ニワゼキショオウ
徒然草には、名前を出さず「なにがし」などで表す人の言葉がよく引用されています。
これは吉田兼好が、自分の考えをいかにも他人が言ったかのように記したのであろうと、内海月杖(明治の歌人・国文学者)は推測しています。
徒然草の内容は、思想、人間観、有職故実、恋愛観、政治批判など多岐にわたり、細やかな感性と観察眼、豊かな知識を持った作者の幅広さをあらわしています。
その人間観察の鋭さは、井原西鶴などに多大な影響を与えました。西鶴の作品の多くは、徒然草なくては生まれなかったと言われています。
仏教思想が人々の間に浸透していた中世は、貴族を中心とした華やかな平安時代も末期になると、天然痘などの疫病、日照りによる飢饉、武士の台頭など、混乱期を迎えた。
仏教は比叡山の僧兵による三井寺の焼打ちなど、内部抗争が絶えなかった。
釈迦入滅後2千年を経ると、教えだけは残るが悟りを得る者はいなくなるという末法思想が流行した。
人々は無常観に沈潜し、神仏の助けを懇願した。貴族も庶民も諸魚無情を感じた。兼好も例外ではなかった。
それに呼応して現れたのが、鎌倉新仏教で、阿弥陀仏に救いを求める浄土信仰、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗が民間に広まった。
武士は座禅によって悟りに至る禅宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗などが受け入れられ、法華経が中心の日蓮宗も発生した。
お盆や先祖供養の習慣も、収穫祭と合わさって農民の間にも広まった。
仏教が持つ無常観の雰囲気は、文芸にも多大な影響を与え、平家物語などの軍事小説や、出家した世捨て人による隠遁文学が盛んになった。
徒然草のほかに、鴨長明の方丈記、西行の山家集などが後世に残った。
貴族社会で出世した兼好は、慕っていた貴人が亡くなったのをきっかけに、宮仕えを辞め、世を捨てて出家したと考えられる。
兼好のような世捨て人は、出家しても寺には所属せず、僧侶とは区別して、一般には沙味、沙味尼と呼ばれていた。
兼好も貴族社会から遠去って、小野の山里、延暦寺の別院修学院の辺りの庵に住んで、一人ひっそり暮らしていたが、歌人としては貴族達との交流を断たなかった。
仏教思想の浸透と同時に、兼好のような暮らしを求める人は多く、社会もそれを受け入れていた。
そうした立場の人々によって、和歌や文芸、学問の世界で偉大な業績が残った。