ひらけ玉手箱

2013/01/14(月)11:40

『天のしずく 辰巳芳子"いのちのスープ"』トークショー 河邑監督が語る

映画(99)

『天のしずく 辰巳芳子"いのちのスープ"』東北キャラバン公開初日を記念して、  河邑監督のトークショーが行われた。 聞き手は在来野菜を紹介した『よみがえりのレシピ』の渡辺智史監督。   始めにお断りしておきたい。 これから綴る感想は、トークショーの流れを時間軸に沿ってまとめたものでも、ましてや私の記憶と妄想が形になったもので、記録として正確なものでもない。 その上でこの作品に感じた思いを受け取ってもらえたら、と思う。 天のしずく 冒頭、サトイモの葉(※1)に溜まった揺れる露を集めて墨をする(※2)幼い姉妹が登場する。 その墨で少女が書くのびやかな「天」の文字。 タイトルに続く鮮やかな導入だと思っていた。 しかし「地にあった水が蒸気となって天に昇り、雨となってまた地に降り注ぐ。天と地が、水を間にやり取りをしている、呼吸している、その循環の中に人間もいる」という監督の言葉を聞き、そうかそういう意味だったか、と何度も深く頷いてしまった。 天のしずく、恵みである水はまさに天から注がれた御露(おつゆ)として食卓に供されるのだと。 ※1 神から授かった天の水の受け皿とされていた ※2 その墨で文字を書き、習字の上達を願う、中国由来の七夕の行事 スープ教室 物語は料理家辰巳芳子さんの、鎌倉にある自宅の庭から始まる。早春。 陽があたっていてもまだ冷たい凛とした空気の張り詰めた感触まで伝わってくる。 実際の撮影は2月にスタートしたそうだが、直後に3・11震災が起きた。 聞き手の渡辺監督が問うたように、その後の映画作りに何か影響はなかったか。 河邑監督の答えに代えて、震災後1回目のスープ教室(自宅で希望者が所狭しと集って行われていた。辰巳さんの料理はこの場面から始まる)で、彼女が語った言葉を記そう。 「起きてしまったことを、もう無かったことにはできないと思うのよ」 この日の教室のテーマは緊急時の食。 「地獄炊きという言葉が意外に知られていないのね」 気になってネットで調べてみてもこれという用語が見つからない。洗った米を水でなく熱湯で炊くと早く炊きあがるという事のようだ。 食べることは生きること。偽の食では命が希薄になる、と監督は言う。 不遇の時、有事の際、食べることは生き延びること。生き延びるには知恵が要る。食べるための知恵がつまり料理の知識なのだなぁ、と思う。 命のリレーをするには、知恵もリレーしていかなければならないのに、そのバトンが今きちんと次世代へ渡されていない。 だから辰巳さんは人生の仕上げを<1>学校給食で地産地消(食育)<2>医療と食、の大きな2つのテーマにかけているのだろう。 スープの向こうにみえる実存的使命 「辰巳さんは老子のような人です」 水に映る月をすくってみろ、と禅問答のような難題を課す老子。 「もの(私)を追っかけちゃダメよ」単なるドキュメンタリーフィルムではなく、と。レシピではなく、一杯のスープの向こうに見える存在。 (余談だが、ジャパンタイムズで辰巳芳子さんを見開き2ページで紹介した記事のタイトルは「クッキング・グル(※3)」で老子に近い、とお話されていた) 「スープに共通しているものはなんだと思いますか」 突然壇上の監督から問いかけられて驚く。 「水なんです」 「水が命の源。胎児の時は80%あった水分が年を重ねるにつれて段々減っていく。水のある唯一の惑星、地球は祝福されている事を知って欲しい」 「ヒト」が「人」になる、長い時間をかけて成熟した人間になる。 「ヒト」と「人」の違いはなんだと思いますか、とまたも難題が降ってくる。老子思想は伝染するのだろうか。 「二足歩行によってヒトは両手(前足)を自由に使えるようになった。二本の手が自由になる事によって、ヒトは人にしかできない、文化を創り継承する事が可能になったんです」 辰巳さんの手は2つの大きな仕事をしているという。文章を書くこと、それから料理を作ること。作品の中で何度も大きく映し出される辰巳さんの手。この「手」が人の証し。 ※3 サンスクリット語で指導者、教師 年を重ねてはじめてわかることがある 美的センスは生来のものがあろうが、なんだろう、この透明なオーラは。 問わず語りに監督が答えをくれた。 「彼女の若さを支えているのは食事なんです。そして尽きない好奇心」 辰巳さんの肌は艶めいて美しく、勲章として刻まれた皺の一つひとつも彫刻のように見えた。お洒落なアクセサリーや品のよい服の組み合わせもすべて普段の辰巳さんで、スタイリストなどはいないという。 それほどに大切な食。自らが証し、という実践者。このサムライのような姿勢には頭が下がる。「じっとしていると死んでしまう回遊魚のように」彼女は行動する。ある時はハンセン病の島、長島へ。ハンセン病療養所・長島愛生園で親友を看取った宮崎かづゑさんの元へ。 食べ物を受け付けなくなった親友のために、宮崎さんは辰巳さんの命のスープを作り届ける。お礼の手紙が縁となり、島を訪れた二人が、海を見下ろしながら抱き合い、静かに語る。 「生きてきてよかった、とこの年になってわかりました。6年前だったらわからなかったと思います」という宮崎さんに辰巳さんが言う。 「そうですね。80歳を過ぎてから見たり聞いたりする事は全然違いますね」 渡辺監督にこの作品を撮ったきっかけを尋ねられた河邑監督はこう答えている。 「年齢(誕生日で65歳を迎えられるそうである)に関係がありますね。ある年になって、自分の体のことがすごくわかるようになった。食べるもので具合が悪くなったり。」 元々食べることには大いに関心があり、逆に好きなことを作品にすると甘えが出てしまうのでは、という躊躇いがあったという。NHKでドキュメンタリー番組を長く手がけたディレクターであった監督が、しかし、「テレビを長くやってきたからこそ、テレビでは限界があると感じ」六十歳をこえて監督デビューに踏み切ったのは、米寿を迎えてなお新しい道を求め続ける辰巳さんとの出会いが無関係ではないように思える。

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