カテゴリ:伝説・神話
五街道は江戸と全国を結ぶ主要道路であった、つまり日本全国の全ての道は江戸へ続いていたのである。 そして江戸城の城門は五街道への入り口であった。 その五街道とお濠の交点である城門に隣接して、将門公を祀った塚や神社が設けられている。 これはどういう意味なんだろう。 江戸の地霊である将門公の身体を斬り刻んで塚や神社にして、五街道の出入り口に置くということは、街道から江戸へ侵入してくる悪鬼を封じるという意味があったのだろうか。 その塚や神社は七箇所ある、将門公の影武者も七人だった。この数字も将門公の鎮魂を意味していると思われる。 江戸は呪術的都市計画が構想されていたのだろうか、それは誰の構想だったのだろう。 将門公の胴体は、現在神田神社に祀られているが、神田神社は江戸城の鬼門に位置する。 神田神社を江戸の総鎮守とし、最高の社格を与えたのは南光坊天海という幕府の宗教行事を担当する僧侶で、天海は同じく江戸城鬼門に寛永寺を建立した。 江戸呪術的都市を発案したのも、この人だったと考えられる。 その計画の背後には、何らかの政治的目的があった。 家康が、江戸に徳川幕府を置いて最初に行ったのは、天皇を政治から引き離すことだった。 それまでの朝廷政治から、武家中心の政治にしたのである。 政治の中心が京から江戸へ移った。 将門公も、新皇を名乗ったために非業の死を遂げた。つまり将門公は、朝廷の敵だった。 朝廷の敵である将門公を、江戸の総鎮守にすることによって、江戸の勢力を拡大し、さらに江戸庶民が尊皇思想を持たないようにしようという意図が見える。 しかし、その思惑はどうやら外れてしまった。 尊皇思想の国学が流行し、その発端はなんと、神田神社の神主賀茂真淵だった。 その国学はさらに発展し、本居宣長、平田篤胤へと受け継がれ、やがて幕末、尊皇攘夷運動へと発展したのだった。 つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.04.10 13:57:13
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