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愈々庵気まぐれ日記

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2019.06.01
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カテゴリ:都内散歩
水道公苑を訪れた時、公苑の隅っこに「神田上水の碑」を見つけた。
徳川家康が江戸に入城した時、大都市江戸を作るにはまず飲み水が必要として
「上水」建設を命じた。命を受けた大久保藤五郎は「井の頭池」を水源とする神田川を
利用して目白台下まで導き、そこに堰を設けて取水し、地下石樋で江戸市中に
給水した。その際本郷台地から神田・日本橋へ傾斜を緩やかにして水を
通じるには神田川の上に筧(懸樋、水道橋)を作り渡すしかない。
中央線の水道橋駅はその水道橋があったところらしい。



碑の横には発掘された石積みの地下水路と水を市中に配水した木樋水路が移設復元されている。
この遺構は1987年に発掘されたもので400年を経てほとんど原形のままだったそうだ。




地下石樋を通ってきた水は下の写真のような給水所で写真下部に
みられるような木樋を通して再び地下で市中に配水した。


この公苑と一体化して「東京水道歴史博物館」があ、無料で参観できる言うので覗いてみた。
江戸の上水工事は以後も続き、その後遠く多摩川上流から取水した玉川上水(1654)
亀有上水(1659)、青山上水(1660)、三田上水(1664)と開かれてゆく。


貞享時代(1680年代)には下の古地図で黄色の線であらわされる
網の目のように上水道が整備されていたという。


冒頭で記したように懸樋で神田川を超えた上水は木製水道管を通って地下を分配されて行く。


下の2枚の写真は発掘された木製水路とその断面で、丸太を削って凹型にし上に蓋をする方式である。



木筒のつなぎ目は木枠を用いて、


複数分岐は下のように丸い桶型分水器を使って水路を分けている。


木製水道管をつなぐとき当然水漏れが起こるが、隙間には木皮や木材をほぐした繊維を
詰め込んで漏水を防いでいる。木管には常に水が流れ膨れているため
木材は膨れたままで意外と気密性はよかったのではないだろうか。
昔の日本人は発想が豊だったことがわかる。


こうやって街にやってきた地下上水は下のような取水桝から屋敷や長屋に取り入れられる。



大きな屋敷では上の伊達屋敷遺構のようにさらに邸内で分水樽が使われている。


そして末端では地上から井戸のような縦穴を掘り樽を沈めて水たまりを作る。


人々は下の絵のようにその井戸にツルベを下げて水をくみ上げて利用していた。


恥ずかしながら私は80余歳の今まで、時代劇の長屋に一つだけの井戸端は地下水の
汲み上げ井戸とばかり思っていたが、そうではなくて立派な上水だったというわけだ。
確かに人口密度世界一だったと思われる江戸の人達が我勝ちに地下水をくみ上げる
井戸を掘ったらたちまち水が枯れてしまったことだろう。
思いがけず目からうろこの「水道歴史博物館」であった。






Last updated  2019.06.02 11:26:27
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