前橋競馬場を見つけました。
前橋競馬場迅速地図で見つけました。場所は今の前橋保健所とその周辺の団地、公園などの一角です。出典 「農研機構農業環境変動研究センター」で公開している迅速地図合計で921枚に上る迅速地図は1886年(明治19年)に完成し、地図はその後21世紀まで1枚も失われることなく保存されている。 ウイキペディア前橋競馬場ネットで検索しても何もヒットしませんでした。伊勢崎競馬場などは写真も残っていますし、GO伊勢崎の記事https://www.go-isesaki.com/isesaki_past_present.htmlの中で出てくるカスリーン台風と競馬場の思い出を語った掲示板の記事などもあります。ウイキペディアによると江戸時代末期 外国人居留地における競馬 この競馬は治外法権に基づいており、幕府や明治政府による賭博の禁止の影響を受けることなく馬券が発売された。やがて根岸競馬場において行われた洋式競馬を模倣して、各地で競馬が行われるようになった。当時の競馬はこのように政界、財界、あるいは軍や皇室、国賓などの上流階級のための催しとして行われ紳士淑女の集う場所とされていた。しかしこうした日本人による競馬は馬券の発売ができなかったため、経済的な理由でおおむね明治30年代には全て廃れた。 この鹿鳴館時代の国賓などの上流階級のための紳士淑女の集う場所競馬場 が前橋にもあったのです。追記 2021,3,28その後調べましたら東通り天川村御絵図にこの場所の画像がありました。群馬県文書館のサイト内データhttps://www.archives.pref.gunma.jp/exhibition/moyooshi-28-2このページの ”11 東通り天川村御絵図” の画像をパソコンでクリックすると縮小版ですが 画像が出てきます。楕円形の形も大きく描かれています。安政6年1859 2月だそうです。江戸時代、、、ペリー来航が1853ですから幕末ですね。慶応4年9月8日より明治に改元したが、「慶応4年をもって明治元年とする」としているため旧暦1月1日に遡って適用される。なお慶応4年9月8日は西暦で1868年10月23日である。 ウイキペディア迅速地図の完成が1886ですので その27年前には競馬場があったことになります。明治になる9年前です。鹿鳴館は関係ないのでしょうか。なお この絵図でも楕円形の敷地を東西に区切って表示しています。年表をまとめてみました 出典はウイキペディアのあちこちの記事✙2つの地図1853 ペリー来航1858 外国人居留地 江戸時代幕末の1858年に締結された日米修好通商条約など欧米5ヶ国との条約により、開港場に居留地を設置することが決められ1859 東通り天川村御絵図 楕円形の画像1860 確認可能な最古の居留地競馬は、1860年(万延元年)1861年以降、横浜の外国人居留地で西洋式の競馬(近代競馬)が盛んに行われるようになった。その形式は楕円形の馬場と3頭以上の馬を用いてレースを行うというものであり、まもなく日本人によって日本各地で近代競馬が模倣されるようになった1868 明治に改元1870 東京九段で招魂社競馬1886 迅速地図の完成 楕円形の画像 競馬場の文字