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テーマ:史跡めぐり(508)
伽羅之御所の北側、北上川の河畔に柳之御所跡があり、吾妻鏡にある「平泉館」の跡だとされています。
奥州藤原氏の政庁跡とされ、奥州の政治の中心地であるとともに、藤原氏に庇護された源義経もここにいたと思われます。 発掘調査による復元で、各地の政庁跡に見られるような、柱石や礎石の跡が並んでいました。 付属建物跡の柱跡 向こうに見える小高い山が義経堂のある高館です。 付属建物の復元図 付属建物だけでこれだけの威容があります。 園地と呼ばれる池の跡 無量光院と同じく中島があり、玉石が敷かれていたようです。 空堀の跡 当時の平泉は平安京に次ぐ繁栄だったと言われています。 他にも大量の土器や陶磁器も発掘され、そこからは国内のみならず海外との交易も確認されており、高い政治・文化レベルを誇っていたようです。 中心建物の跡 中心建物(東)の復元図 この復元図を見るだけでも、藤原氏の力がいかに強大だったかわかるような気がします。 中心建物(西)の復元図 189年に源頼朝が公称28万の鎌倉幕府軍で平泉に攻め込んだ時、藤原泰衡は自ら火を放って鎌倉幕府軍から逃れようとしました。 源頼朝が平泉に着いた時は、100年にわたって築き上げられた藤原氏の栄華も全て消失した後だったそうです。 まさに「三代の栄耀一睡のうち」でしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013/04/29 03:43:41 PM
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