|
カテゴリ:京都の歴史と文化
京都紫野大徳寺塔頭「三玄院」
京都紫野大徳寺の塔頭「三玄院」をご紹介します。 ここはNHK大河ドラマで中心人物として登場している石田三成の墓があり菩提寺です。 (写真下)大徳寺塔頭 三玄院 一般公開はされていませんので、拝観はできません。 春屋宗園を開祖として、石田三成、浅野幸長、森忠正(蘭丸の弟)の三人が建てたお寺です。 住職や建立者を慕う人達が集まるようになり、利休の孫.宗旦、古田織部、小堀遠州はじめ多くの文化人が参禅し「三玄院」は茶道における影響力を持つようになっています。 織部好みの茶室.石庭「昨雲庭」襖絵「八方睨みの虎」が有名で、「茶道ゆかりの寺」と云われる由縁です。 石田三成は近江の国坂田群石田村(滋賀県長浜市)の出身です。 豊臣秀吉の長浜城主時代にその俊敏さを認められ、近侍として仕えています。 中国征伐、山崎の戦いにも従い、天正十三年(1585)秀吉が関白になりますと、諸太夫12人のなかに選ばれ治部少輔(じぶしょう)に叙任されました。その後、秀吉の全国統一の事業が進む中で、股肱(ここう)の臣として枢機に参画し、太閤検地の中心でした。 大阪築城ののち、隣接の重要経済都市、堺の奉行も務めています。 三成は武将ではありますが、その本領はむしろ吏務に長じ、五奉行随一の実力者として政務の処理にあたりました。 文禄四年(1595)近江佐和山の城主となり、江北で19万石余を領しています。 三成が所領内の民政に留意したことは著名です。 秀吉の死後、徳川家康の勢威が高まるに及んで、毛利輝元、宇喜多秀家らと謀って家康に対抗し、慶長五年(1600)9月美濃関ヶ原に戦ったが、 小早川秀秋の裏切りが主因となり敗北しました。 捕らえられて、10月1日京都六条河原で処刑されています。 慶長五年(1600)小早川秀秋の攻撃により伏見城炎上、徳川の重鎮、鳥居元忠が自刃するのですが、そこらは大徳寺塔頭「黄梅院」あたりでご紹介します。 (写真下)大徳寺内「三玄院」場所 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.09.15 06:26:02
コメント(0) | コメントを書く
[京都の歴史と文化] カテゴリの最新記事
|