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日本26聖人 (1)
イザヤ木原真(主の十字架クリスチャンセンター長崎教会牧師) いまからおよそ400年前の1597年に、日本で初めての殉教がありました。長崎の西坂の丘で、外国人神父6人を含む26人が十字架にかけられて殺されたのです。この殉教を日本26聖人といっています。 私は、日本26聖人に関しては神学校の日本キリスト教史で学んだことがあったので知っていました。しかし特別な関心があったわけではなかったのです。 ところが私の導かれた教会において、神さまは預言を通して長崎に祈りに行くようにと示され、特に26聖人の歩みを通して語ることがあると言われたのです。 吟味の後、確かに主の御心と感じた私は、その後何度か長崎に足を運びました。殉教した彼らの足跡をたどりながら、私は主イエス・キリストに向かって祈り、御言葉を注意深く読み味わいました。そのとき、主は確かに多くの語りかけを与えてくださいました。それは、現代に生きる私たちクリスチャンにとっても非常に重要だと思えることでした。 主が彼らの殉教への歩みを通して示してくださったことを、これから何回かにわたって書いていきたいと思います。 それでは、まず簡単に26聖人の足跡を追ってみましょう。ただあまり歴史の細かいことがらにとらわれすぎないようにしたいと思います。大切なのは神さまの語りかけを聞くことにあるので・・・・・・。 1596年10月、一隻の巨大なガレオン船が四国沖に現れ、土佐浦戸の桂浜に座礁しました。これはスペインの商船サン・フェリペ号でした。この事件がきっかけとなって(このことに関していろいろな意見がありますが、ここではそれを調べることがテーマではないので詳細は省きます)、時の権力者、太閤秀吉はフランシスコ会士を中心に24人の逮捕命令を出したのです(後に26人になる)。 神を選んだマチヤス 捕縛吏の一隊は、捕縛者名簿を作って京都にあった教会に踏み込みました。捕縛吏たちは、捕縛者名簿を読み上げながら、返答する信徒の人定めをしていました。 そのとき一人の信徒が返答しなかったのです。マチヤスという名の料理人でしたが、彼は答えませんでした。すると同じ洗礼名を持っている全くの別人が「私の名もマチヤスです」と自ら捕縛吏の前に進み出で来たのです。 役人というのは今も昔も変わらないようです。役人たちはとにかく頭数をそろえればそれで良かったので、捕縛者名簿に載っている料理人マチヤスを捜そうともせず、喜んでこの男を捕まえました。こうして彼は役人たちに受け入れられ、殉教者の群の中に神によって受け入れられたのです。 いまもって殉教者マチヤスの生地も年齢も受洗日もわかっていません。けれども彼の名は天にしっかりと書き記されています。この後殉教していった多くの名も知られていないキリシタンたちとともに・・・・・・。 彼はだれかの強制や押しつけではなく、自らの意志をもって殉教者の中に自分の身をゆだねたのです。このことを思うと、選びということを考えざるをえません。彼は自ら殉教という道を選び、神も彼を殉教者として選ばれたのです。確かに、神を選ぶ者を神は選んでくださるのです。 「招待されるものは多いが、選ばれるものは少ないのです」(マタイ22章14節) もどり橋を渡って 捕縛された24人は、6人のフランシスコ会士の外国人神父をはじめ、3人の日本人イエズス会士と15名のの日本人信徒でした。その中には、伝道士、伝道士見習いはもとより、元僧侶、武士や商人と3人の子供も含まれていたのです。ただ、この最初の殉教者の中には女性は含まれてはいませんでした。もちろんこの後、多くの女性が殉教していきます。 秀吉はこの24人を長崎で処刑することに決め、さらに人々への見せしめのために、鼻と両耳をそぎ、惨めになった姿を大坂、京都などの主な町々で引き回せと命令しました。しかし京都奉行であった石田三成はいくらか減刑して、左の耳たぶを切るだけにしました。 1月3日、上京一条の辻に24人は連れ出され、そこで左の耳たぶをそがれます。それから京都の町を引き回され、さらに大坂、堺でも引き回されます。 実はこのとき、殉教をまぬがれるチャンスがあったのです。耳たぶをそがれる前に、上京一条の辻にある橋のところで、役人たちは彼らに言いました。 「もしここでこの橋を渡らずに、お前たちが信仰を捨てるなら、耳そぎはもちろん、処刑も免除されて許されるのだ。でも、もしあくまで信仰を捨てないのなら、この橋を渡るとそこから死への旅が始まるのだぞ」 そう言って脅したのです。しかし彼らは喜んでその橋を渡りました。そして耳をそがれて引き回され、天国への旅──殉教を選んだのです。この橋は『もどり橋』と言われています。彼らはその橋を戻りませんでした。もどり橋を渡って彼らの天国への旅は始まるのです。 彼らにとって地上で受ける肉体への苦痛よりも、主とともにいる喜びを失うほうがはるかに辛かったのでしょう。彼らにとって、主が殉教者として選んでくださったその選びを捨ててしまうことなど、考えることはできなかったのだと思います。彼らは主とともにいました。彼らはともにいてくださる神を選んだのです。彼らにとって、それは当たり前の選択だったのです。 私も結婚してまもなく、もどり橋に行ってみました。そして妻と2人でその橋を渡ったのです。それは私たち夫婦の神様への信仰の告白でした。「神さまの選びや召しを捨てて、もう決して戻らない」という告白だったのです。 二人が選び二六人に 秀吉によって捕縛されたのは24人でしたが、長崎に向かう道中で26人になります。それは京都にいたオルガンティノ神父が、3人のイエズス会士の世話のためにと、ペトロ助四郎という青年に路銀を持たせて付き添わせたからです。彼は、わが身も顧みず奉仕に努めました。 もう一人はフランシスコ会士で伊勢の大工であったフランシスコ吉で、彼はフランシスコ会士をはじめ24人の殉教者たちが、京都、大坂、堺の町々を引き回されたときから、長崎に護送される道中までもずっと彼らを慕い続け、身の回りの世話をしていたのです。 この2人は道中のどこかで役人の縄を受けています。おそらく強欲な役人たちが、彼らの財布の路銀に目をつけたのでしょう。しかし彼らは殉教の恵みを受けることになったことを喜んで、むしろ進んで縄を受け、もっていた路銀を差し出したようです。 もしかすると、彼らのほうから自分たちも殉教者の仲間に加えられるように、執拗に願ったのかもしれません。事実、そのように書いてある書物もあります。いずれにしても、この2人にとっても殉教は喜びであり、彼ら自身の選びだったのです。 下関についたときには、殉教者たちは26人となり、この2人──ペトロ助四郎とフランシスコ吉──も囚人になっていたのです。しかし彼らの顔はきっと輝いていたでしょう。主とともにいる喜びと天国への希望に燃えて・・・・・・。 26人となった殉教者の一行は、大坂から長崎までの約800キロにわたる長い距離を、ほとんど陸路で旅を続けました。冬のさなかでもあり、道はぬかるみ、非常な難渋をき極めたようです。その苦しみを和らげ、大きな慰めとなり励ましとなっていたのが、最年少で12歳のルドビコ茨木少年でした。彼は生来利発ではありませんでしたが、長崎への旅の道中でも、いつも明るく朗らかでとても元気のいい少年でした。 少年ルドビゴ茨木 2月1日に、唐津湾に遠からぬ村の山本で、殉教者の一行は、寺沢半三郎に引き渡されました。半三郎は唐津城主寺沢広高の弟であり、処刑の執行責任者である長崎奉行の職にありました。 彼は名簿と囚人とを照合して受け取りましたが、そのとき彼の心は2つのことで痛んだのです。囚人の中に彼の友人のパウロ三木と3人の少年がいたことでした。とりわけ、元気でいたいけな12歳のルドビゴ茨木を処刑にしなけらばならないと思うと彼の心は重たくなりました。 それで彼はルドビゴに言ったのです。「お前の命は私の掌の中にある。もし、私に仕える気があれば、お前を助けてつかわそうぞ。私の養子になれ」 ルドビゴ少年は答えました。「私はベトロ・バブチスタ神父(26人のリーダー)に従いまする」 それを聞いた神父は、「キリシタンとしての生活が許されるなら、喜んでそれに従いなされ」と言いました。それで、ルドビゴ少年は半三郎に答えました。 「ありがとうございます。それでは養子にさせていただきまする。ただ一つだけお願いがあります。キリシタンとしていまのままの信仰を持ち続けられるならば・・・・・・。」 「キリシタンを捨てることが条件だぞ。それ以外のことは何でも許してやろう。大目に見る。しかし今のままの信仰ではだめだ。俺の養子になれば、あともう50年は生きられるぞ。おいしいものも食べられる。きれいな服も着れる。そのうえ、刀を差して武士になり、大名にもなれるぞ」 半三郎は何とかしてルドビゴ茨木を助けようと言いました。 しかし、ルドビゴ少年は半三郎の目をしっかりと見てこう言いました。 「そうしてまで私は生きのびたいとは思いませぬ。なぜなら、終わりなき永遠の命を、たちまち滅びるつかの間の肉体の命とは代えられないからです。 御武家さま、あなたのほうこそキリシタンにおなりになり、これから私が参りますパライソにおいでなさるのが、ずっと良いことです。あなたもキリストを信じて、私と一緒に天国にまいりましょう」 私は何度か、この12歳のいたいけなルドビゴ少年が神を選んだ山本の村へ、足を運びました。山本の村を流れている川の堤防に腰掛けながら、天を見上げて祈っていると、深い神のご臨在がいつも注がれてきます。 この少年の目は朽ちることのない天に向けられていたのです。彼は天がどれほど確かな報いであるかを知っていたのです。だからこそ彼は地上のどんな誘惑にも動じませんでした。ごちそうにもドレスにも長寿や大名という肩書きにも・・・・・・。そう、彼は確かに知っていたのです。天国の報いの確かさを。 天国 ルドビゴ茨木は刑場である西坂の丘に着いたとき、自分がかかるために用意された十字架に走り寄り、それを抱きしめて頬ずりし、口づけしたのです。そして十字架の上にかけられたとき、かたわらで十字架にかけられていた13歳の少年アントニオとともに、高らかに詩編113篇を、歌ったのです。 「子らよ。主をほめたたえまつれ」と(新改訳は、主のしもべたちよ)。 そのとき西坂の丘に天国が降りてきました。いままで見せしめのために極悪犯罪人がいつも殺されていた苦しみと悲しみとの地獄の場所に、天国が降りてきたのです。 このときのことはまた来月号以降で詳しく書くことにしましょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.02.05 14:47:03
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