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タコ社長,オーストラリア・メルボルンのスローライフな日々

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幼少年期

2013年08月26日
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カテゴリ:幼少年期
14歳まで、東京は練馬大根が匂ってくるような豊島園の近くにあった警察官住宅に住んでいた。ここは大工なんかが住んでいたら怒られそうな住宅で、住人はほぼ警察官に若干消防士といった具合だった。別に大工に恨みなどは全くないが。間取りは、四畳半と六畳の二間で本当に小さい。これが隣と二軒長屋になっていて、この二軒が6つあってワンブロックを成していた。即ち、ワンブロックが12軒。そして、このブロックが8つあって一集団。この集団が更に3つあった。近づく泥棒がいたら褒めてやりたいくらいの環境だった。

どの家も実に貧しかった。ある家は家族8人で住んでいた。給料の額が押し並べてわかってしまう同業者だから、一体どうやって生活していたのかと思う。裏の石井さんの家に行ったら昼ごはんだったのだろうか、ご飯にお醤油だけをかけて食べていた。私の好物は、母が作る少し大きめの塩おにぎりと味噌おにぎり。中には何も入っていなかったが、塩や味噌が暖かいご飯によく混ざって本当に美味しかった。母と一緒によく西武線の中村橋という駅そばの肉屋さんに行った。その肉屋さんの横の狭い路地で、買ってもらったばかりの湯気の出ている5円のコロッケをホーホー言いながら食べる。こんなに美味しいものは世の中に二つとない、そう言える味だった。

今、縁あってフィリピンのセブで英語学校を経営している。業後や週末に、ゴム草履を履いて妖しい路地裏を歩くのが好きだ。草履は思い切り音を立てて歩く。現地の人のようにゆっくり歩く。時々Tシャツをまくって腹を出して歩く。現地の人たちがやっているようにこんな風にして歩いている。子供の頃に戻ったような感覚に晒される。不思議な感覚だ。そのままどこまでも行ってみたくなる衝動に駆られる。

練馬のこの警察官住宅には、いろいろな人がいろいろな物を売りに来た。豆腐、納豆、おでん、焼き芋、アイスキャンディー、爆弾(米を出すと爆発させてお菓子にしてくれる)。そして、御用聞きさんでは、乾物屋、八百屋、米屋(ヤミ米屋と呼ばれていた)、クリーニング屋、漬物の行商、呉服屋、などなど。ゴムひもなどの押し売りもあった。

「豆腐屋のおにいちゃんったら本当に失礼しちゃうわ。隣の若い広瀬さんの奥さんには『奥さん』っていうくせに私には『おばさん』だってさ。もう買わないわ。」
まだ、30代だった母が怒っていた。でも、それからも同じおにいちゃんから買ってはいた。

ある冬の午後、おでん屋さんに言われた。「坊や、体の中で『お』のつく所を5つ言ってごらん。できたら、何でも好きなおでんを5つ食べていいよ。でも、『お』を抜かしても言えるのは駄目だ。たとえば、「お尻」とかね。いいかい?」私は、それからず~とそのおでん屋さんについて行って夕暮れになってしまったが5つ出なかった。

気が長いのだろうか、今も時々数えたりしている。

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Last updated  2013年08月26日 21時14分09秒
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2013年08月22日
テーマ:海外生活(7115)
カテゴリ:幼少年期
子どものとき、「子どもが行ってもトシマエン」と今はオヤジギャクを飛ばす豊島園の近くに住んでいた。毎月「1の日」に練馬駅前通りに「縁日」が出る。バナナの叩き売り、金魚すくい、駄菓子屋、オモチャ屋なんかが私の好きな定番だった。
「お兄ちゃんが小学校の遠足のとき、バナナを1本買って持たせたのよ。でも、タコには絶対に内緒にしてね。皮はちゃんと捨ててくるんだよっていってね。あの頃、バナナが高くて家も貧乏だったから1本しか買えなくて、お前には買えなかったのよ。」
帰国時に母が話してくれた。私には3学年上に兄がいる。縁日では、大きな房のバナナが新聞紙にくるまれて売れていく。私は、ただそれを見ていた。どんな大尽の家が買うのだろうかと口を開けていた。

「坊や、メスだよ、メス!」ひよ子を売っている店のおじさんが、私の弱みに付け込んだような言い方で言う。だから、買ってしまう。父親に怒られる。二羽買えば、どちらかはメスだと思うから二羽買う。でも、実際は100%オス。そして、母親に怒られる。だいたいは、数日で死ぬ。湯たんぽを入れたりして一生懸命面倒みるが死ぬ。ところが、あるとき、二羽買った内の一羽が産毛も抜けて大きくなった。狭い家の中を駆け回る。父が、にわか作りの小屋を作ってくれた。

この鶏、一日中時間にかまわず「コケコッコー」。ぎっしりと詰まる長屋で、いつ苦情が出てもおかしくない。因みに、今多くの時間を過ごしているフィリピンでは鶏がそこら中にいる。食用と、闘鶏の為に育てている鶏だが、一日中鳴いている。こちらに来る方には耳栓を持って来られるように言っている。

ある日、この大きくなった鶏が逃げて父が追いかけまわし、薄くなった頭から湯気を出していた。父を初め、家族中がこの鶏を持て余すようになっていた。

父は三日に一度泊まりがある警察官。翌日は朝帰って来て寝る非番の日。そんなある非番の日、学校から帰ると鶏の小屋が無くなっていた。「今日は久しぶりに鶏鍋だよ。」母が、いつになく明るくそう言った。ひよ子の時は本当に可愛かったが、大きくなってそれが無くなり、目つきも怖くなっていたし、うるさくて正直のところ私もこの鶏から気持ちが離れていっていた。

その夕方、四人の食卓は鶏鍋だった。私は、箸が進まない。一口食べた。すごくまずかった。いつもの鶏の美味しさはなかった。私は、ほとんど食べずに夕食を終えた。そんな時には父にちゃんと食べないと駄目だと叱られる。でもその夕方は誰からも何も言われなかった。

その晩ずっと口の中がまずかった。それからは、縁日に行ってもひよ子は絶対に買わないことにした。生きものは金魚とか、食べなくてもいいものにすることにした。

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Last updated  2013年08月22日 16時30分31秒
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2013年08月09日
テーマ:国際恋愛(191)
カテゴリ:幼少年期
その少女はラビンといった。少なくとも私にはそう聞こえた。もしかしたらロビンだったのかも知れない。東京は大根で有名だった練馬区にグラントハイツという、バカでかい米軍の家族が住む住宅地があった。周りのウサギ小屋と違い、大きい緑色やピンク、そして黄色などのカラフルな家が広い敷地の中にポツンポツンと建っている。野球ができるくらいに広がる芝生は、春の風に鼻をくすぐられるように陽炎を立てる。二間の長屋から滑り出てきた私には、その芝生のにおいを嗅ぐだけで外国をしっかり味わうことができた。

小学校3年の時、私はそのロビンに恋をした。初恋だった。言葉は通じない。2つ年下だと一緒に行った中学生の重ちゃんが教えてくれた。私達はそのラビンの弟ポールとよくキャッチボールをした。

ある夏の日、ポールの母親がキャッチボールをしている私たちに家の中に入るように言った。外国人の家の中に入るのは生まれた初めてだった。今までに、嗅いだことのないような上品な甘い匂いがする。びっくりしたのは、外からはガラス越しにも中が全く見えないのに、家の中から映画の画面を見るように外がはっきりと見えることだ。自分が住んでいた家は外から中が恥ずかしいくらい丸見えだった。これがアメリカの家なのか。

お母さんがアイスキャンディーを出してくれた。英語が書いてある原色の派手な色紙に包まれている。紙を破ると溶けかけたアイスキャンディーが濃い赤い糸を引いて垂れた。ラビンが自分の写真を持ってきて見せてくれた。正装していて思いっきり笑顔の同じような写真が何枚もある。いつも窓越しにしか見ることのなかったラビンが目の前にいて写真を広げている。そして、何か話かけてくる。英語だ。恥かしそうに首を傾けて話すその言葉が全然分からない。英語が勉強したい、、、、。

お父さんが帰ってきた。太く低い声が台所の方からする。姿は見えない。もう帰らねば。傾いたラビンの首が横から前に倒れて目が隠れた。お父さんは最後まで姿を現さなかった。砂埃の中を自転車で急いで帰った。私の胸のポケットには、ラビンが微笑みながら私にくれた一枚の写真が入っていた。しばらく行けずに夏休みなって浮いた気持ちで遊びにいったらラビンの家族はいなくなっていた。他の家族が住んでいた。一人で行って、一人でずっと芝生に座って遠くからラビンが住んでいた家をただ見つめていた。

グラントハイツは、今は光ヶ丘団地という大きな団地に変わっていて、米軍住宅地は跡形もなくなっている。そして、私が育った六畳と四畳半二間の警察官住宅の家は、今は砂利がひかれた小さな駐車場になっている。変わっていないものがあるとしたら、それは私の金髪好きくらいのものだろうか。自慢にはならないが。そして、海外志向だろうか。

オーストラリア移住、メルボルンに27年住、そして今はメルボルンとフィリピンのセブを行ったり来たりしている。

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Last updated  2013年08月09日 12時35分10秒
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2012年08月21日
カテゴリ:幼少年期
「タコ、グラントハイツに連れてってやるよ。」
4つ年上のシゲさんがそう言った。私は小学校3年生になっていた。

「グラントハイツにはな、アメリカ人が住んでるんだ。面白いぞ。行くか?」
私は二つ返事で行くことにして、自転車に乗った。外国を見られると思ったらドキドキしてきた。

東京は練馬の向山町という所にあった警察官住宅に住んでいた。どの家も、貧しさを競っているような昭和30年代半ばの年のことだ。その家から自転車に乗って30分くらい行くと、今までに見たこともないような別世界が待っていた。広い芝生。黄緑、桃色、黄色の板塀の家々。隣との距離がしっかりとられていて、しかも塀も垣根もない。そこに、アメリカがあった。茶髪、金髪の子供たちが甲高い声を上げてキャッチボールをして遊んでいた。

これが私のアメリカ、海外の初体験となった。もう、病み付きになってしまった。暇さえあれば、この世界に浸っていたいと疼く思いが消えていかない。そして、9歳のときここで初恋の人ラビンに出会った。

今、ここは上に伸びる巨大な光が丘団地となっている。

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Last updated  2012年08月22日 00時31分25秒
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2012年04月12日
カテゴリ:幼少年期
人妻と手をつなぎながら盆踊りを見ていた。胸がドキドキした。もう、そのまま時が止まって欲しかった。小学校2年生の時だった。

神奈川県津久井浜海岸での盆踊りを、投宿している伯母の家に遊びに来ていた遠縁の美代子さんと見ていた。年は、恐らく私より二回りくらい上だったのだろう。ほのかな思いを寄せてしまった。禁断の思いだった。

「本当にタコったら、美代子さんの隣がいいってきかないんだよ。」
翌年、叔母と母が秋田に里帰りするときに、一緒に我々子ども達も行くことになった。そして、どういう訳か美代子さんも一緒だったのだ。上野から鈍行で秋田ま16時間も掛かる信じられないような長時間。お陰で、車中ではいろいろな動きがある。

途中で、私はどうしても美代子さんの隣がいいと言って母を困らせた。その頃から、異性に関することでは、妥協をを許さない律義な性格だったようだ。

美代子さんとは、この後中学1年になるまで会う機会がなかった。右肩上がり急カーブの恋心が、会ったときにどん底に突き落とされたその時の経験は、後世に語り継ぎたいようなものだったが。

この小学校2年生の時の経験がトラウマになってしまったのだろうか、今でも人妻と手をつないだりすると胸が張り裂けんばかりにドキドキする、、、、、ものなのだろうか、などと思ったりもしている。


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Last updated  2012年04月12日 20時16分42秒
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2012年04月10日
カテゴリ:幼少年期
子どもの時の農作業とかの話ではない。農作業といえば、母は秋田の農家を16歳の時に出て東京に移り住んだという。貧しい事もあったのだろうが、農作業があまり好きではなかったともいう。私もその血筋、前の帰国の時に買って密輸した「ごぼうのタネ」をまだ植えていない。

「先に出たら、トラックのインコースぎりぎりを走るんだよ!」
小学校1年生の時、教育実習に来ていた大柄で学生服姿の大貫先生が、緊張しきっている私にそう耳打ちした。練馬区立第二小学校の運動会の当日のことだった。この時、すでに私たちは新設分校の向山小学校に移転していたが、運動会は元の学校で行われた。

運動会の前の晩は寝られない。興奮して寝られない。遠足の前の晩もそうだったが。文房具屋さんで買ったばかりの運動用地下足袋を枕元にそっと置いて寝る。

私たちが小学校の時、運動会ではこの地下足袋を履いて一日を過ごした。以前、この話をしたときに、ある人が自分は裸足だったと言われていた。因みに、あまり関係はないと思うがローマオリンピックマラソンの優勝者エチオピアのアベベ・ビキラも裸足だった。

私は、小学校の時、身長と徒競走では誰にも負けたことがなかった。ところが、僅かな差で追いかけてくる学友がいた。留野と言った。足の方では将来抜かれる事になる。

親指で割れている地下足袋は実に走り易かった。機動性が高く、足にしっかりとフィットする。しかも安かった。難点は、ほころび易かったこと。踏まれたりすると痛かったことなど。

枕元に置いて、一日一緒に寝た地下足袋は、運動会の唯一日のためにあり、その日が終わるともう履けなくなり無残にも捨てられた。








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Last updated  2012年04月10日 22時37分04秒
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2012年02月21日
カテゴリ:幼少年期
生まれて半年で、東京の練馬区向山町という所に引っ越した。戦前からあったという四畳半と六畳二間が二軒繋がっていて、それが6棟でワンブロックを成していた。窓ガラスなんかは強風が吹けば割れてしまいそうに薄く、木造の外壁は薄黒く頼りなく立っている。ここの約14年間住んでいた。

家から5分もしないところに、細長い木造の平屋の古い建物があった。そこに、かりん糖工場があった。以前は、石綿工場だったという。考えてみると、民家の側に石綿工場があった訳で、健康被害とかもあったのではないかと思う。欠けて売れないくなったかりん糖を買ったのか只でもらったのか、食べた記憶がある。

この工場の横にバラックのような家が数軒あって、その内の一軒には金君が住んでいた。彼は在日朝鮮人で、学年は私より1学年上だった。金君は底抜けに明るい大柄な生徒でよく一緒に遊んでいた。

金君の家の裏には木造の二階家があって、その二階の小さな部屋に「くず屋さん」一家が住んでいた。名字などは分からず、私たちは「くず屋」さんと呼んでいた。夫婦でよくリヤカーを押して仕事に回っていた。

風采の上がらないオジサンに比べ、この「くず屋」さんのオバサンは、目が大きく体型もしっかりしていてなんだか色気のある人で、いつも不思議な夫婦だなと子ども心にも思っていた。体にぴったりとした赤の原色の薄汚れたワンピース姿でオバサンはリヤカーを押していた。しかし、その内この夫婦は居なくなっていた。

学校に上がる前から小学校低学年の頃の話だ。どの家も本当に貧しかったから、貧乏が全然気にならかった。

兄が日本からのお土産にかりん糖を買ってきてくれた。昔のかりん糖はもっともっと硬かったような気がするが、今のかりん糖はサクッとしていて食べ易く味も軽い。

かりん糖は、見るだけで私をあのその日その日を唯生きていた頃に引き戻してくれる。

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Last updated  2012年02月21日 20時18分02秒
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2012年02月12日
テーマ:海外生活(7115)
カテゴリ:幼少年期
小学校5年の時に父がトランジスターラジオを買った。もっぱら私が風呂場とかトイレまで持って入って、ビートルズなんかを聴いたりしていた。その頃のトイレはくみ取り式だったから、調子の乗って落としたりしなくてよかったが。

当時、どういう訳かヨーロッパの、特にイタリア、フランスの歌が大流行していた。正に国際的だった。イタリアでは、ジュリオラ・ティンクレティー、ミーナなどが流行っていた。そして、男性歌手でものすごい甘い声のボビー・ソロがいた。彼の「ほほにかかる涙」には惚れこんで、分からないなりにもイタリア語で少し歌ったりもしていた。

基本的には、女性歌手の歌に惹かれることが多かった人生だが、このボビーの歌は別格だった。ソフィア・ローレン、ジーナ・ロロブリジダ、クラウディア・カルディーナーレの強烈路線の延長線でイタリア語を勉強したいと思ったことがあった。高校生の時だった。動機がいかにも不純だったが。

でもその伏線は、ずっと以前のカンツォーネにあったのかも知れない。このYou Tubeの画像を見ていて、そういう思いが強くなってきた。

http://www.youtube.com/watch?v=YGlOyyZZLuc&feature=list_related&playnext=1&list=AVGxdCwVVULXeddHd5l_1qaQpAoZTXewHs

リタイヤ後は、イタリヤ語に挑戦してみたい気もしてきている。

  • img_903173_10717465_1.jpg




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Last updated  2012年02月12日 21時46分08秒
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2011年08月02日
テーマ:海外生活(7115)
カテゴリ:幼少年期
どうやって、あんなに沢山の人が住んでいられたのだろう、と思えるくらいの狭い土地の長屋に住んでいた。東京は練馬の警察官住宅だった。

私たちの家の狭い庭には柿の木が植えられていた。隣にはイチジクの木があった。因みに、このイチジクの木に抱きつくかっこうで登り、滑り落ちあらぬところを損傷して近所の医者にかつぎ込まれたことがあった。学校にあがる前のことだった。今のところ、後遺症は出ていないようで良かったが。

この柿の木、一度だけ狂い咲きしたように100個以上の実をつけた年があった。小学校の低学年の頃だったろうか。来る日も来る日も学校から帰ると柿を食べていて、その内飽きてきてしまった。しかし、その翌年には全く実をつけなかった。

メルボルンのアジア系の八百屋さんで、大ぶりの柿を見つけ買ってきた。サクサク感があって結構美味しい。柿はレモンに負けないくらいビタミンCが豊富だという。こちらの家にはどこでもレモンの木がある。ちょうど日本の柿の木のように。ビタミンC繋がりだった。

ここで一句

柿食えど
  何も鳴らない
    メルボルン

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Last updated  2011年08月02日 17時10分45秒
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2011年05月22日
テーマ:たわごと(21655)
カテゴリ:幼少年期
幼いころ、母に手を引かれて中村橋に買い物に行く時にいつも立ち寄る肉屋さんがあった。

この店はいまはマクドナルドになってしまっている。

5円のコロッケ、できたばかりの湯気がたつコロッケをホーッホーッといいながら食べる。

世の中に、こんなに美味しいものは絶対にないと思えた。


http://www.youtube.com/watch?v=e6Isgq1ZEB8&feature=related




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Last updated  2011年05月22日 09時01分08秒
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