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テーマ:恋愛について(2577)
カテゴリ:タコ生徒・学生期
「にいちゃんね、もうちょっとテキパキやってくれよ。」
包丁を持ちながら板さんがドスの利いた声で言う。1974年1月元旦、私は当時巣鴨にあった浅野配膳会という所でアルバイトをしていた。 表向きは配膳のプロを派遣するという会社だが、実のところはほとんど研修のようなものはなく、入ったその日からあちらこちらのレストラン、宴会場などに派遣されていた。時給がいいのでやっていたが、派遣を依頼するほうはプロを期待していて高給を出しているのに、仕事がしっかりできないので可也きつく言われることもあった。 池袋パルコの8階にあった「七耀亭」という高級日本食レストランの板前にどやしつけられながら、それでも私は元旦からせっせと働いた。何せ相手は包丁を持っている。太刀打ちできない。大学の3年生になっていた私は、その年の6月に知人とアメリカ3ヶ月の旅行に出ることになっていて、その資金稼ぎで躍起になっていた。 その前の月、12月に当時としては破格のアメリカ往復料金を支払うことになっていて、金詰まりから当時付き合っていた好江という女性から11万7円を借りていて、一日も早く返さないとならなかった。一緒に、巣鴨信用金庫に行ってお金を下ろし借りた。 彼女は理系に強く家庭教師で随分と稼いでいたようだ。一方私は、肉体労働で稼ぐのを得意としていた。これは、基本的には今も変わっていない。 「あなたが、アメリカにいくから私はフランスに行くことにしたの。半年、ソルボンヌ大学の講座に出てくるわ。」 「そうか、みんな海外に出て行くんだね。大西洋をはさんで手紙書くよ。」 正月もなく働いて生まれて初めての海外に出ることができた。 その年の6月4日、私は白地に黒のストライプの入った夏用のジャケット姿、好江は黄色の半袖の上着とスラックス。まるで新婚旅行にでも出るような姿で、父の運転する自家用車スバル360で母と4人羽田に向かった。 目の前のアメリカのことで頭が一杯で、この旅行が二人の恋を終わらせることになるなどということにはまったく考えが及ぶ余地さえなかった。好江は、フランスからの帰国後私の元を去っていった。 後で聞いた話では、私が乗った今はなきエアーサイアムのジャンボが視界から消えるまで、友人達と一緒に好江は走って私を見送ってくれていたという。 元旦の話しを書こうとしたら、今年もやっぱり縁起良く振られた話に落ち着いてのスタートとなってしまった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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