|
カテゴリ:八王子古道 ホント? ウソ?
1990年ごろの地図が見を見つけた。
現在の川越道の元となる前身のルートがあった。 浅川橋が架かっている。 その一方、八高線がまだないことが分かった。 そして・・・ 中央線(当時は違く呼ばれていたはず)の浅川鉄橋手前のカーブに入るところからまっすぐに少し進み、緩やかにカーブを描きながら湯殿川を渡るところまで鉄道が通っていた。その先は何だったのだろう? 拝島橋のすぐ脇には拝島の渡しがあり、そこからさらに700mほど上流にも渡しがあったようだ。 前者の渡しは拝島橋に繋ぐルートだと思う。 後者の渡しはそれ以前か?この渡しからのルートは純心短期大学の東に神社があったようなのでここにおりてくる滝山丘陵超えの拝島の宿の東に繋ぐ本ルートだったのではないだろうか? また、滝山丘陵を尾根伝いに東に津進み、道の駅滝山近くにおりてくると八雲神社がある。こちらも考えられる。この八雲神社辺りの西側が八日市、東側が横山となっていたようだ。 このころの左入~拝島の渡しは山越えだったようで、現在でいうと左入から拝島橋方面に向かって坂を上りかけた所で右側に入る道があり、平の渡しへはここで道なりに上がっていっていた(現在のような左入から宇津木の方に曲がって上がるルートではないことに驚いた。宇津木の方に向かってから上がるルートがなかったわけではないがメインルートはそちらではなかった)。拝島の渡しへは入ってすぐ左折で山越えルートになる。現在はここから上がる道はない。もう少し上ったところに右手前に上がる道がありその道を上ると旧道に繋がるが、途中で道路整備で削られてしまった。この旧道では拝島の渡しから久保山へ抜ける道と平の渡しへの道で三角の辻になっている。拝島の渡しへは現道路を横切り、そして現道路の「滝山城入り口」に出る。そして現道路の左に並行して途切れ途切れに拝島の渡しへと続いていた。そして拝島の宿の東側へ。 滝の渡しは高月の堰付近を渡る。そして拝島の宿の西側に続く。 滝山城下の町として、なぜ拝島にできたのか? 本来なら足元に作られるべきであろう。実際に、鍵折りの道で見ると旦木2丁目から戸吹の少し手前ぐらいまでだったと考えられる。 さて拝島の宿の役割は? おそらく、敵が攻めてきたときに川向うの情報早く掴むためだったのでは? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[八王子古道 ホント? ウソ?] カテゴリの最新記事
古道探索でしょうか?
以前、ナビが無い頃に拝島、福生方面に行った時滝山街道と言うのを通った記憶があります。 神奈川の人間にとってはその周辺は解りづらかったです。 (2018.12.05 17:43:56) |