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タコ社長,オーストラリア・メルボルンのスローライフな日々

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移住模索期

2014年06月09日
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テーマ:海外生活(7131)
カテゴリ:移住模索期

朝のテレビのワイドショーをよく母と一緒に見た。33歳でオーストラリアに永住権を求め
て1985年6月に両親の住む東村山を後にした。1年以上オーストラリアのメルボルンに滞在し、やっとのこと永住権を申請することができ、日本に帰って結果を待っている半年間の間のことだった。

宮尾すすむさんの「ああ日本の社長」という番組は二人の好きな番組でもあった。ビックカメラの社長の話しなど、今も覚えている。

「大学まで出て、そこそこの会社に入って、辞めてお母さんと朝からテレビ見てるって、どっかおかしいと思わないかね。」可なり応えた母の一言だった。

この社長シリーズでは、若いころにいろいろ苦労して社長になった方々の話が多かったように思う。宮尾さんの語り可笑しくて二人で笑い転げながらも、私は、この時は心から笑うことはできないでいた。

「悔しかったら、お前もああなってお母さんを安心させてよ。」
オーストラリアに行って、まずカフェで皿洗いをした。そして、日本食レストランでも皿洗いをした。テレビで見た、皿洗いから始めて社長になった人たちのことを思い出した。しかし、皿洗いをしていて皆が社長になれるなら、それこそ世の中社長だらけになる。

日本食レストランでは粉にまみれて天ぷらも揚げていたが、どうにもカラッと揚がらない。180度の温度調節が難しい。ベテランのシェフに、目の前で私が揚げた天ぷらを全部捨てられたこともあった。慣れない包丁で指を切った。料理なんか小学校の家庭科の授業以来ほとんどしたことがなかった私が、日本食レストランで働いている。

だが、こうしたすったもんだの甲斐あって、なんとか永住権を取得して1987年3月に再びオーストラリア入りした。

永住してから、すぐ金髪女性と結婚して数年で別れた。その別れた妻の母親に、「あんた、日本に帰った方がいいよ。」と静かに言い切られ、顔から血がすっと引いて上げられなかった。脛は傷だらけで、人の脛も借りないとならない人生だった。しかし、この時日本に帰るわけには絶対にいかなかった。

私は、基本的には飽きっぽい人間だが、その中でしつこく追い求めてきたものがいくつかあって、それらに関しては絶対に諦めないで今に至っている。

今月の23日に、88歳になる母が1人で住む日本の東村山に一時帰国する。

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Last updated  2014年06月09日 20時03分27秒
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2014年03月28日
テーマ:海外生活(7131)
カテゴリ:移住模索期
ギリシャの大富豪、オナシスが言ったという。
「どんなに小さくて貧弱な家でも、名の知れた有名な地域に住め。」
どちらかというと富豪に弱い私、メルボルンの田園調布と言われているトゥーラックに住むことにした。ある日、歩いていたら30分間に5台のロールスロイスを見た。人が金持ちなのを自慢しても何も始まらないが。

家具付きの一部屋のスタジオタイプで、当時週75ドルだった。隣の部屋には、日本人のワーホリの男女4人が済んでいた。さすがに、そこまではできなかった。1985年10月のことだった。

ある朝カーテンを開けると、大きな窓ガラスに黄色い卵の線が太く何本も流れている。小さな殻なんかもひっついていて、朝日に当たって綺麗だ、なんて思ったわけではないが、一瞬、何があったのか飲みこめなかった。投げられて間も無かったら、ちょっときれいに取って、朝食の生卵ぶっかけご飯とかに利用できたのだが、残念ながら固まっていた。拭き取るのが大変だった。トマトなんかにしてくれれば、どんなによかったことか。友人を呼んで夜中に騒いだのが原因だったのだろうか。

それから少しして外出から帰ると、住人用の小さな郵便ポストに貼り紙がしてあった。住人の多くが目にしていたことは想像に難くない。
「8号室のこの男、次から次へと女を連れ込んでいる酷い奴だ。」
褒められているのではないことは分かった。確かに、火のない所になんとやらではあろう。お付き合いさせていただいていた方もいて、部屋ですき焼きなどをご馳走したこともある。しかし、ここまで来ると逆恨みといってもいい。

そうこうしている内に、今度は泥棒に入られた。小銭と、大切な方からいただいた腕時計
をやられた。私服の警官が1人で来て5分ほどいて帰っていった。その潔さを、実家の東村山に住んでいた、警察官の父に報告したいくらいだった。殺人でも犯さないと、まともに扱ってもらえないのだろうか。富豪のいう事なんか聞いてろくな事はない。

このアパートから、毎日歩いて片道30分ある日本食レストランまで通っていた。そこで、あるアルバイトをしていた。トラムと呼ばれる路面電車に乗って行くこともあった。ある日、その停留所で待っていたら、車が止まって日本語で乗らないかと言われた。小柄で細面の中年日本人女性だった。
「ワーホリ?大変ね、日本人だと思うとすぐ載せたくなっちゃうの。頑張ってね。」
10分ほどのドライブだったが、不思議と胸が熱くなった。昔、いろいろ苦労して長く住んでいる方だったのだろうか。

あれから28年になるが、卵による被害はあのときだけだった。もっとも、あのアパートの上の住人、人種差別とかではなく唯単に嫌がらせが好きな方だったのだろうが。

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Last updated  2014年03月28日 14時01分34秒
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2014年02月26日
カテゴリ:移住模索期
まずこの国、オーストラリアをみてやろうと思った。バスの一カ月乗り放題パスを購入、メルボルン、アデレード、エアーズロック、ダーウィン、ケアンズ、ゴールドコースト、ブリスベンそしてシドニーと回った。ちょうど、地図でいうとオーストラリアの右半分だった。都合、バス中5泊となり、最後には揺れてないと眠れぬほどになっていた。まず、デカイ国だと体全体で感じることができた。1985年の7月のことだった。

「私も、こんなサングラスが欲しいわ。」
豊満な体に黒い小さなビキニで泳いでいた白人金髪女性とこうして会話が始まった。ダーウィンで投宿していたユースには、小さいけどきれいなひょうたん型のプールがあった。7月のダーウィンは、どこにも遠慮せずに最高の気候だといえる。オーストラリアは真冬だが、北のダーウィンではカラッとした夏の天気で十分泳げる。

私は昔から顔が広いというよりデカイと言われて育った。来る前に赤坂で買った度でかいサングラスが役に立った。
「日本から来て、今、旅をしているんです。」
私は、ややぎこちなく言った。
「私、ジェニーっていうの、ゴールドコーストから出稼ぎに来てるのよ。」
会話はジェニーの屈託ない性格に助けられるように進んでいった。幸い、プールには他に人がいなく、余計なことに気を回さなくていい環境があった。彼女の声はやや太く低くプールの中に響いた。

「どう、今夜カジノに行かない?」
そうか、ダーウィンにはカジノがあるんだ。ちょっとした会話の後彼女が言い出した。当時は、メルボルンにはカジノがなく、行くとしたら初めての経験になる。賭け事はというと、日本でのパチンコ以来という地味な人生を歩んできていたから、カジノ行きには興味がそそられた。旅行中にちょっと気取った所に行かないとも限らないということで、バックパックに紺のジャケット を綺麗にたたんで入れていた。いよいよその出番だ。綺麗にたたんでいても、やはりバックパック、皺伸ばしに十分苦労した。

カジノには歩いて出かけた。ジェニーは黒く体にフィットした水泳選手のような一体式のワンピース姿で身を包んで、ピンク色の薄手のカーディガンを羽織っていた。どっから見てもものすごく目立つ!そして隣にはジャケット姿のでかい元相撲取りのような東洋人。見るなといっても無理にでも見てしまいたくなるカップルだ。歩いていて視線が気になる。

カジノの中に入ってみて驚いた。ジャケットなんか着けている人は1人もいなかった。みんな、半ズボンにスニーカーみたいな人ばかりで、まるで成金のアジア人のようで、私はすぐにジャケットを脱いで肩にかけて中を歩いた。まったく何から何までカジュアルなダーウィンだった。というより、オーストラリアが基本的にカジュアルな国なのだ。金もないので賭けごとはせずにバーで飲み始めた。

「昔、私はストリッパーだったの。」
もったいなくて、聞き直したりしない。しっかり聞こえた。酔いが一気に回りそうな目まいを感じた。こういう時は、絶対に顔以外を見たりしてはいけない。そういう機転だけは昔からよくきく。

ジェニーはハイボールのグラスを回しながら話を続けた。
「でも、今はこう見えても、いっぱしの写真家なのよ。結構厳しい競争社会だし、出遅れているので大変だけど頑張ってるわ。」
ジェニーは、写真で生計を立てていて、その仕事でダーウィンに出稼ぎに来ていたのだ。若作りだけど、おそらく40歳に手が届きそうな年なのだろう。きっとストリッパーでは食べていけなくなったのだろう、などと余計なことまで推し量ろうとした。それにしても、いつまで見ていても見飽きない人だ。美人は3日で飽きるという言葉を返上したくなる。

私は、オーストラリア入りしてから、毎日家計簿を付けて節約していた。カジノにいても人が賭けているのを見ているだけだった。ジェニーも、お金はなさそうだった。しばらくブラブラして、真っ暗な道を歩いて帰ることにした。彼女は、途中から黒いサンダルを脱いで裸足になってその両方のサンダルを肩からかけるようにして気だるく歩いていた。昔、こういうシーンを映画で見たような気がした。仕草が絵になる人だ。

ジェニーと私は、あまり会話はないが、生温かい夜の空気に吹かれながら私の気持ちは浮きっぱなしだった。やっとユースに戻った。午後泳いだプールが、誘うように月の明かりを受けながらも黒く小刻みに揺れていた。

「良かったら部屋でいっぱい飲む?ビールくらいしかないけど。」
「OK」
平静を装った。酔ってない筈なのに、のぼせて胸がドキドキする。二階の奥の彼女の部屋までの距離がやけに長く感じた。

部屋に明かりが付いている。ドアを開けるとTVの音がした。中に入った。
「これスティーブ。」
はち切れるような白いショートパンツ姿で上半身裸の50絡みの男が、ラッパ飲みしていたビールを置いて席も立たずに真顔で私に握手の手を伸ばして、手がひん曲がるほどの力を込めて私に握手した、、、、

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Last updated  2014年02月26日 07時30分19秒
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2013年12月09日
テーマ:海外生活(7131)
カテゴリ:移住模索期
建設機械メーカー海外営業部に所属していたサラリーマン時代、担当はインドとパプアニューギニアだった。どうして、金髪大柄の多いアメリカとか、美人の多いことで知られているポーランドとかじゃいのだろう、と文句の一つもいいたいところだったが、仕事も覚束ない新米社員の頃で口答えできない。もっとも自分の行きたい所には行かせないのが会社というもの。

仕事はそこそこ面白かったのだが、あるときインドの大プロジェクトで直属の部長と課長の板ばさみになり、課長が死ぬの生きるのといっているような状態のなか、正直仕事に冷めていってしまった。「脱サラして、オーストラリアで日本語教師になろう。」と自分で自分に辞表を出し、ついでに辞令も出した。これからは自分の人生の進路は自分で決めようと格好よく言ったりしていたが、実のところは会社の組織から完全に脱落した負け犬の遠吠えだったのだろう。やり直し人生をオーストラリアに賭けた。

まず、体の悪い所を直そうと考えた。命には別状ないがあっても邪魔なものは、前も後ろもきれいにさようならした。脱サラして規則的な生活をし出したら、体重が10キロ減った。飲んでから最後にラーメン、餃子、ゆで卵なんかが定番だったサラリーマン時代。それが終わっただけで痩せた。これには驚いた。

それにしても、当然ながらオーストラリアにはビザがないと観光には行けても住めない。日本語教師だけでは弱い。何か、日本人ならではの技術を、俄か作りで習得しようとした。「そうだ、指圧をやってみよう。」熱しやすいことは天下一品、特に異性に関しては、池の鯉にでも恋してしまう性格。決めたら即実行。

シャネルの5番だけのマリリン・モンローを隈なく指圧しまくったという伝説の指圧師が日本にいた。彼女は、私の金髪憧れの元祖原点の方だ。因みに、秋田生まれの母とモンローは同じ年、彼女が生きていれば今年87歳か。更には、エリザベス女王が秋田で生まれていたら同級生。母の場合は、シャネルとかじゃなく桃の花とか、もっと身近なものだったような気がするが。この伝説の指圧師、浪越徳治郎さんが立川の朝日カルチャーセンターで家庭指圧教室をやられていたので、失業保険を取りに行くついでに資料をもらい即断で入会した。

こうして、いろいろ準備して1985年6月にオーストラリア入りした。贅肉も無くなったが金も無く、あるのはどデカイ夢だけの33歳。結局、永住権は指圧でも日本語でも取れず、すったもんだのあげく、日本食レストランのマネージャーとして奇跡的に取得できた。

今は、セブで時々一時間500円でマッサージに行くことがある。まかり間違えれば、自分がやっていたのかも知れないなどと思うとパンツ一丁で思わず苦笑いしてしまう。ご希望の方にはやって差し上げたい気持ちもなきにしもあらずだが、気持ちはあっても指がついていかないので話だけに留めておく。

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Last updated  2013年12月09日 21時09分16秒
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2012年10月28日
テーマ:国際恋愛(191)
カテゴリ:移住模索期
「タコさん、何ボーっとしてるんですか。ちゃんと、焼き鳥の串刺し続けてくださいね。」
ヘッドシェフでチーフの新川さんが言った。私より年下だが、プロのシェフ。私は、オーストラリアビザ狙いのにわか作りのキッチンハンド。

昔、私が勝手にメルボルンの青山・六本木と呼んでいたサウスヤラという所にあった日本食レストランで働いているとき、寿司シェフでチーフの新川さんが言った。

仕込みをしながらレストランに流れるラジオからの音楽に思わず手が止まってしまった。一ヶ月前にニュージーランドを旅行中にある宿舎で流れていた曲だった。

That’s what friends are for.

http://www.youtube.com/watch?v=wTcHT4zpAGs

「タコ、どうしても行かないとならない所があるの。」
ニュージーランドをバックパックを背負って旅行しているとき、アメリカ人のリサと移動中のバスの中で知り合った。リサは30歳の消防士、ファイアーファイターで休みを利用して1人で南島を回っていた。背中まで素直に伸びた金髪を束ねて大きな笑顔を作りながらややハスキーボイスで話かけてきた素敵な女性だった。

いや、実は、布袋にいっぱいに詰まったニンジンをぼりぼりと音を立てながら食べているリサに思わず話かけようとしたのは私の方だった。しかし、目が合ったときに彼女のほうから「ハーイ」と挨拶してきたのだ。手にしていた分厚いペーパーバックはフロイトの本だった。1986年1月2日のことだった。バスは、クイーンズタウンから氷河の山、フランツジョセフを目指していた。

それからアーサーズパスを経由して、1月4日にクライストチャーチにたどり着くまで可也の時間を一緒に過ごした。旅行代を節約するという意味で、クライストチャーチの街の安ホテルの同じ部屋を予約した。夕食が終わって、ホテルの戻り、寝ようとしているときにホテルのラジオから、雑音の混じったThat’ what friends are for. が流れてきた。安ワインの酔いも手伝って、浮いた気持ちが勝手な夜の想像を大きく膨らませる。

夜の11時近くに一体リサはどこに行くというのだろうか。遅いから明日にしたらと言ってみても、しかし、リサはバックパックをすばやくまとめ、フロントにタクシーを一台予約してしまった。

「きっと電話するわ。また会いましょう。ニュージーが駄目なら、タコが住んでいるメルボルンに必ず行くわ。」
会ってまだ2日しか経っていないのに、ずっと一緒にいて恋心が一人歩きしてしまっていた。惚れ易さは、小学校の時からの折り紙つき。

「有難うタコ!」
そういいながら、リサはタクシーの窓を目いっぱい下げて、唇を丸くすぼめて手の平に近づけて投げキスをして消えていってしまった。しつこい私からやっと解放された喜びだったのだろうか、あの時にリサの笑顔が忘れられない。

That’s what friends are for.


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Last updated  2012年10月28日 21時16分05秒
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2012年09月18日
カテゴリ:移住模索期
「Neutral Bayにね、Pickled Possum っていう弾き語りの店があるの。今から行かない?」
シドニーの歌舞伎町、キングスクロスのステーキハウスのバーで何度か見かけ話すようになっていたアメリカ人のニッキーが私を誘った。

眩しい金髪のニッキーは、恐らく私より年上だったろう、30代後半に見えた。私は日本から、彼女はアメリカから移住を求めてオーストラリアにやって来ていた。1985年の6月のことだった。

しゃれた店の多いNeutral Bayだったが、夜の11時を回っており、飲み屋のネオンだけが人を誘っていた。店は平日の夜だったが結構混んでいて騒がしく、ピアノの音がよく聞こえないほどだった。

「タコもいつか永住権が取れるといいわね。」
ニッキーはそういいながら、私から目をそらしピアノの演奏者の方を向いた。ニッキーの横顔が薄暗い赤い光を虚ろに照らし返してくる。演奏の音とは反対に、気だるい思いがしてハイボールを何杯飲んでも酔えなかった。

よし、オーストラリアをバスで回ってみよう。シドニーは長くいる所じゃない。まずこの国をしっかりと見てみよう。

翌朝、私は小豆色の安いバックパックを買って、グレーラインのバス一ヶ月乗り放題のチケットも購入し、一人で旅に出ることにして準備に入った。


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Last updated  2012年09月18日 23時07分34秒
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2012年05月02日
テーマ:海外生活(7131)
カテゴリ:移住模索期
「タコさん、俺、やっぱ日本に帰ります。」
1987年、メルボルンでフラットをシェアーしていた信君がそう言いだした。私も、義君も永住権を取ってそんなに長くない頃のことだった。彼も私も日本食レストランで永住権を取った。それが近道だった時代の話しだ。

日本の家の事情などで、せっかく取得した永住権を放棄するという。願っても取れない永住権で苦労している人も多い中、あっさりと日本に戻るという。

家具が殆どないので、だだっ広いフラットでよく夜遅くまで一緒に話した。

あれから四半世紀。抜け毛が多く、あの頃はこんなフサフサの髪をしていたのかと驚くし、毛染めをしないと、まるで他人のようにさえ思えてくる。気持ちの方はどうかというと、あの時とあまり変わっていないような気がする。

格好良く言わせてもらえば、現状に全く満足しない。悪くいえば、気持ちが定まらなく形のあるものが作れない。自分のニューフロンティアはどこにあるのか。全く悟らない度し難い中年オヤジだ。誤解を恐れずに言わせていただけるなら、恋する気持ちも大切にしていたいし、新しい仕事、新しい住処なんかにも食指が動く。

脛に隠しきれない程の大きな傷もあるが、今は自分の幸せが何処にあるのかは自分が一番よく知っている。その座標をしっかりと見据えながら、思い違いや勘違いをしないようにしてやっていく。

今晩は、ちょっと酔っているのかもしれない。オランダ系の連れ合いが、お茶と言っているので淹れてくる。


勇気を貰える一曲


http://www.youtube.com/watch?v=8mhg4egwQ-Y&feature=related


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Last updated  2012年05月02日 21時35分28秒
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2012年04月01日
カテゴリ:移住模索期
「ピーターさん、レストランが休みの月曜日にレストランを使わせてもらえませんか。日本語クラスを開きたいんです。」
メルボルンの青山と私が勝手に言っていたサウスヤラにあった「南レストラン」でバイトをしていて、そこで日本語を教え始めたいと思っていた。オーナーのピーターさんにこう言うと、ピーターさんは快くOKを出してくれた。正直、やっと移住の目標「日本語教師」をスタートできる、そう思うと胸が熱くなった。1986年の6月のことだった。

昼は主婦のクラス、夜は仕事をしている人のクラスがスタートした。毎週月曜が待ち遠しくてしかたなかった。オーストラリアで日本語教師に成る、と言ってサラリーマンも辞め、両親も説得して来ていたが、なかなか機会が持ててなかったのだ。

「きのう、なにをしましたか?」
「うみに 行きました。」

「買います、買いません、買いました、買いませんでした、、、、、」

初級のクラスは生徒の成長が早くて教師としても遣り甲斐がある。ここで、面白くないとなれば彼らは絶対に続けない。初級の教師程大切なものはないと今も思っている。それには、何よりクラスが楽しくないとならない。日本の学校の英語のクラスが楽しいと思ったことはなかった。いつもびくびくしていたような気がする。

「南レストラン」で教えることができたことが、その後の私の日本語教師としての道をしっかりと開いてくれることになった。ピーターさんは今、香港に住んでいてときどきメールをすることができている。恩人だ。

代々木にあったパナリンガ学院で日本語教師になる勉強をしていたとき、その長島学院長がいつも言われていた。。

「タコさん、大丈夫です。必ず道は開けます!」




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Last updated  2012年04月01日 21時11分53秒
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2012年03月28日
カテゴリ:移住模索期
移住を求めて1985年6月16日にシドニー入りした。日本にいては何も始まらず、無鉄砲にも観光ビザで飛びこんで来てしまった。33歳になっていた。

日本で言うなら歌舞伎町のど真ん中、みたいなキングスクロスに投宿した。週84ドルのSpringfield Lodge という所を日本から予約していた。場所がよく分からずに決めたが入ってみて驚くことが多かった。売春宿街みたいな所でもあった。でも、すぐに慣れた。最後まで慣れなかったのは横になると床に着いてしまうよなスプリングの効き過ぎたベットだった。でも、一人で寝るんだからこれも別段大きな問題ではなかった。ここの映りの悪いTVで、あの日航機墜落事故も見た。

私の移住を求める長い長い旅は、この薄汚れたホテルの部屋から始まった。

サラリーマン時代の先輩が、たまたまシドニーに出張していて会う事になった。取引先の三井物産の土方さんという人も一緒だった。海外経験の長い土方さんからいくつかのアドバイスをもらった。

1 孤独に耐えるのはいいが、部屋の片隅で耐えるのではなく、堂々とまん中で耐える。
2 まず自分からAction を起こす積極性を持つ。
3 日本人ということを変な意味で意識せずに現地に溶け込む。しかし、日本人を30年以
  上やっているのだから、忘れていいこととそうでないことをはっきり意識すること。
4 国際結婚して日本人の夫としての威厳を保ちたかったら、日本で数年住んでみること。
  それができないのであれば、本当の意味でオーストラリア人に成りきるよう努力する  
  こと
5 自分の信念は決して曲げないこと。

そして最後に極めつけ、母親に毎週か二週に一度は手紙を書くこと。

その夜は、宿の柔らか過ぎるベットでいろいろ頂いたアドバイスを思い出したりして、なかなか寝付けなかった。




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Last updated  2012年03月28日 21時43分46秒
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2012年03月27日
テーマ:海外生活(7131)
カテゴリ:移住模索期
オーストラリアに最初に現れた日本人は、慶応3年(1867年)にメルボルンのプリンセス劇場で公演した12人の日本人曲芸団「大ドラゴン一座」(全豪日本人会編『オーストラリアの日本人』)ということであるから、日本人とオーストラリアとの関わりは、130年以上に及ぶことになる。最初に来たのは軽業師、芸人だった。

私の甥っ子、タコ丸は指で大根を回す芸でTVに出たことがある。よく学校で鉛筆を回したりしたことは誰にでもあるだろうが、それが高じてきゅうり、大根とエスカレート。放っておけば、細身の人間まで回しそうな勢いだったようだ。

芸といえば、メルボルンはその人口比からゲイが世界一多い都市と聞いたことがある。なんでも一番はいいことだが、私がお付き合いさせていただいた方の息子の結婚相手。彼女のお父さんが、ある時からお母さんになってしまった、なんてこともあった。詳しい説明はこの際省略するが。

「名前は何て言うんだい?」
アリススプリングスからダーウィンに向う空いているバスの中で、オージーの男が私の隣に座ってきてそう切りだした。1985年7月のことだった。その男は、両肘に蜘蛛の巣の刺青をして細身でやや髪を長くした善良そうな人に見えた。話しかけられると嬉しくなる移住候補生の頃の話で、いろいろと会話が始まった。

オージーは親切でいいな、何ていう印象を大きくしようとしていた時、この男が私の太腿を撫でるような行為に出だした。鳥肌が立ち、あっちこっち縮みあがってしまい、そんな様子が露骨に顔に出たのだろう、その男は別の席に移っていった。

夜のバスの窓ガラスに映るその男を目で確認しながら、なかなか寝付けない車中泊となった。




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Last updated  2012年03月27日 09時31分57秒
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