2009/12/08(火)12:57
応天門放火事件
応天門放火事件
清和天皇の時代の3月10日、応天門が全焼するという事件があった。放火とみられた。
すると、伴善男(とものよしお)という大納言が、左大臣の源信(みなもとのまこと)が放火犯だと訴え出た。
帝は、伴大納言の申し立てを信じて、左大臣を罰するように命令した。
太政大臣藤原良房は、その頃、政治のことを弟の右大臣に任せて、白河に隠居していたが、これを聞いて驚き、普段着のまま馬を駆って御所へ駆けつけた。
帝の御前へまかり出て、
「左大臣が犯人などと、そんなことは信じられません、誰かの讒言かもしれませんから、左大臣を罰するのは良く調べてからになさってください」
と申し上げた。
帝も、左大臣と大納言はライバルなので、陥れようと考えることも無きにしも非ずと思った。
一方、身に覚えのない罪を着せられた左大臣は、正装して庭に降り、筵(むしろ)を敷いて座り、天道に無実を訴えた。
左大臣の家族や女房達は泣き騒いでいた。
そこへ、頭中将藤原基経が、馬に乗ったまま門の中へ駆け込んで来た。
さては、刑を申し渡しに来たものと思った人々は、なお大騒ぎで泣き喚いたが、中将が、
「帝のお許しがありました」
と言うので、嘆き悲しんで泣いていた家族や女房達は、今度はその涙を嬉し涙に変えた。
しかし源左大臣は、
「朝廷に仕えていても、いつまた濡れ衣を着せられるか分かったもんじゃない、もうやーめた!」
と言って、左大臣職を辞してしまった。
遡ることその秋、東の七条に住む右衛門府の舎人(とねり=下級役人)が、役所(右衛門府)から夜更けに帰る時、応天門の前を通りかかると、人の気配がした。
何だろうと思って、楼の脇に隠れて見ていると、応天門の柱を降りてくる者が居た。
怪しんで良く見ると、それは伴大納言だった。
また、次に降りてくる者が居て、それは大納言の息子だった。さらにもう一人、大納言家の雑役の男が降りてきた。
舎人は、なんで応天門に登ったのだろうと不思議に思った。
三人の男達は、降りると朱雀門の方へ走って逃げ去った。
舎人が、どうして大納言たちが応天門に登ったのかと考えながら、二条堀川の辺りまで歩いて来ると、
「大内裏の方が燃えているぞう!」
と、人々が騒いでいたので、振り返ると、今来た応天門の方角から火の手が上っていた。
大急ぎで引き返すと、すでに門は半分ほど焼け落ちていた。
舎人は、さてはあの三人が放火したに違いないと思ったが、身分の高い人のことでもあり、我が身にも災難が降りかからないとも限らない、こんな大事を軽々しく口にしてはいけないと思って、黙っていることにした。
その後、伴大納言が「放火したのは源信左大臣だ」と言い、左大臣に罪が着せられた。
舎人は、本当は左大臣が犯人ではないのに、気の毒だとは思ったが、言い出すことが出来ずに悩んでいた。
しかし、すぐに左大臣が無罪放免になったので、ああ良かったと安心した。
舎人が住んでいたのは、応天門放火事件の真犯人である伴大納言に仕える出納(しゅつのう=雑役に従事する男)の家の隣だった。
九月のある日、出納の息子と、舎人の息子が道路で大喧嘩を始めた。
舎人が飛び出して、出納の息子を大声で罵れば、出納も飛び出して来て二人を引き離し、出納の妻が我が子を家に入れた。
出納は、舎人の子の髪の毛を掴んで引き倒し、死ぬほど蹴っ飛ばした。
舎人は、我が子も出納の子も幼い子供なのに、子供の喧嘩に親が出て、我が子を情け容赦なく踏みつけるとは、許せんと腹が立って、
「おい、お前、こんな小さい子を蹴っ飛ばすとは何事か!」
と言うと、出納は、
「何言ってやがる、こっぱ役人が、我が君は大納言様だぞ、何があったって、大納言様がついてるんだ、寝言を言うな、馬鹿め!」
と言ったので、舎人はもう我慢が出来なくなって、
「何が大納言様だ、大納言様が権勢を振るっていられるのは、俺が黙っててやってるからだ、俺が見たことを一言でもしゃべれば、お前のご主人なんか一巻の終わりだぞ」
と言った。
「何のことだ?」
「応天門に火を付けたのがどこの誰だか、俺は見たんだ・・・」
この諍いを隣近所の人々、通り掛かりの人々が面白がって見ていた。
通り掛かりの人の中には、現在で言う刑事のような役人が注意深く見聞きしていた。
人々は耳にしたことを、家族や友人や仲間の人に言いふらし、噂はたちまち都中に広がり、やがて朝廷にまで届いた。
朝廷では、この舎人を呼び出して、詳細を尋問した。
舎人は、どさくさ紛れについうっかり口を滑らしてしまったことを後悔していたので、初めは「存じません」と言っていたが、
「真実を話さないと、お前も罪人になるんだぞ」
と脅かされて、とうとう本当のことを全てしゃべってしまった。
その後、伴大納言も尋問され、
「応天門に放火して、罪を左大臣に被せれば、自分が次の大臣に出世できると思ってやりました」
と白状したため、伴大納言は流刑に処せられた。
おわり