カテゴリ:伝説・神話
ボケ 東京都内には、平将門公を祀る寺社が数多く存在している。 台東区の鳥越神社は手を、新宿区の八幡神社は足を、同じく新宿区の鎧神社は鎧を、中央区の兜神社は兜を祀っている。 他に栃木県の大手神社も手を、大原神社は腹、鶏足寺は首、群馬県只上神社は胴を祀っている。 どうしてこのように、将門公の身体が切り刻まれて祀られたのだろう。 反逆者の遺体は七つに斬られ、一定の場所に埋葬する風習があり、その例の一つであったと考えられる。 将門公には、七人の影武者が居たとも伝えられている。 本拠地があった茨城県の海禅寺には、七基の影武者の像があるという。 西林寺には七騎塚が、千葉県にも七人衆、奥多摩には七つ石、名古屋の熱田神宮には七つ塚などがあり、それら全てが将門の影武者関係とみられている。 それは北斗七星信仰と関連し、七天王塚という石碑は北斗七星の形に配されている。 つまり非業の死を遂げた人を、北斗七星や聖なる数字である7を使って鎮魂する風習があったらしい。 将門公の首が曝されたのも七条河原であり、無関係とは思えない。 東京の将門公を祀る社寺には、どのような関連があるのだろう。 地図で大手町の将門公の首塚の位置を見ると、江戸城の正面玄関である大手門の真正面に在ることが判る。 住所は千代田区大手町1丁目1番地1号で、この番地は都市開発の出発点を意味している。 徳川家康が江戸城に入る前、太田道灌時代は、北桔梗門が大手門だった。 家康は、わざわざ首塚の真正面を大手門としたのである。 江戸の町は江戸城を中心に開発されたが、大手門はその出発点となった。 それは一体何故だったのだろうか。 都市開発を進める過程では、様々な妨害に遭うが、それはその土地の地霊の崇りだとされていた。 現在でも建設を始める前には、必ず地鎮祭を行って地霊を鎮める。 江戸の都市開発に取り掛かる前、地霊将門の首塚を祀って鎮魂したのだった。 江戸っ子が神田の生まれであることを誇りにしていたのは、神田神社が江戸開発の出発点であったからだった。 江戸城は大手門から、お城を中心として時計回りにお濠を掘り進めながら開発されていった。幕府は、のの字型の濠から放射状に伸びる五本の街道、東海道、甲州街道、中山道、奥州道、日光道を通し、全国との陸上交通を確保した。 お濠と街道の交点には橋を架け、見附という城門を設けて通行監理をしていた。 つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.04.09 16:22:29
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