。 そのような厳しい生活に入りますが、慣れてくると兄弟のように楽しい場所でもあります。 すべてのことが号令一発で決まって行きます。 大体それが隊内の生活の始まりです。 その後、軍隊の訓練が始まるのです。 兵隊の基本訓練は、まず第一に「気をつけ!」から始まります。 その気をつけの動作、これも基本がありまして、なかなか全体がそろうと言う事はできません。 右左が応対に並んでいる線がきちんと一列に並んでいないとだめです。 出ている靴を出すぎだ、と言って足で蹴飛ばされる人もでてきます。 何回やっても気をつけの姿勢だけをきちんとやることも難しいのです。 それから、右向け、左向け、の練習をします。 それができると、前へ進め。 これも歩幅が決まっています。 詳しくは忘れましたが、大体75センチの幅で歩くのではないかと思います。 歩く早さも大体決まっております。 裸になって体操もします。 地べたに寝転んで這いまくる運動もします。 こういうことは、やはり戦闘につながっておりまして、這いまわって敵に近づくという訓練でもあるのです。 重い鉄砲、背嚢(リュックサックみたいなもの。今のような見てきれいなものではなく、四角張って箱のようなもの)を背負って走り回る訓練もあります。 このような訓練が、大体の姿勢をとって一つの隊列を作り上げます。 これが終わると今度は鉄砲の弾を銃の中にこめる訓練もします。 これができるようになると次は射撃にはいります。 銃はは三八歩兵銃といいます。 その銃を訓練して担いだりおろしたりします。 銃のほかに小さい剣を差しており、 ごぼう剣とも言っておりましたが、それを鉄砲に付けたり、はずしたりします。 鉄砲にはすべて菊の御紋が入っております。 ですから、傷をつけたり、手入れが悪かったりなくなったりすると、これはたいへんです。 民間で言う裁判みたいな規則によって罰せられます。 これが一期の訓練です。 ここまでくると、簡単ではありますが、一人の兵隊ができあがってきます。
最終更新日
2006年01月18日 11時52分40秒
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テーマ:戦争体験を語り継ぐ(18)
カテゴリ:盧溝橋事件の体験談
昭和12年、
20歳だった私は日本の徴兵検査に甲種合格をして、 定められた兵隊になりました。 入隊日は3月1日でした。 初年兵として、支那駐屯軍歩兵第一連隊三大隊八中隊五班に 配属になりました。 私達は、昭和12年の3月、 日本から貨物船に乗って北京に向かいました。 落ち着いた所が豊台というところです。 まわりが農家、原野というような場所です。 そこで兵隊の生活をしました。 3ヶ月間の訓練を1期と言います。 その訓練を何期か続けて一人前の兵士になるのです。 私達初年兵の2期に入るのが7月になりますが、 その時の訓練において、みなさんがどなたでも知っている 盧溝橋事件というものが発生しました。 これが元で、第二次世界大戦がだんだん大きくなって 日本は敗戦に落ち込むわけであります。 簡単に盧溝橋事件の始まりの経過を申し上げました。 それをなお詳しくこれからお話したいと思います。
最終更新日
2006年01月18日 11時16分43秒
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