全国的に泡盛がブームになりつつある。業界全体の出荷量も前年比40%増と、追い風が吹いているが、実は『泡盛ブーム』、今回で3度目なのである。
最初の泡盛ブームは明治20年代。当時は沖縄の輸出品のトップの座に座っていたそうだ。そのときは、酒税法改正や、乱立のあおりを受けて明治37年を境に元気を失っていった。そして大正時代に入ると世界恐慌の波を受け倒産する酒造所も出て、完全に勢いを失った。
2度目のブームは昭和初期に沸き起こったそうだ。産業育成の名のもとに県外出荷を促進し、昭和8年には県外出荷量の割合は35%に達していたそうである。
当時は、泡盛のポスターが作られていたというから、プロモーションもかなり積極的に行われていたようだ。初版のポスターは、うちなーカンプーで首里上布を着た女性の日本画だったそうで、本土にもこんなポスターはなく、新鮮さが評判になり、注文が増えたそうである。
そして、ポスターの第2弾には当時の大スターの写真を無断で使うという大胆なことをしたのだそうだ。訴えられたらどうするという話もあったようだが、なんくるなんくる、そのほうが逆に宣伝になるんじゃないかと、開き直っていたというからすごい。(今、そんなことはできないが)さらに、「酒は泡盛」という曲を作ってレコードも出したそうである。そうしたプロモーションが功を奏して順調に出荷量が伸び、昭和10年から昭和14年の間で出荷量は2倍に増えたそうだ。
しかし、華やかな時代は長くは続かなかった。1941年に太平洋戦争に突入。
泡盛は経済統制を経て業界が全体的に縮小、さらに米軍の砲弾を浴びて、すべてを失ってしまった。土穴深く埋めていた300年古酒も、大地に帰った。
そして戦争が終わり、沖縄の泡盛復興はヤミ酒造りから始まった。
米軍の統治下でウイスキーが市場に広まり、泡盛はシェアを奪われ肩身の狭い、冬の時代も経験した。県内の酒造所では、沖縄の伝統・誇りを絶やしてはならないと、時が来るまで静かに大切に泡盛を造りつづけてきた。そして、祖国復帰を境に、ウチナワンアイデンティティーが芽生える中、泡盛は再びうちなーんちゅに受け入れられていったのである。
そして今、第三の波が来た。生産量を増やしても、本土からの引き合いに応えられないくらいの酒造所もある。うれしい悲鳴だ。しかし、この波にただ乗るのではなく、泡盛の歴史や造り手の思い、こだわり、そして、商品が生まれたストーリーを飲む人に伝え、毛細血管に染み渡る心地よさとともに、泡盛を心から受け入れてもらわなくてはいけないんだろうな。
『君知るや 名酒泡盛』
Japan Transocean Air
編集部 森山 卓さん