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高島武彦 豊島区

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2020.12.14
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カテゴリ:高島武彦
武蔵国(むさしのくに、旧字体:武藏國)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。

「武蔵」の名の起源は諸説唱えられているものの、いずれの説も根拠となる資料に欠き定説となるには至っていない。 本居宣長は『古事記伝』の中で「武蔵国は駿河・相模と共に佐斯国(さし-)と呼ばれ、後に佐斯上(さしがみ)下佐斯(しもざし)に分かれ、これが転訛し相模・武蔵となった」とし、賀茂真淵は『倭訓栞』に「身狭(むさ)国があり、のち身狭上(むさがみ)・身狭下(むさしも)に分かれて相模、武蔵となった」と唱えている。さらに近藤芳樹『陸路廼記』など「総国(ふさ-)の一部が分割され総上(ふさがみ)・総下(ふさしも)となり、それぞれ相模・武蔵となった」とする説もある。これらの説は武蔵国とのちの東海道の諸国の関わりを説く。考古学の成果によれば、武蔵国はのちに毛野国(群馬県・栃木県。のちの東山道の一部。)地域と一体となり、その後7世紀にヤマト王権が総国からこの地域を勢力下においたという[要出典]。なお武蔵国造の祖先には身狭耳命(むさみみのみこと)がいる。

表記については、飛鳥京・藤原宮木簡に「无耶志国(むざし-)」と見え、7世紀頃までの武蔵は「无射志」(むざし)や「牟射志」(むざし)と表記されていた記録も見つかっている。他にも「牟佐志(むさし)」、「無邪志(むざし)」、「无邪志」、「胸刺」といった表記があるが、いずれも訓に字を当てたものと考えられている。

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最終更新日  2020.12.14 16:57:29



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