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2012.06.14
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カテゴリ:「京」ものがたり
「ちょっと言いたくなる京都通」として奥深い京都の良さや
京都の人も知らない情報などをおりまぜながら、
わかりやすく紐解いていきたいと思います。
ぜひ身近に京都を感じてください。

今回のテーマは『西陣の町』です。
・今でも西陣では、機織りの音が聞こえるんどっせ。
・ぎょうさんの人の手が、かけられてるんどすわあ。

■ 今でも西陣では、機織りの音が聞こえるんどっせ。
京都の町は、その昔二条城を境にして北を上京、南を下京とよんでいました。

上京の東は御所を中心に公家や武家屋敷が並び、御所に勤務する貴族や官僚、天皇を中心とする公家や女房たちが住んでいました。
そしてその西にあったのが西陣・機屋の町です。
というのも、御所に勤める人たちの日常を支えるために、染織や木工、金工や皮革などあらゆる工作場が京都に設けられ、優れた技や意匠をもつ職人が集まり、素材も都に集められました。
西陣織もそのひとつで、御所の近くに町がつくられたわけです。
西陣界隈は、昔懐かしい京の町が一番残っているといわれており、今も細い路地をはさんで黒ずんだ格子窓の町屋が軒を連ね、耳を澄ませばバッタンバッタンと機織りの音が聞こえてきます。
西陣という名の由来ですが、室町時代の中頃、京都の街を舞台に東軍と西軍が争う応仁の乱が起こります。
室町幕府と相国寺などに陣を敷いた細川勝元の東軍に対して、西軍は堀川の西にあった総帥山名宗全の邸付近に布陣しました。
戦いは11年間も続き、多くの職工たちが戦火を逃れて和泉の堺などに移り住み、京都を離れます。
しかし戦乱がおさまると、彼らは再び京都に戻って織物をはじめました。

その場所が、もとの場所にほど近い白雲村(現在の上京区新町今出川上ル付近)や、山名宗全(やまなそうぜん)率いる西軍が本陣を張った跡地、すなわち西陣跡だったのです。

■ ぎょうさんの人の手が、かけられてるんどすわあ。
西陣織は、「先染めの紋織」という手法によって作られます。

あらかじめ染められた糸を用いて織り出される紋様は、雅やかな京の美を表現しているかのよう。
また、西陣織とひと口にいっても、金襴・緞子の他に、ビロード・綴(つづれ)・絣(かすり)・紬(つむぎ)などがあり、実に多彩です。
西陣織は、図案、紋章匠、紋彫り、撚糸(よりいと)、糸染め、整経、綜絖(そうこう)、織りなど、それぞれが専門技術をもった人々の手で分業化されており、12工程20種以上といわれる工程ごとに細かく分業されて商品が作られています。
そのため、どの家も何かしら西陣織にかかわっていて、想像以上に人の手をかけて市場に送り出されています。

現在では、コンピュータグラフィックスで制作した図案のデータを、直接織機で織り出すという新しい手法も取り入れられました。
しかし、西陣ならではの高級品や金糸などを使った繊細なものは、ジャガードの「手機(てばた)」や爪の先で糸をかいて模様を織り出す「綴機(つづればた)」などの手作業で織られています。

日本人として、京都の誇るべきこの伝統技術を絶やしてはならないと思います。


美しい古都に思いを馳せつつ、おいしいお茶を飲みながら
    はんなりとした時間を過ごしてみませんか。

宇治茶 伊藤 久右衛門





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最終更新日  2012.06.14 08:17:36
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