|
カテゴリ:奈良の歴史と文化
奈良.斑鳩.中宮寺
心安らぐ土色の油塀にかこまれた、夢殿をめぐる道をすすむと、やがて中宮寺の表門が見えてきます。 松や椿の木立を抱えた寺域は、人を迎えてくつろがせるのに必要なだけの広さ、表御殿(特別公開中)や阿弥陀堂、そして本尊の如意輪観世音菩薩をまもる新本堂と、いずれの建物もこぶりで、やさしい風情が漂っています。 母穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)(用明天王皇后)の菩提をとむらうために、太子の発願により創建されたというこの尼寺は、法隆寺に寄り添いながら、西に峻険な山容を、日出る東に、遠く飛鳥をみつめています。 新本堂
聖徳太子が活躍した七世紀初頭は、仏教文化花開いた、飛鳥時代の全盛期です。名が示すとおり、宮城は飛鳥におかれていました。太子の父用明天王、太子が摂政をつとめた推古女帝もしかりです。 太子は政界の中枢にいながら、なぜ自身の宮を飛鳥ではなく、12キロも離れた斑鳩においたのだろうか? 謎ですね。 ここで母穴穂部間人皇女をとりまく天皇家の系図を考察します。 この系図でみるように、母穴穂部間人皇女は皇位継承争いに破れた小姉君(おあねのきみ)の唯一人の生き残りなのです。 しかも聖徳太子の夫人は飛鳥で権勢を誇る蘇我馬子の娘です。 これでは聖徳太子自らの宮を飛鳥を離れ斑鳩においたのも分かるような気がしてきます。 如意輪観音と伝えられてきた本尊の木像菩薩半跏像(国宝)は気品漂う微笑で知られるわが国の代表的な仏像彫刻です。 両腕をゆるやかに開き、人々の苦悩を受け止めながら、穏やかに微笑んでいます。
京都太秦の広隆寺にあります弥勒菩薩半跏思惟像(日本の国宝第一号)と似ています。太秦のものは、秦河勝が聖徳太子より賜わったものです。 特別拝観公開中の表御殿 木造平屋建て入母屋造の表御殿は、正面を西に向けて立っています。 桃山時代までに確立された書院造の形式を踏襲しています。
表御殿の御上段の間 ここでは格天井にされていることからも、この部屋が建物の中でも一番重要な空間であることが読み取れます。
名高い「天寿国繍帳」(国宝)は、妃であります橘太郎女が亡き太子の往生後を絵にしてしのびたいと願い、采女たちに命じて繍いあらわさせたものという。
次は聖徳太子の嫡子、山背大兄王が一族のために建てた法輪寺.法起寺です。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[奈良の歴史と文化] カテゴリの最新記事
|