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タコ社長の海外生活30余年ゾクゾク日記

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移住まで、そして移住から

2019年05月18日
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シドニーの新宿歌舞伎町、キングスクロスが私のオーストラリアでの生活の出発点だった。日本から、わけも分からず予約をいれた簡易ホテルに1ヶ月ほど投宿した。1985年の6月のことだった。

ヨー ロッパのカフェ文化が少しずつ浸透してきていた。宿から歩いて1分くらいのところにBourbon & Beefsteak Barというステーキレストランとバーが一緒になったよう店があった。24時間営業だ。バーの奥にはピアノの弾き語りなんかがあって、割と落ち着いたムー ドを出していた。週末にはすごい賑わいだったがウィークデーはゆったりと飲めた。好奇心も手伝って、毎晩一杯ひっかけに行っていた。六本木交差点の近くに あったバーニーインに似た雰囲気があった。因みに、この六本木の店には時々行っていたが、白人男性と友達になりたい日本人女性からシカトされることが多々あってマゾっけが磨かれた。日本人の男はお呼びじゃなかった。

黒人のピアニストがビリー・ジョーの「ピアノマン」を奏でている。
「どっからきたの?」金髪を素直に伸ばした、年のころでいうと30代後半の地味な女性が話しかけてきた。こういうことは、日本ではまったくなかったことだった。

「東京から。」私は、日本とは言わずいつも「東京」ということにしていた。茨城とかだったらそうもいかないが、「東京」を知らない外人はいないだろうと思っていた。



「私はカルフォルニアから来ているの。ニッキー、よろしくね。」
そうか、彼女も外国人だったのだ。境遇は同じだ。人恋しかったのだろう。

「この手羽先、食べられないわね。」
ニッキーと名乗った彼女はエクボを作って、無料で出される手羽先に苦笑いした。確かに身がない手羽先だった。

「僕は一ヶ月、このキングスクロスに住むことにしてるんだ。」
中学3年程度の簡単な英会話で十分通じる。ハイボールをチビチビとなめながら、音楽に聴き入った。

ほんのちょっと前までは、東京は東村山にいて、押入れから冬物を出して渡豪の準備をしていた。今は、観光ビザで将来のあてもなく、シドニーのバーでアメリカ人の女性と話している。不思議な気持ちが渇いたピアノの音にくるまれて生温かく漂う。この開放感がたまらなかった。先の見えない将来への不安がなかったといえば嘘になる。それと裏腹に、これからの人生なんでも可能なんだ、みたいな変な自信もあった。不安と自信が、ハイボールの中でぐるぐる回って酔いが早い。33歳になっていた。

ニッキーとは、このバーでそれから2,3回出会った。いつも、同じ席に座って、時々ピアニストの黒人にニコッとしたりする他は、ほとんど動かない。金髪の派手な輝きだけが浮いている。

一度だけ、ニッキーとハシゴをしたことがあった。モスマンという所にあった「ピクルドポッサム」という、やはり弾き語りのあるバーに連れて行ってくれた。お互い金がないのでバスで行った。ピクルスは漬物のことだが、この場合は酔い潰れた酔っぱらい、という意味だとニッキーは教えて くれた。

彼女もオーストラリアに移住を求めてやってきているらしい。でも、なんだか影がありとっ突き難いところがあって、会話がうまく運ばない。永住権取得もうまくいっていなかったようだ。せっかく行った二軒目の店で、周りの喧騒とは裏腹に私は息苦しくなって先に帰ることにした。

それから、Bourbon & Beefsteak Barでは彼女を見かけなくなった。そして、私は6月の末にはメルボルンに移動し一カ月の旅に出た。

永住権を求めて、根無し草のように漂っている人が多くいることを知った。私もそのうちの一人に仲間入りした。それから暫くして、私は憧れたいたシドニーを後にしてメルボルンに向かうことにした。

メルボルンに向かう夜行バスの窓ガラスに黒く映る自分自身を見つめながら、自分は永住権を取るまでは絶対に日本に帰れないな、と当てもないのにひとりごちしていた。







Last updated  2019年05月18日 15時48分53秒
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