おカネに強い会社
■11年で上場の夢を果たした原点東証一部に上場されているリンガーハットの1号店が長崎市にオープンしたのは、1974年6月のことである。それから11年で同社は上場を果たし、2003年には年商330億円・経常利益20億円をあげているが、記念すべきその1号店は、潰れたラーメン店を代替わりしてスタートしたのである。創業者の米濱豪さんは、鳥取から長崎にやってきて、20代で小さなスタンドバーを経営していたが、30歳にして「浜勝」という約7坪の小さなトンカツ屋を開業する。米濱さんは長崎ではよそ者である。資産も信用もなく開店したトンカツ屋はそこそこ流行ったのだが、故郷の親と弟たちを引き取っての生活は決して楽なものではなかった。開業資金の借金返済もあり、生活に回すおカネは僅かだ。少しでも売上を増やすために、肉まん、弁当などを他社の店頭で売ったり、県庁食堂を引き受けたり、立ち飲み串カツスタンドにまで手を広げていった。その頃には手許に引き取った二人の弟が頼もしい戦力となり、昼夜に及ぶ絶大な献身もあって、長崎郷土料理しっぽくを食べさせる「別館浜勝」をオープンさせる。米濱豪さんは、街の小さなトンカツ屋のおやじで満足せず、本格的な料理屋の経営を目指していたのだろう。県内から最高の素材を集めて、美味しい料理を豪華な雰囲気で提供する一流の名店を志向していた。そしてそれから4年後に、ロードサイドに敷地1000坪、店舗180坪の「喜々津浜勝」をオープンさせた。お店はお客でにぎわい彼の狙いは当たったかに見えた。しかし長期的な経営からみれば、バイパス沿いの広大な店舗用地取得や内外装に金をかけた店舗は、収益上からも資金繰りからも大きな負担であった。売上はあがるが、経費も増えていくので、銀行返済金など見えないところではおカネが苦しい。米濱豪さんは事業欲も旺盛で、トンカツ屋、寿司屋、しっぽく料理店、焼肉屋、串カツスタンドから結婚式場まで手を広げるのだが、バラバラな業態の寄せ集めだから、非効率この上ない。ところが思うようにカネが回らないと、「儲からないのはお前らのせいだ」と弟たちに文句を言う。豪さんは、創業者としてのカリスマ性でぐいぐい人を引っ張り、通らぬ理屈を腕力で通していったが、おカネの世界は別で、通らぬ理屈はなんとしても通らない。経営者一族が、24時間働きづめで帳尻を合わせているようなものである。とうとう二人の弟のうち、すぐ下の昭英さんは「ついていけない」と袂を分かち独立してしまう。もうひとりの弟、和英さんが毎月の売上数字をもって資金繰りに銀行を駆け回らなければならなかったのである。■24時間営業にしてみたら「浜勝」グループは年商8億円になっていたが、人口40万人の街で10億円以上売っていくには、今のような業態ではムリがあると商才のある米濱豪さんは気がついた。年商を10億、20億円と伸ばしていくには、今のマーケットを他の地域に拡げなければならない。まず長崎で基盤をつくり、大市場の福岡に進出し、さらには九州全域に出る。その大きな夢を現実にするためには、多店舗展開できる商品を持たなければならないと考えるようになっていた。その頃、アメリカにマクドナルドをはじめとする近代的なチェーンシステムが、日本に登場してきた。豪さんは弟の和英さんとチェーンの研究をし、勉強のためにどこかのフランチャイジーに参加することを検討していた。自分にシステム発想が欠けることを自覚していた豪さんは、チェーン展開を考えて、当時日立コンピュータのSEをしていた長兄の米濱鉦二さんも招聘した。そんなあるとき長崎の中心地である思案橋の近くに、全国チェーンを展開していた札幌ラーメン「どさんこ」の売り物がでた。ご存じの通り、長崎はチャンポンの土地柄である。ラーメンはよそ者扱いだから、最初はもの珍しさから飛びついたお客も長続きせず、開店わずか半年足らずで撤退した。「長崎でラーメンはムリ、やはりチャンポンだ。よしフランチャイジーになるのではなく、独自の商品で自分のチェーン展開を図ろう」と豪さんは考えた。そこでラーメンのスープにチャンポン麺を入れ「ちゃんめん」と名づけ、「長崎ちゃんめん」という屋号で1号店を開業することになる。小さな店だが、従来のチャンポンの店にはない、きれいな内装のレストラン感覚で食べさせるというので、たちまち話題を集めお客さんも入った。ところが、固定費(家賃・保証金・リース料等)を賄うだけの売上が十分にとれないのである。地方都市といっても、中心部の家賃は高い。店は狭いから満員になっても売上に限界がある。悩んだ豪さんは、何と夜の11時から明け方まで請負制で、店を他人に貸し出したのである。店舗を24時間稼働させることができれば、家賃負担が半分になると。すると驚いたことに、深夜時間帯の方が売上が多い。店を寝かせているから採算が難しいのであって、24時間営業にすればペイすると、豪さんは気づいたのである。これが中心部からやや離れた店舗なら、お客さえ入れば家賃も大幅に下がるから、もっと利益も出てくるはずだ。豪さんは翌年「長崎ちゃんめん」2号店を郊外にオープンさせ、わずか1年以内に、6号店までオープンする。当時は石油ショックで大不況のため、深夜でも働く人は十分確保できた。すると投下資本が少なく回収が早いから、カネ回りが急速によくなってきたのである。■リンガーハットの誕生しかしよいことばかりではなかった。新業態を無我夢中で造り上げたムリがたたったのか、豪さんは病に倒れて帰らぬ人になってしまったのだ。創業者を失い、システムに強い鉦二さんと資金繰りで苦労してきた和英さんが、豪さんの夢を継ぐことになった。そこで、二人は創業者が拡げるだけ拡げたビジネスをたたんで、浜勝とチャンポン店だけに経営力を集中し、ナショナルチェーンとして全国に進出しようという大きな夢へと書き換えたのである。本店の横に確保していた土地を売り、郊外に3ヶ所買うというように、採算のとれない店や遊休地はどんどん整理して、おカネと人材を集中させていった。そして主力商品として長崎ちゃんぽん、皿うどん、餃子に絞り込み、郊外の約40坪の店舗に正社員3名、営業時間朝の10時半から翌朝4時というモデルを設定し、①ドンブリ勘定からコンピュータによる予算管理②九州から全国制覇戦略③ナショナルチェーンを意識したCIと店舗の標準化④セントラルキッチンの導入⑤監査法人の早期導入という方針を打ち出し、1977年、長崎グラーバー邸の設計者であるリンガー氏の名前をとって店名を「リンガーハット」と改称、本格的なチェーン展開に踏み切ったのである。創業者が亡くなってからわずか1年後のことであった。それから同社は快進撃をつづけた。78年には福岡に20号店目を開き、79年には関東地区1号店を埼玉県与野市に開店、年商も倍増し16億円になっていた。同社はこの年に、先にあげた方針⑤である監査法人との契約を実行している。■財務を安定させカネ回りをよくするために九州のロイヤルが1978年に上場を果たし、創業者の江頭社長がベスト電器(当時)の北田社長と地元新聞で対談をした。そこで記者に「次はどこが上場しますか?」と聞かれたロイヤルの江頭さんが、「自分が見たところでは長崎のリンガーハットじゃないかと思う」と言ったと紹介された。そしてその記事を読んだ都市銀行の本店幹部が早速同社を表敬訪問したという。このことがきっかけとなってリンガーハットの経営陣は、上場を視野に監査法人と契約して、財務会計に本格的に取り組み出したのである。1981年ごろの同社の内部資料に、「計画判定表」がある。その項目には「税引後利益」「総資本」「自己資本」「総資本回転率」「総資本利益率」「自己資本比率」などのチェック項目が、「売上高」「売上利益率」「売上成長率」などとともに並んでいる。これらは「ドンブリ勘定」から脱出するための財務体質改善、つまりカネ回り強化の具体的な指標になるものである。そもそも監査法人は上場会社には必要だが、中小企業では上場の2年前でもなければ、契約する会社はほとんどない。しかし同社は上場する6年前から監査法人の指導を受けている。現在の米濱和英社長は、創業者の手当たり次第ともいえる事業拡大路線の中で、いつもカネ繰りの苦労の連続であった。そして初期投資の少ない郊外型の小型店舗で24時間営業するという、「少ない元手を効率的に回す」カネ回りのよいビジネスモデルにたどり着いて、全国チェーン展開を前提に財務体質の一層の強化を考えたのは当然のことだったかもしれない。そして同社は1985年に福岡証券取引所に上場、2003年には全国に491店舗を有する東証一部上場のナショナルチェーンとなったのである。実は、私が駆け出しコンサルタントの時代に、上場前の同社を担当していたことがある。創業者の豪さんは、長身のうえに苦味ばしった俳優にもなれるような男前であった。アイデアにも決断力にも優れ、創業者のカリスマ性を周囲に発揮しておられたが、長兄のシステム力と弟の現社長の管理力・組織運営調整力がなければ、今のリンガーハットは存在しなかったに違いない、と当時を知る者としてつくづく思うのである。(「カネ回りのよい経営」井上和弘著より)